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22話 『強くなりたい理由』

 甘味屋を出た瞬間、空気が少し変わった気がした。


 さっきまで暑かったのに、足元の熱がすっと引いていく感じがする。まだ空は夕焼けみたいな色残っているのに、影だけやけにくっきりしてきてて、石畳の隙間が妙に黒く見えた。


 人もだんだん少なくなってきて、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静かになる。風が吹き、路地の奥からひんやりした空気が流れてくる。吐く息が、白くなるほどではない。でも、確実に冷たい。


「そろそろ、夜、来るね」


 アリエスが小さく言う。


「うん」


 それだけ答えて、僕は無意識に肩をすくめた。


 甘い匂いも、香辛料の刺激も、もう後ろにある。明かりと明かりの間が、少しずつ広くなる。そのたび、足元の影が濃くなる。


 アリエスの歩幅が、ほんのわずかに揃う。何も言わない。でも、同じものを感じている気がした。


 大通りから一本外れると、明かりの数がぐっと減った。店先の灯りは途切れ、代わりに壁に掛けられた小さなランプが、間隔を空けて並んでいる。光と光の間には、確かな暗さがあった。


 足音が、二人分しかないことに気づく。さっきまで当たり前だった雑音が消え、代わりに、自分の呼吸がはっきりわかる。


「こっち、近道だったはず」


 アリエスが路地を指す。


 昼間に通ったときより、道が狭く感じた。壁が近く、空が遠い。影が足元を引き延ばして、先の見えない方向へ続いている。


 遠くで、火が弾けるような微かな音。町はまだ起きているはずなのに、この路地だけ、時間が一拍遅れている気がした。肩のあたりに、薄い緊張が張りついてくる。


「早めに戻ろっか。明日はお祭りだし」


 アリエスが、いつもより少し低い声で言った。


「そうだね」


 答えながら、僕は前を見る。路地の奥は暗く、灯りの輪郭が歪んで揺れていた。誰かがいるわけじゃない。それでも、空気が、これから何かが起きそうな匂いに変わりつつある。


 夜へ向かう、その途中。街のざわめきと完全に切り離されるほんの境目に、僕たちは足を踏み入れた。


「……ねえ」


 声を出そうとして、やめた。ただ、今は、余計な音を足したくなかった。アリエスも何も言わない。だけど、歩幅がほんのわずかに揃った。


 視界の端で、影が揺れた気がした。人影かもしれないし、ただの灯りの反射かもしれない。それでも、心臓のあたりが、きゅっと縮む。――また、何かが起きる気がした。その瞬間、前を見るのが怖くなった。


 その時、ドンッと、体の奥に鈍い衝撃が走った。体が半歩横に流れる。


「わっ……!」


 踏み出しかけた足が遅れ、靴底が石に擦れる。体勢を立て直すまで、ほんの一瞬、視界が遅れてついてくる。足元に、小さな影が転がっている。


「……っ」


 尻もちをついたまま、こっちを睨みつける少年。赤い瞳。焦げ茶の髪。夕方の火の光を受けて、その瞳だけがやけに鋭く見えた。


「……おい、どこ見て歩いてんだよ!」


 怒鳴る声は強い。だけど、拳を握る指先がわずかに震えている。


「ご、ごめん……大丈夫?」


 反射的にそう言った瞬間、少年の眉が、ぴくりと動いた。


「……謝んなよ」


 噛みつくような声。でも、最後の一音だけ、ほんの少し揺れた。


「でも、ぶつかったのは僕のほうだから」


「だから……っ!」


 少年は唇を噛みしめる。


「謝るとか、ダセぇだろ! おれ、弱いやつ嫌いなんだよ!」


 抑えていたものが、言葉と一緒に飛び出す。勢いは火みたいなのに、芯が定まっていない。風に煽られる炎みたいだった。


「ちょっと!」


 アリエスが一歩、前に出る。金色の髪が弾むように揺れた。


「ラッサルは悪くないでしょ。そっちから来たじゃん!」


「う、うっせー……!」


 言い返しながら、少年は視線を逸らす。肩が、小さく震えていた。僕は言った。


「その、怪我してない?」


「さ、触んな!」


 手を払う。けど、その手が少し震えている。アリエスが顔をしかめる。


「そんなに怒らなくても――」


「怒ってねぇ!」


 声が裏返る。炎の勢いが、少しだけ落ちる。


「……弱いと、守れねぇから」


 その一言だけは、嘘には聞こえなかった。アリエスが、小さく息を呑む。


「守るって、誰を?」


 少年は一瞬だけ俯き、それから胸を張るように顔を上げた。


「……姉ちゃんだ。姉ちゃんには、おれしかいねぇんだ」


 握りしめた拳のそばで、小さな赤い布切れが揺れた。それを、ぎゅっと掴む。……あれ。あの布、どこかで――。そう思ったとき、少年が強く言った。


「だから、おれは強くなる」


「……っ」


 ――胸の内が、ひどく痛む。何もできなかった自分。古い記憶が、静かに疼いた。


「行ってくる。魔物、倒しに」


「えっ……!?」


 アリエスの声が跳ねる。


「危ないよ!」


「ほっとけ! おれはできる!」


「ちょっと、待って――!」


 少年は振り返らず、炎の灯る通りへ駆け出した。その背中は、まっすぐで、見ているだけで、胸が詰まった。


 ――追いかけたい。でも……伸ばしかけた手が、途中で止まる。みぞおちが、きゅっと縮む。息が、うまく吸えない。少年の背中が揺れ、火の向こうに溶けていく。

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