十七話 『帰らなくてもいい』
少し奥へ進むと、天井の低い小部屋に出た。壁と壁の隙間から、かすかに風が入ってくる。
「ここ、なんか落ち着くね」
アリエスが小さく言った。
確かに、他の場所ほど熱が荒れていない。空気はぬるく、微かに乾いた匂いが混じっている。湿り気は少なく、音も吸い込まれるように静かだった。
壁際や床の割れ目には、光を含んだ小石が点々と散らばっている。水晶みたいに透明なものもあれば、内側に赤い火種を閉じ込めたような鉱石もある。
「これが小道具用の素材?」
「うん。大きいのじゃなくて、こういうの。加工しやすいんだよ」
アリエスは指先を壁にかざし、短く魔法を走らせた。淡い光が広がり、石の表面に熱の流れが浮かび上がる。
「この辺は大丈夫そう。触っても、じんわり温かいくらい」
「じゃあ……」
僕はしゃがみ込み、床に手を伸ばした。目よりも指先の感覚を頼りにする。ざらつき、ひんやりした部分、ほんのり脈打つような温度――その違いを確かめながら、小石を拾い上げていく。
拾い上げた石を、袋に入れようとして――一瞬、手が止まった。何をしていたのか、わからなくなる。
……いや、そこまでじゃない。でも、指先に力が入りきらない。袋の口が少し開いたままになる。気のせいだと思って、そのまま石を落とし入れた。
小石を採集した僕たちは、通路をいくつか曲がり、素材が取れそうな場所を確認しながら進んでいく。壁の割れ目には、赤く結晶化した鉱石が顔を出している。
「……ねえ、ラッサル」
アリエスが、少しだけ歩調を緩めた。
「……なんかさ」
拾った石を袋に入れかけて、少し止まる。
「楽しいし、まだ体力はあるんだけど……」
そう言いかけて、アリエスは結局、そのまま石を袋に入れた。
「……」
僕も、何か返そうとした。だけど、何を言えばいいのか分からなかった。気がつくと、袋の口も、きちんと結ばないまま手が離れていた。
途中、分かれ道のひとつ、細く伸びた通路の奥で、ふと足が止まった。暗い。ただ暗いだけじゃない。さっきまでと、空気の重さが違う。
「……アリエス」
呼びかけると、アリエスもすぐに気づいたらしく、足を止め、周りを見る。
「やっぱり、なんか変だよね」
「うん……」
アリエスの火が、壁を照らす。――火が揺れない。風がないからじゃない。燃えているのに、まったく動かない。
「……あれ?」
思わず声が漏れる。さっきまで急がなきゃと思っていたのに、その気持ちが少しだけ遠のいていた。止まっている理由がないのに、動かなくてもいい気がしてくる。
さっきまで当たり前にできていた判断が、曖昧になる。これで合っているのか、それとも違うのか。考えようとするたびに、頭の中がぼやけた。もう、何をしに来たのかさえ思い出せない。
帰る理由が、最初からなかったような気がした。ここにいるのが間違いではない、という感覚だけが残る。
「……なんか」
アリエスが小さく呟く。
「ちょっと疲れたね」
その声はいつもより遅かった。笑っているのに、いつもみたいな勢いが薄れている。
「ねぇ、ラッサル」
「ん、なに?」
「もう……帰らなくてもよくない?」
その言葉が響いた瞬間、アリエスの金色の髪が、まるで黒いインクを落としたみたいに、根元からじわじわと色を失っていく。
「……どうしたの、アリエス」
思わず聞き返す。アリエスは暗い通路の奥を見つめたまま、ぽつりぽつりと言葉を落としていく。
「だってさ、外って危ないじゃん。火の町も、魔物も」
火が――揺れない。アリエスの指先に浮かんでいる小さな火球は、たしかに燃えているのに、風のない絵みたいに止まっていた。
「失敗して、魔物に殺されるかもしれないしさ。そんなの怖いでしょ?」
「……それは」
何か言おうとして、言葉が続かなかった。――失敗する。その響きだけが、妙にはっきり胸に残る。
「僕は……」
喉が少し乾く。――怖い。旅に出てから、忘れていた感覚だった。でも本当は、ずっと怖かった。また誰かを失うかもしれない。また届かないかもしれない。また、自分だけ残されるかもしれない。
夜の崖が頭をよぎる。伸ばした手。離れていく、リラの背中。
「もういいじゃん」
アリエスが振り返る。その笑顔はいつもと同じ形なのに、どこか違って見えた。彼女の瞳の中の光が、火のぬくもりを捨て、無機質な灰色の虚無に塗り替えられていく。
「旅なんてやめようよ」
黒い影が、足元からじわりと滲んでいる。
「ここ、静かだし。あったかいよ」
その言葉に、胸の奥がゆっくり沈んでいく。旅を止める。まるで、諦めみたいな言葉だ。でも――少しだけ、安心してしまいそうになる。
「……そう、かも」
口から出た言葉に、自分で驚いた。本当に、そう思っているのか。それすら、もう分からなかった。
頭がぼんやりする。何をしに来たんだっけ。……帰る? どこに? いや、ここにいればいいんじゃないか。そうしてしまえば、もう誰も失わなくて済む気がした。
「ね?」
アリエスが一歩、奥へ進む。影が濃くなる。火の色が暗い煤みたいな色へ変わっていく。
「無理して進むから、苦しくなるんだよ」
その声が、胸の隙間に入り込んでくる。違和感があるはずなのに、否定できない。それは――今までずっと、自分の中にあった感覚だった。
「ラッサル、ほんとは頑張るのとか嫌いでしょ?」
足が止まる。このまま座り込んでしまいたかった。そのときだった。――ピィッと、遠くで、小さな鳥の声が響いた。びくっと肩が揺れる。
「……え」
今の声。頭の奥で、何かが引っかかった。夜明け。赤い町。肩にとまった、小さな鳥。フレイヤ鳥だ。
『火の気配に引き寄せられるって言われてる鳥なんだよ!』
『ラッサルのこと、ちゃんと分かってるんだよ』
アリエスの明るい声が、記憶の中で蘇る。その瞬間、胸の奥にまとわりついていた重さが、ほんの少しだけ剥がれた。
「……違う」
思わず呟く。
「え?」
アリエスがゆっくり振り返る。黒い影が、その動きに合わせて揺れた。
「違う……これは」
頭の中がざわつく。怖いのは、本当だ。でも――これは、僕が望んでいることじゃない。アリエスだって、きっと――
「だめだ、アリエス!」
叫んだ瞬間、空気がびり、と震えた。アリエスが大きく目を見開く。
「……っ」
火が揺れる。止まっていた炎が、ようやく息を吹き返したみたいに揺らめいた。黒い影が、霧みたいに薄れていく。
「……あれ?」
アリエスが瞬きをする。
「私……」
一瞬だけ、視線が奥へ向いた。まだ少しだけ、引かれているみたいに。けれど彼女は小さく息を吐いて、首を振る。
「なんか、変だったかも」
そう言って、ふっと力を抜いた。気がつくと、アリエスの顔は、元通りの明るい表情に戻っていた。
でも、僕はまだ、胸に張り付いた冷たさが消えていなかった。本当に正しかったのか、自信はない。ただ、この先へ進んではいけない。それだけは、はっきり分かっていた。
「戻ろ!」
そう言って、アリエスはくるっと背を向ける。
僕は一拍遅れて、その後ろを追った。通路から離れるほど、さっきの妙な静けさが少しずつ遠ざかっていった。




