二十三話 『ちゃんと燃えてる』
少年が消えたあとも、通りはすぐには元に戻らなかった。人の声はちらほらあるのに、さっきまでと同じ距離には聞こえない。
火の明かりだけが浮いて見えて、影は長いまま動かなかった。誰かが通り過ぎても、風が吹いても、その場所だけが遅れているみたいだった。
「……行っちゃったね」
アリエスが、ぽつりと呟く。
「……うん」
返事をした瞬間、喉の奥にひやりと影が落ちた。まだ夕方で、光は残っているのに。
また――届かない。手を伸ばしても、あと一歩が踏み出せない。呼吸が浅くなる。喉は熱いのに、みぞおちは冷たい。ちぐはぐな感覚。
「……」
怖かった。あの少年のことも、魔物って言葉も。でも、それだけじゃない。追いかけたら、何かを選ばなきゃいけなくなる気がした。
正しいのかもわからない。できるかどうかもわからない。……追いつけるかも、わからない。わからないまま動くのが、嫌だった。間違えたら、取り返しがつかない気がして。
だから、立ち止まって考える。でも――あの少年は考える前に走った。それが、眩しく見えた。
「強がりなんだよ、あの子」
アリエスの声は、焚き火が小さくなる時みたいに、静かだった。僕は、何も言えない。行かないと――そう思うのに、足が動かなかった。
「……追いかけた方が、よかったのかな」
「追いかけても、怒ったと思うよ」
アリエスは、そう言って笑った。
「ラッサルは立とうとした。声も、出そうとした」
「……でも、出なかった」
彼女が、そっと僕の拳に触れる。その温度が、体の奥に落ちていく。
「ラッサル、震えてる」
「ご、ごめ――」
「震えるってことは、ちゃんと燃えてるってこと」
体の中心に、かすかな熱を感じる。
「ほら。ちゃんと火、あるじゃん」
その言葉が、静かに沈み、内側でじんわり残った。
灯りの数が、またひとつ減る。通りに残っていた人影は、離れるにつれ点々とした輪郭になって、やがて視界から消えていく。
足音は二人分。乾いた音が、地面から少し遅れて耳に届く。完全な夜の手前。昼の名残も、夕方のやわらかさも、もうどこにもなかった。
火の明かりが揺れて、握った手の影がかすかに震えた。――守る。強くなる。謝らない。その三つが、足音の間に落ちてくる。
町外れの空き地で、アリエスが立ち止まった。
「今日は、ここで寝よっか」
アリエスがあっさり言う。
「……え、ここで?」
「うん。帰ると遠回りだし」
少し間があって、彼女は空を見上げた。
「それに、ほら見て。星がきれい」
僕もつられて空を見る。
「……ほんとだ。きれい……」
返事をして、荷物を下ろす。アリエスは、火を起こすのに魔法は使わなかった。乾いた枝を組み、火打石を鳴らす。僕も手伝った。
小さな火花が散り、やがて、弱い炎が立ち上がる。勢いはない。ただ、そこにある。
焚き火を見つめていると、神殿の火とも、町の火とも違って見えた。使われるでも見せるでもなく、近づけば温かく、離れれば暗い。それだけだ。
「……静かだね」
アリエスが言う。
「うん」
炎が、枝を舐める音がする。ぱち、と小さく弾ける。そのたび、影が揺れ、また元に戻る。
「さっきの子さ」
一拍置いて、アリエスが続ける。
「強くなりたいって、ちゃんと思ってた」
「……うん」
僕が頷くと、アリエスは顎に手を添えた。それから、一瞬だけ黙った後、すぐに口を開く。
「でも、ちょっと急ぎすぎ」
「……それ、アリエスが言う?」
思わず口から出た。
「なっ……」
アリエスの頬が、わずかに引きつる。
「う、うるさい!」
「……ごめん」
「絶対、悪いと思ってないでしょ」
そう言って、アリエスは少しだけ頬を膨らませた。
焚き火は何も答えない。ただ、一定の距離を保って燃えている。
僕たちは地面に横になり、空を仰ぐ。星は多い。数も、明るさも、昔と変わらないはずなのに、どこか足りない気がした。
目が勝手に、見慣れた並びを探してしまう。あるはずの星座が、途中で途切れている。思い出すより先に、欠けているとわかる。
星座の名前を呼ぼうとして、やめた。そこにないものを数える癖が、まだ残っていた。その事実だけを残して、夜は静かに進んでいく。
しだいにまぶたが重くなり、星の光が、ゆっくり滲んだ。




