【第四章 強がりの少年】 十九話 『火の国の夕暮れ』
火口から離れるにつれて、熱は少しずつ弱くなっていった。刺すようだった空気が、いつの間にかただの暑さに変わっている。
足元の赤土はまだ温かい。けど、さっきまでの張りつめた感じはもうない。靴の裏に残っていた感覚も、歩くたびに少しずつ薄れていった。
「戻ってきたね」
アリエスはそう言って、肩を軽く回した。
「やっぱり町の方が落ち着くなぁ」
門をくぐった瞬間、視界が開けた。夕陽が低い角度から差し込み、建物の壁を赤く染めている。
金属を打つ音、呼び込みの声、笑い声。香辛料と焼いた匂いが風に乗って流れてくる。さっきまでいた火口とは、まるで別の場所みたいだった。
通りには人が行き交っていた。煤のついた手で道具を抱える鍛冶師。布を畳みながら客と話す店主。子どもを引き寄せる親の声。みんな、当たり前みたいに動いていた。
袋の中で、集めた素材が触れ合う。色砂はさらりと流れ、香木の乾いた匂いがふっと立つ。小さな鉱石は、揺れるたびに重さを感じる。さっきまでの火口の張りつめていた空気が、少しずつ遠くなる。
「……夕方って、いいね」
ふと僕が漏らした言葉に、アリエスが振り返る。
「でしょ?」
少し得意そうに笑った。
「火の国はね、この時間がいちばんきれいなんだよ」
空の色が、赤から橙へ、橙から深い金へとゆっくりほどけていく。夜はまだ遠いのに、町はどこか静かになっていた。
通りを進むと、空気の匂いがふっと変わった。焦げた土と鉄の匂いに混ざって、香辛料の強い匂いが鼻に残る。
その先に店があった。開け放たれた扉の向こうには、棚いっぱいに袋が積まれている。赤、黄、深い橙。粉が動くたび、夕方の光を受けて細かくきらめいている。
「お、来たか。今ちょうど店仕舞いの準備してたとこだ」
奥から声がして、香辛料屋のお兄さんが顔を出す。そして、籠を抱えたまま、軽く顎を上げた。
赤い髪は夕日の色を吸って乾いたように見える。首元や腕には、働き続けた名残の汗がうっすら浮かんでいた。動きやすい簡素な上着に、布を腰に巻いただけの軽い格好だ。
「今日はちょっと匂い強いの多いけど、大丈夫か?」
聞かれて、アリエスが即答する。
「へーき、へーき! ね、ラッサル?」
「平気……だと思う」
そう答えた直後だった。お兄さんが別の袋を持ち上げた拍子に、籠の縁が棚に引っかかった。
次の瞬間、袋が傾く。ガサッ、と乾いた音がして、赤や黄色の粉が一気に舞う。床に広がると、夕方の光を受けてきらきらと浮いた。
「うわっ、やっちまった!」
お兄さんが笑い混じりに声を上げて、すぐに籠を下ろす。
「ま、これくらいよくある」
慌てながらも、動きは妙に手慣れている。落ちた袋を片手で押さえながら、もう片方で粉をかき集める。
「手伝うよ!」
アリエスがすぐにしゃがんだ。僕もそれに続いて床に手を伸ばす。指先に触れる粉はさらさらしているのに、どこかじんわりと熱を持っている。
「うっ……くるな、これ」
「だろ。火の国仕様だからな」
お兄さんは短く笑ったまま、散らばった袋を次々まとめていく。
「ほら、終わり終わり」
数分もかからず、床は元に戻った。
「なんとかなった」
軽く手をはたきながら、お兄さんが言う。
「この時間、風もあるしな。あっという間に飛び散るから、大変なんだよ」
アリエスが顔を上げる。
「でも、いい匂いだったよ。ちょっとびっくりしたけど」
「だろ? それ目当てで来るやつもいる」
そう言って笑うと、店の奥を親指で軽く指した。
「いやぁ、でも、ほんとさっきはありがとな。おかげで助かったわ」
それだけ言うと、もう店の奥へ視線を戻した。
「祭り前で、仕入れも多くてな」
お兄さんは通りに目をやる。夕方の光の中、人の流れが少しずつ増えてきていた。
「火使う商売は、この時間が一番気ぃ使うんだよ。人も増えるし、匂いも広がるしな」
「でも、賑やかでいいよね」
アリエスがそう言うと、お兄さんは軽く笑った。
「だな。静かすぎるより、こっちの方が落ち着く」
少し間を置いてから、ふと思い出したように口を開く。
「あ、そういや名乗ってなかったな」
袋を持ち直しながら、軽く顎を上げる。
「俺、オレガノ。見ての通り、香辛料屋」
「私はアリエス、火の魔法使い!」
「僕は……ラッサルです」
名前を言うと、オレガノは小さく頷いた。
「よろしく。――ところで二人とも、今日は来るの遅かったけど、今までどこ行ってたんだ?」
「素材集めをしてたの。神殿のほうで」
その言葉に、オレガノの眉がわずかに動く。
「えっ……あっち行ってたのか」
一瞬だけ間を置いてから、軽く言う。
「夕方は気をつけろよ。あそこ、地面の調子変わるからな」
オレガノは笑っていた。だけど、その目だけは笑っていなかった。
僕は足元の石畳を踏みしめる。さっきまでと同じはずなのに、どこか違う気がした。気のせいかもしれない。でも、無視できる感じでもなかった。
「うん、ありがとう」
僕が礼を言うと、オレガノは手を振った。
「いいって。また来いよ。匂い強いけどな」
「覚悟して来るよ」
アリエスはそう言って笑った。




