【第5章 初火祭に揺れる心】 24話 『祭りの前の時間』
朝の光は、思っていたより強かった。夜のあいだに冷えた石畳が、日差しを受けて少しずつ温まりはじめている。歩いていると、足元からじんわりと熱が伝わってきた。
「そっち、もう少し持ち上げてー!」
「これでいいか?」
「あとちょっと! ……そう、そこ!」
大通りの方から、朝早くから人の声が飛び交っている。木を運ぶ音。金具がぶつかる音。誰かの笑い声。
「布、そっちじゃない! 赤いほう!」
「こっちか?」
「それ橙! ……まあいいや、もう持ってきちゃったならそれ使おう!」
「適当だなぁ!」
そんな声が聞こえてきて、アリエスが小さく笑った。
「もう、動き出してるね」
彼女が通りの先を指さす。店先では屋台の骨組みが組まれ、色とりどりの布が広げられていた。赤や橙の布が、低い朝日に照らされて揺れている。
「昨日より、人が多くなりそうだね」
「うん。もう、こんなにいるし……」
二人で歩いていると、今度は別の声が飛んできた。
「おーい、そこの二人! 暇ならこっち手伝ってくれー!」
「ほら」
アリエスが僕を見る。
「呼ばれたよ」
「……うん」
昨日とは違う。そう思った。昨日は、何をすればいいのかわからなかった。でも今日は、やることが目の前にある。
僕は小さく息を吸って、アリエスと一緒に声のした方へ歩いていった。
風向きが変わり、甘い匂いが流れてきた。焼き菓子の準備だろうか。そのすぐあと、香ばしい肉の匂いも混じる。音と匂いが、あちこちから重なっていた。
「祭りの日って、朝からこんなに盛り上がるんだね」
「うん。昼前がいちばん大変」
アリエスは慣れた様子で言う。
通りの端では、子どもたちが飾りを運んでいた。大きさの合わない紐を引きずりながら、笑い声を上げている。注意する大人の声が飛び、そのすぐあとに、また笑い声が返ってきた。
石畳の照り返しが、少しずつ強くなる。影が短くなり、足元の輪郭がはっきりしていく。夜の名残は、もうなかった。
「……何か、手伝えるかな」
「お、ラッサル、やる気満々じゃん」
アリエスが僕をからかうみたいに言う。
「なんかしてないと落ち着かない、っていうか……」
「たぶん、またどこかで声かかるよ」
そう言って、アリエスは歩く速度を少しだけ上げた。
朝の通りを歩きながら、僕は無意識に人の顔を追っていた。
昨日ぶつかった少年を、探しているわけじゃない。なのに――焦げ茶の髪や、乱暴な足取りに似た影が視界に入るたび、心臓が一瞬だけ跳ねた。
「ラッサル、どうかした?」
アリエスに言われて、はっとする。
「いや……人、多いなって思って」
「お祭りだもん。これからもっと増えるよ」
広場に近づくにつれて、空気の密度が少しずつ濃くなっていく。人の動きと声が重なって、ざわめきの中に引き込まれていく。
「ねぇ、誰か、手空いてる人いるー?」
屋台の前で声が上がる。アリエスの体が、迷いなくそっちを向いた。
「行こ。あれ、設営っぽい」
近づくと、木枠と布が山になって積まれていた。屋台の骨組みらしい。布には、火の国らしい赤や橙が混じっていて、畳まれていても色が強いのがわかる。
「ラッサル、これ、持てる?」
「えっ、あ、うん」
木枠を持ち上げる。思ったより軽い。でも、角が多くて扱いづらい。アリエスは布の束を抱え、器用に肩に引っかけた。
「朝はまだ楽だね」
「昼になったら、きつそう……」
そう言うと、近くで作業していた人が笑った。
「その通りだ。今のうちに動いとけよ、にいちゃん」
布を張る作業を手伝いながら、周りを見る。広場のあちこちで、同じように人が動いていた。すでに火を入れている店もあって、いくつもの匂いが混ざり合い、風に乗って流れてくる。
「ラッサル、もうちょいこっち!」
そう言われて布を引っ張ると、朝の光を受けて色が変わった。昼より淡く、でも夜よりはっきり見える。貼り具合を確かめていると、アリエスが勢いよく引っ張って、端が少しずれた。
「あ、ごめん!」
「大丈夫」
二人で位置を直す。ぴんと張った布が、軽く風に膨らんだ。
「いいね」
「うん、きれい」
布を引っ張りながら、昨日の夜を思い出していた。焚き火の温度。星の並び。アリエスの言葉。
『震えるってことは、ちゃんと燃えてるってこと』
あの言い方が、頭の奥に残っている。
「ラッサル?」
「……あ、いや……」
引っ張る手に、自然と力が入る。
布がぴん、と張った瞬間、なぜか少しだけ安心した。形になるものは、わかりやすい。ちゃんと引けば、ちゃんと応えてくれる。
人も、そうだったらいいのに――そんな考えが浮かんで、すぐに消えた。作業は単純だけど、形がちゃんと見える。
別の屋台では、小道具の箱を運んだ。中身は木製の皿や、火を灯すための小さな器。箱を持つと、カタカタと音が鳴る。
「割れ物じゃないから大丈夫だよ」
「それでも、落としたら怒られそう」
そう返すと、アリエスが小さく笑った。
広場全体が、少しずつ形を持ち始める。まだ客はいない。でも、祭りの輪郭は見え始めていた。音も、匂いも、熱も、全部まだ途中だった。
落ち着かないのに、不思議と嫌じゃなかった。汗が額に滲む。いつのまにか、火の国の空気にも慣れていた。
「一段落、かな」
「うん。まあ、まだありそうだけど」
見渡すと、やることは尽きない。でも、急かされる感じはなかった。今日は祭りの日だ。その前の時間が、こうして積み重なっていく。




