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十六話 『なくしたもの、拾うもの』

 神殿の回廊を抜けると、視界がふっと開けた。


 天井は途中で崩れ落ちていて、そこから光が差し込んでいる。石の床には苔が広がり、ところどころ淡く光っていた。乾いた石の隙間に、植物だけが妙に生きている。


 そこは建物というより、中に別の場所ができてしまった空洞みたいだった。


「……ここ」


 アリエスが小さく息を吐いた。


「火の流れ、落ち着いてる。嫌な感じもしない」


 言われてみれば、さっきまでの張りつめた気配が少し薄れている。熱はあるのに、肌を刺してくるような圧はない。歩くたびに、湿った土の匂いが混じってきた。その奥に、言葉にしにくい匂いが紛れている。


「……なんか、変な匂いしない?」


 焦げた木とも、土とも違う。嫌ではないのに、妙に引っかかる感じだけが残る。僕がそう口にした瞬間、アリエスが前を指差した。


「ほら、あれ」


 指の先には、黒褐色の木が立っていた。幹には細く赤い筋が走っていて、近づくほど香りが濃くなっていく。甘さと熱が混ざったような匂い。


「これか……」


 手を伸ばしかけて、思わず止まる。木の根元、苔の影がわずかに揺れたように見えた。


「……今、何か動かなかった?」


「え?」


 次の瞬間、ばさっ、と軽い音が弾けた。苔の間から、小さな影がいくつも飛び出す。


「わっ、なに!」


「ヒマモリリスだよ!」


 赤茶色の小さなリスが数匹、木の周りを跳ね回っている。尻尾の先が淡く光っていて、動くたびに小さい火花みたいな光が散った。リスは木のかけらを咥えて走り出す。


「ちょっと! それ、祭りの素材なんだけど!」


 アリエスが叫ぶ。リスたちは数歩進んだところで止まり、何事もなかったみたいに立ち尽くしたかと思うと、また同じ方向へ駆け出した。


「……っ、こうなったら……」


 アリエスが手を払うと、橙の光がふわっと散った。火の蝶がリスの進路を塞ぐように舞った。だけど、完全には止まらない。リスは一瞬固まって、また動き出そうとする。


「ラッサル、今!」


「うん!」


 急いでしゃがみ込み、散らばった木片を拾う。気づいたときには、リスたちはもう興味を失ったように、中庭の奥へと走り去っていった。


「ふぅ……」


 息をつく。すると、隣でアリエスが得意げに笑った。


「あの子たち、びっくりしたかな」


「……かもね」


「でもまあ、怪我はさせてないし、セーフ!」


 拾った木のかけらを袋に入れながら、周囲を見回す。光る苔の間を、火の蝶がまだ数匹ゆっくり漂っていた。天井の割れ目から漏れ出す光と重なって、地面の上が淡く揺れて見える。


「神殿の中なのに、外みたいだね」


「うん。火の国って、こういうところあるんだよ」


 アリエスは肩をすくめた。


「危ない場所ほど、ちゃんと生き物が根を張ってる」


 袋の中で、木片が触れ合う音がした。必要なものは、もう大体揃っている。残るのは、あと一つ。


「さ、次行こ!」


 そう言って、アリエスは先に歩き出した。


 神殿の通路をいくつか抜けた先で、空気が変わった。暑い。それだけじゃない。妙に重い。足を踏み出すたびに、息が少しだけ引っかかる。


 見下ろすと、黒い石に赤黒い筋が走っていた。脈みたいで、ちょっと気味が悪い。


「ここだね」


 アリエスが低く言った。


 神殿の奥は、暗い空間へと続いていた。通路というより、岩の裂け目がそのまま広がったような場所だった。天井は高く、岩肌には細かな結晶が無数に埋め込まれている。


 近づくと、それらがかすかに光を返した。火の粉の名残みたいな、小さな赤や橙の点が、壁や天井に散っている。


「……きれい」


 思わず声が漏れた。


「火の結晶だよ。溶けた岩が冷えるときに、たまに残るやつ」


 アリエスはそれを横目で見ながら、何でもないことみたいに言った。


「触っちゃダメだよ。意外と熱いから」


「そうなの?」


「うん。私、前に触ってやけどしたことあるし」


 頷いて、足元に意識を集中させる。神殿の中は場所によって温度が違った。立っていると、靴底越しに熱が伝わってくるところもあれば、ほとんど何も感じないところもある。


 目的の色砂は、神殿の奥まった一角に溜まっていた。火山灰と鉱石の粉が混ざり合い、赤茶色から金色へと微妙に色を変えている。光を受けると、砂の一粒一粒が淡くきらめいた。


「これ、だよね」


「うん。下のほうは普通の灰が混ざってるから、上の層だけね」


 僕はしゃがみ込み、袋を広げる。砂に触れると、かすかな温もりが伝わってきた。慎重に、少しずつすくっていく。


「……結構集まったよね」


 僕が袋を持ち上げながら言うと、アリエスが中をちらっと見て頷いた。


「うん。これだけあれば十分!」


 アリエスは軽く笑って、袋の口を結び直した。


「よし、じゃ戻ろっか」


「え、せっかく来たのに、もう?」


「うん。火口の機嫌がいいうちに帰ろ」


 そう言って歩き出す。そのときだった。足元の空気が、ふっと揺れた。ほんの一瞬、視界がぶれる。その瞬間、僕が持っていた袋がかすかに跳ねた。


「あ――」


 慌てて袋を掴む。けれど、砂が石段の縁を越えて、暗い裂け目へこぼれ落ちた。


「大丈夫!?」


 アリエスの声がすぐ横から飛んだ。


「……ごめん」


 気づいたときには、そう言っていた。指先がまだ空を掴んだまま止まっている。今のことなのに、どこか感覚が遅れていた。


「ちゃんと持ってた、はずなのに……」


 声がうまく続かない。そのとき、ふと記憶が重なった。夜の崖。風の強い場所。指先の向こうで離れていく、リラの背中。届かないまま終わった手。


「……っ」


 息が一瞬だけ詰まる。今と昔の境目が、ほんの少しだけ曖昧になる。


「……僕は」


 言いかけて、喉が止まる。


「やっぱり……」


 ぽつりと落ちた。その言葉を拾うみたいに、アリエスがすぐ横にしゃがむ。


「大丈夫だよ」


 迷いのない声だった。明るいまま、少しだけ笑っている。


「落ちるときは落ちるし、そういうの、普通でしょ」


 軽く言って、指先で石段を示す。


「ほら、まだこっち残ってるし」


「……でも」


「でもじゃない」


 アリエスはそのまま手を伸ばして、こぼれている砂をすくい上げた。


「今ので全部終わりってわけじゃないじゃん」


 その一言が、少しだけ現実に戻してくる。裂け目の奥は見えないままだ。でも、今いる場所はここだ。


「ほら、ぼーっとしてるとまた取られるよ」


 いつもの明るい声だった。さっきの重さを引きずらないようにするみたいに、軽く言う。


「……うん」


 僕もゆっくりしゃがみ込んだ。手の届く範囲から順に拾っていく。


 神殿の角に手を伸ばすと、残っていた砂がまだわずかに光を返している。手のひらで慎重にすくい上げる。アリエスも隣で同じように手を動かしていた。


「こういうのもさ」


 アリエスがぽつりと言う。


「ちょっといいよね」


「え?」


「だって、全部上手くいっちゃったらつまんないじゃん?」


「……そうかな」


「そうだよ」


 迷いのない声だった。


「それに。なくなった分は、また拾えばいいし」


 そう言って、裂け目の方へ身を少し乗り出す。その動きにつられるみたいに、さっきまで張りつめていたものが少しだけほどけていく。


 僕は袋の重みを確かめた。まだ手の中にある、それだけで少し落ち着いた。

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