二十七話 『火の国の一日』
広場の端から端まで、視線を走らせる。
屋台の布はすべて張られ、飾り紐も結び終わっていた。結び目を確かめる人、位置を少しだけ直す人。さっきまでの慌ただしさは薄れて、確認のための静かな動きが増えている。
「これで、大体そろったかな」
そう言って、アリエスが軽く周りを見回し、手元の飾りをひとつ箱に戻す。
「あとは、細かいところだけ」
地面に置かれた箱が片づけられ、通路が広くなる。人の流れも、自然と整理されていく。
最後の確認が終わると、広場に短い沈黙が落ちた。誰かが声を上げるわけでもない。ただ、みんなが同じものを見ていた。
張られた屋台。整った通路。揃えられた道具。どこを見ても、崩れている場所はない。
「……よしっ」
アリエスが、ぽつりと言った。それを合図にしたみたいに、あちこちから息を吐く音がした。肩の力が抜ける。誰かが笑って、誰かが軽く手を叩く。
「準備完了!」
広場の向こうで、少し大きな声が上がる。
「ありがとう、みんな!」
「あと少ししたら、始めるぞ!」
返事が飛び、笑い声が重なる。慌ただしさはもうない。代わりに、期待だけが残っていた。空を見上げると、光はすっかり昼の色になっている。火の匂いも、もう準備のそれじゃなくなりつつあった。
「ラッサル。楽しもっか!」
「うん」
祭りが、始まる。ここから先は、準備じゃない。ふと、太鼓の一打で空気が切り替わった。人の声が増える。屋台の前に人が集まり、通りの奥からも次々と人影が流れ込んでくる。
「ついに始まったね」
アリエスが、少しだけ声を弾ませて言った。
「……そうみたいだね」
返事をしながら、周りを見る。同じ場所のはずなのに、さっきまでとは全然違う。布の色が鮮やかで、音が近くて、匂いがはっきりしている。
火が入った屋台から、熱がそのまま流れてくる。人の流れに押されるみたいに歩きながら、音を聞く。笑い声、呼び込み、太鼓の音。どれもにぎやかで楽しいはずなのに、どこか一拍ずれて聞こえた。
「……ねえ」
アリエスに声をかけようとして、やめる。言いたいことが、うまく形にならない。誰かを探しているつもりはないのに、目が勝手に動いていた。
その時、ふとスパイスの匂いが鼻をついた。甘いだけじゃない。舌がひりっとしそうな、強い匂い。
「あ、見て!」
アリエスが指さす。屋台の前にオレガノが立っていた。焼き台の前で、迷いなく串を返している。火は強いのに、動きは落ち着いていた。鉄板に落ちた脂が、じゅっと音を立てる。
「いらっしゃい!」
オレガノが顔を上げる。
「辛さ、調整できるけど、どうする?」
そう言われ、僕が考え込んでいると、アリエスは迷いなく答えた。
「レベル100の、仙人もぶっ飛ぶ辛さで!」
「えっ、なにそれ……っていうか、そんなに辛くして大丈夫なの?」
「へーきへーき!」
僕の心配をよそに、アリエスは自信ありげに笑う。
「ラッサル、おまえは?」
「……じゃあ、普通で」
そう言って差し出された串は、赤い粉がたっぷりまぶされていた。肉の間から、香辛料の匂いが立ち上る。見ているだけで、喉が渇く。
「いや、僕は普通のやつを……」
「それが普通だ」
普通の基準が違った。
「辛い?」
思わず聞くと、オレガノはニヤッと笑った。
「火の国だぞ?」
アリエスと一緒に串を受け取る。手に伝わる熱が、じんわり強い。
「いただきます」
アリエスが先にかじる。
「……うっ」
一瞬、目を見開いて、それから笑った。
「くるね」
僕も続いて口に運ぶ。噛んだ瞬間、肉の旨みが広がって、そのすぐあと、舌に熱が走った。
「……っ!」
声が出なかった。というより、出したら負けな気がした。
横を見ると、アリエスは普通に食べている。……なんで平気なんだ。僕はもう一口かじって、後悔した。
「……からっ」
「でしょ」
息を吐くと、胸のあたりがぽかぽかする。額に、すぐ汗が滲んだ。
「水いる?」
「……あとで」
本当は今すぐ欲しかった。だけど、アリエスに負けたくなくて、少し強がった。
周りを見ると、同じように串を持った人があちこちにいる。辛そうに顔をしかめている人、平気そうに食べ進める人。子どもは一口で咳き込んで、大人に笑われていた。
太鼓の音が、少し離れたところから聞こえる。一定のリズムじゃない。試すみたいに叩かれて、また止まる。そのたびに、人のざわめきが揺れる。
「やっぱ、祭りって最高!」
アリエスが言う。
「うん……なんか、圧ある」
串をもう一口かじってみる。不思議とさっきよりいける気がした。辛さに慣れてくると、今度は香りの方が強く感じた。香辛料と肉の匂いが混ざって、空気そのものに味があるみたいだった。
「おかわりあるぞー!」
オレガノの声が飛ぶ。
「辛さ、調整できるからな!」
笑い声が上がる。屋台の奥では、別の串が次々に焼かれている。火が跳ねて、赤い粉が舞う。
通りを歩く人の流れが、だんだん一定になってきた。立ち止まる人、進む人。笑って、話して、食べて。誰も急いでいない。
「次、どこ行く?」
アリエスが聞く。僕は、まだ串を持ったまま、広場を見渡す。音も匂いも、人の動きも、全部が混ざっている。でも、不思議と落ち着く。準備の慌ただしさとは、全然違う。
「……ちょっと待って」
串の最後の一口を食べる。辛さが喉を通って、体の中に残る。息をすると、まだ熱い。
祭りは始まったばかりだ。でも、この一串で、ちゃんと実感できた。今日は、火の国の一日なんだって。




