二十六話 『目を覚ます火』
広場のざわめきが、また戻ってくる。祭りの準備は続いている。何事もなかったみたいに。気づけば、もう次の作業の声が飛んでいた。
作業の区切りがつくと、広場の空気が少し変わった。慌ただしさが薄れて、ざわめきが広がっていく。
「ちょっと休憩しよっか」
アリエスが言う。屋台の前では、大きな鍋が並んでいた。中では、赤茶色の木の実を砕いたものが煮詰められている。泡が小さく弾き、表面がとろりと動く。
「火蜜の下ごしらえだよ」
鍋をかき混ぜていた男が、こっちに気づいて言った。
「冷めても使えるからな。今日は量が要る」
木べらを動かすたび、鍋の底から低い音がする。甘さの奥に、わずかに苦い匂いが混じっていた。
「これ、全部お祭りで使うんですか?」
「そうそう。菓子にも飲み物にも使う。火の国じゃ定番だ」
そう言って、男はもう一度鍋を覗き込む。慣れた手つきだった。
「始まったら、食いに来いよ」
その一言で、気分が軽くなる。屋台の前では、子どもたちが落ち着きなく行き来していた。手に小さな飾りを持ったまま、どこに付けるかで揉めている。
「そっちじゃないってば!」
「こっちのほうが目立つんだよ!」
言い合いながらも、顔は楽しそうだ。結局、通りがかった大人に笑われて、二人で同じ場所に付けていた。
広場の中央では、簡単な舞台が組まれていた。楽器を運ぶ人、試しに鳴らす人。周囲の会話が一瞬だけ止まって、すぐにまた戻る。
音に合わせて子どもが跳ねた。転びそうになって、周りがどっと笑う。誰も怒らない。
「毎年、こうなるんだよ」
アリエスが小さくため息をつく。
「喧嘩しても、すぐ忘れる」
「……いいね」
「でしょ」
そう言って、アリエスは無邪気な笑顔を見せた。
少し休憩して、また動く。祭りの準備は、まだ形になりきっていなかった。
ふと火を使う屋台の一角で、作業の手が一瞬止まった。ざわめきの中に、パチッと乾いた音が混じる。
「……あれ?」
炭を並べていた人が、手を止めてつぶやいた。器の底で、小さな火種が赤く光っている。
「おかしいな」
「まだ触ってないよな」
周りにいた人たちが、顔を寄せる。僕も近づいて覗いた。炭は乾いている。風もない。なのに、赤みが消えたり戻ったりしていた。
「変だね」
誰かが言う。
「たまにあるよ。炭が乾きすぎてると」
そう返す声もあったけど、言い切る声じゃなかった。器は別の場所に移され、火の道具は一度並べ直される。位置を確認する手つきが、さっきより慎重になる。
「次から、蓋しとくか」
「そうだな」
作業はすぐに再開された。誰も大きな声を出さない。止まることもない。ただ、動きが少しだけ慎重になった。広場全体の流れは変わらない。でも、火の周りだけ、空気が張りつめている。
少し離れたところで、別の屋台の布が風を受けて揺れた。僕はもう一度、火の器を見た。今は静かだ。
「大丈夫そうだね」
アリエスが言う。
「うん……」
準備は続く。祭りは、まだ始まらない。でも、火だけが先に目を覚ましたみたいだった。




