二十話 『夕暮れの布屋』
香辛料屋を離れて歩くと、通りの色が少しやわらいだ。石畳の赤が薄くなって、店先の布の影が夕方の光の中で揺れている。風が吹くたび、布が擦れて、乾いた音がした。
「あ」
アリエスが足を止める。
「ここ、前に来たとこだ」
見覚えのある布屋だった。木枠の扉の前に、布が何枚も垂れている。赤や橙、見たことのない色も混じっている。火の国らしい強い色もあれば、夜に近い落ち着いた色もあった。
「あれ――」
店の中から声がして、布屋のお姉さんが顔を出す。
「君たち、また来てくれたんだ」
前と同じ、ゆったりした笑顔だった。左右でまとめた、やわらかいピンクの髪。結び目に、小さなリボン。白い服には、袖や裾に細かい刺繍が入っている。布を扱う人らしく、服そのものが店の一部みたいに見えた。
「夕方は光が違うから、布も違って見えるでしょ」
「ほんとだ」
アリエスが嬉しそうに頷く。
「昼より、色がやさしい」
店先に入ると、外より少し涼しかった。布に染み込んだ染料と、乾いた繊維の匂いが混ざっている。なんとなく落ち着く匂い。
僕は一枚の布に触れる。さらっとした感触。持ち上げると、見た目より少しだけ重かった。その重さに、少しだけ安心した。
「それは旅向きだよ」
布屋のお姉さんが言う。
「火に近づいても焦げにくいし、夜もそこまで冷えない」
「へえ」
アリエスが布を持ち上げ、光に透かす。
「火の国はね、暑いだけじゃないから」
お姉さんは笑って、別の布を差し出す。
「夕方から夜は、体が思ったより冷えるんだ」
その言葉に、さっきまでの神殿の熱が遠いものに感じた。町の火は、それとは違って見えた。
「ラッサル、どれが好き?」
アリエスに聞かれて、棚を見渡す。強い赤より、少しくすんだ橙が目に留まった。夕焼けの残りみたいな色だった。
「……これ」
「見る目あるね」
お姉さんが頷く。
「派手じゃないけど、長く使えるよ」
布を戻しながら、お姉さんは通りの方をちらりと見る。
「この時間、わりと好きなんだ。昼の忙しさが落ち着いて、夜の前の静けさに変わるから」
通りを見たままのお姉さんの横顔は、忙しい朝よりもずっと穏やかに見えた。店の中も、なんとなく静かになった気がした。
お姉さんがこっちを振り返る。
「改めてだけどね」
彼女は軽く手を腰に当てて、にこっと笑った。
「私、サラサ。ここ、この布屋やってるの」
「私はアリエス!」
すぐに名乗って、アリエスは布を抱えたまま振り向く。
「こっちはラッサル」
「よろしく」
サラサは穏やかに頷いた。
「二人とも、前にも来てくれたでしょ。顔、覚えてた」
そう言われて、少し驚く。町の店は忙しいはずなのに、ちゃんと覚えてくれているらしい。
「ラッサルくんの方は、旅人さんかと思ったけど」
サラサは棚に布を戻しながら言う。
「歩き方が、ちょっと違うなって。まだ町に慣れてない感じ」
「……わかるんだ、そんなこと」
「わかるよ」
あっさり言って、彼女は笑う。
「布も同じ。慣れてない人は、派手なの選ぶんだよ。慣れてくると、自分に合う重さを探すようになる」
アリエスが手に持っていた布を見下ろす。
「私、これ好きかも」
「うん。いい選び方」
即答だった。
「使うほど、良さが残る色だね」
その言葉に、アリエスは少し照れたように笑う。僕は別の布に触れた。昼より、指先がよくわかる気がした。暑さも冷えもない、この時間だからかもしれない。
「夕方って、なんか不思議だな」
思わず言うと、サラサはうん、と頷いた。
「火の国は特にね。昼と夜の間に、ちゃんと休める時間がある」
それから、通りの方に目を向ける。
「この時間に来る人ってあんまり急いでなくて、なんか好きなんだ」
外では、灯りがひとつずつ入っていく気配がある。店の中はまだ明るくて、でも確実に、夜に近づいていた。
「焦らなくていいよ」
サラサはそう言って、布を整える。
「見るだけでも、触るだけでも」
その言葉に、肩の力が抜けるのを感じた。布屋の中には、急ぐ理由がなかった。




