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二十一話 『夜が来るから』

 店を出ても、布屋の中の静けさがまだ耳の奥に残っていた。外は賑やかなのに、その音が一枚薄い布を挟んだみたいに遠い。


「……さっきの店、いいな」


 何気に呟く。アリエスが僕を見る。


「布、好き?」


「あ、いや、好き……というか」


 少し考える。


「なんか、安心する感じがして」


 アリエスは納得したみたいに頷いた。


「火の国だとそういう場所って少ないけど、意外と大事なんだよ」


「そうなの?」


「うん。ずっと強い火に当たってると、判断も強くなりすぎるから」


 強くなりすぎる。その言葉が、胸に引っかかった。正しいか、間違っているか。できるか、できないか。白か黒か――。


「……じゃあ、弱いままでいられる場所ってこと?」


「そうそう」


 アリエスは笑った。


「弱いって、悪くないでしょ」


 すぐには答えられなかった。でも、その問いが残ったままでも不思議と嫌じゃなかった。


 通りの灯りは、一斉には点かなかった。早い店がひとつ、少し遅れてまたひとつ。


 影が消えるんじゃなくて、形が変わっていく。人の足取りも同じで、急ぐ人と立ち止まる人が、ゆっくりと分かれていった。


 染料と布の匂いが薄れていく。その代わりに、別の匂いが夕暮れの空気に混じってくる。


「……ん」


 アリエスが、わずかに足取りを緩める。


「いい匂い」


 芋みたいな、甘い匂い。


 通りの角に、小さな屋台みたいな店があった。派手な看板はない。低い火台の上で何かを焼いていて、鉄板から立ちのぼる湯気が夕方の光に揺れている。火は強すぎない。静かに、同じ熱を保っていた。


「寄ってく?」


 振り返りながら、アリエスが言う。


「そうだね」


 断る気にはならなかった。さっきまで歩き続けていた足が、そのまま止まった。店主は年配の男で、忙しそうに手を動かしながらも、こっちを見ると軽く顎を上げた。


「甘いの、少しだけならあるよ」


 それだけ言って、鉄板の上の焼き菓子をひっくり返す。じゅっと小さな音がして、甘い香りが強くなった。


「焼き菓子、二つください。飲み物はソーダで」


 アリエスが迷いなく言う。


 渡されたのは、掌に収まるくらいの小さな焼き菓子だった。表面はこんがりしていて、持つとじんわり温かい。紙に包まれただけなのに、手に持つと落ち着いた。


「熱いから、気をつけて」


 店主のその一言が、妙にやさしく聞こえた。


 通りの端に寄り、二人で並んで立つ。行き交う人の流れから半歩外れると、音の重なり方が変わる。遠くの呼び声はぼやけ、近くでは火の小さなはぜる音だけが残る。


「……いただきます」


 アリエスが先にかじる。


「あ、甘い」


 僕も小さくかじる。


 思ったよりも素朴な味だった。砂糖の強さじゃなく、火で焼かれた生地の香ばしさが先にくる。ほのかに芋の味がする。焼き芋みたいな、そんな落ち着く味。


 口に残る温度が、少しずつ下がっていく。その変化で、夜が近づいている気がした。


「てかさ」


 アリエスが言う。


「神殿の近くだと、なんか緊張してお腹空かなかったけど、実はめっちゃ空いてたのかも」


「……それ、ちょっとわかるかも」


 神殿で感じていた火は、ずっと体の外にあった。近づくほど、意識が張りつめて、何かを口に入れる余裕がなかった。


「町の火はさ」


 アリエスが、紙袋をくるくると回しながら言う。


「ちゃんと休ませてくれる感じがして、好き」


 焼き菓子の温かさが、指先からゆっくり伝わってくる。熱すぎない。冷めきってもいない。その中途半端さが、今の時間によく合っていた。


「……夕方だから、かも」


 僕がそう言うと、アリエスがこっちを見る。


「うん。たぶんね」


 空はもう、昼の色をほとんど残していない。赤と橙の境目が溶け合って、通りの影が少しずつ濃くなっている。


 それでも、店先の火や、屋台の明かりが、町を完全には暗くしない。火を見ているというより、火に任せているみたいな距離だった。


「さっきさ」


 アリエスが、ふと思い出したみたいに言う。


「サラサが言ってたこと、ちょっとわかる気がする」


「え?」


「昼と夜の間に、ちゃんと息つける時間があるってやつ」


「あ、うん……たしかに」


 焼き菓子を食べ終え、紙を丸める。甘さが喉に残って、思わず深く息を吸った。空気はまだ温かいけど、さっきより軽い。


「……このまま、ずっと夕方だったらいいのに」


 アリエスが冗談めかして言う。


「それは……」


 少し考える。


「それで、落ち着かないかも」


「だよね」


 彼女は笑った。


「夜が来るから、夕方がいいんだもんね」


 屋台の火が、ぱちっと小さく音を立てた。通りの向こうでは、灯りがひとつ、またひとつと入っていく。人の流れも、少しずつ変わり始めている。


「行こっか」


 アリエスが、歩き出す。


 甘い匂いは、数歩離れるだけで薄れていった。代わりに、夜に近づく町の匂いが戻ってくる。さっきよりも静かで、少しだけ冷たい。その落差が、なぜか心地よかった。

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