十二話 『もう魔法は使わないって』
しばらく街を探索しているうちに、日が傾いてきた。少し暑さが引いてきた頃、アリエスがにっこり笑った。
「ラッサル、今日は私の家に泊まっていけばいいよ」
僕は一瞬固まった。知らない町で、しかもまだよく知らない相手の家。
「……ほんとに?」
「うん、心配しないで。お母さんもいるし!」
「……そういう問題じゃない気もするけど」
そう言いながらも、断る理由はうまく見つからなかった。
赤土の道を外れると、すぐに小さな家があった。白い壁が夕陽を吸って、ぼんやりと橙色に染まっている。
「ここが、私の家!」
扉が開いた瞬間、木の匂いと火の気配が混ざって流れてきた。外とは違う空気に、肩の力が少し抜ける。
「ほら、入って」
中に入ると、アリエスの母親らしい女性が、フライパンを片手に立っていた。もう片方の手で、生地を静かにかき混ぜている。
「お母さん、ただいま!」
「アリエス、おかえり。あら……その子は、お友達?」
「うん、ラッサルっていうの。他の国から来たんだって。詳しくは分かんないんだけど」
僕はぎこちなく頭を下げる。
「……よろしくお願いします」
「火の町は疲れたでしょ。ゆっくりしていくといいわ」
アリエスのお母さんはにこっと微笑んで、フライパンをテーブルに置いた。
暖炉の火が、リビングの真ん中で小さく揺れている。壁に映る光も一緒に揺れて、部屋の空気が少しだけ柔らかく見えた。
「私たちも、手伝うよ」
アリエスが僕の手を引いて、台所へ連れて行く。オーブンの中で、生地が少しずつ膨らんでいた。アリエスのお母さんが言う。
「スパイスキャラメルケーキ。まだ焼けてないの」
まだあんまり焼けていないのに、甘い匂いが広がっていた。思わず喉が動く。
「ラッサル、ちょっと手伝って」
アリエスに言われて、僕は卵を手に取った。割る瞬間に少し手元がずれて、白身が袖にはねる。
「うわ……!」
「ラッサル、かきまぜて!」
「こ、こうかな?」
「うん、いい感じ!」
アリエスがぱちんと指を鳴らし、コンロに火をつけた。小さな魔法の火花が揺れ、少しだけ部屋が暖かくなった気がした。
「……アリエス。また魔法、使ったでしょう」
台所のほうから、アリエスのお母さんの声が静かに落ちてきた。手は止まらないまま、鍋の音だけが続いている。
「使ってないよ。ちょっと火を出しただけ!」
アリエスは軽く笑って振り返る。すると、アリエスのお母さんは小さくため息をついた。
「もう魔法は使わないって言ったでしょう」
一瞬だけ、空気が止まった。
「あなたのおばあちゃんだって、魔法のせいで――」
「違うよ」
アリエスは即座に遮った。
「魔法のせいにしないで」
そのまま会話はそこで切れた。
一瞬の静寂。その冷え切った空気に、背筋がひやりとした。
『この町に関わらない方がいい。お前が壊れるだけだ』
昼間に出会った、あの灰色の男の言葉が、なぜか激しく脳裏をよぎった。胸の奥が、妙にざわつく。
「……あ、ラッサルくん、ごめんなさいね。気にしないでちょうだい」
アリエスのお母さんが困った笑みを浮かべて言った。
「……ん。もう焼けたかな」
アリエスは少し気まずそうに視線を逸らすと、気を取り直すようにオーブンの扉を開けた。
その瞬間、甘い匂いがふわっと広がった。思わず息を吸う。中には、ふくらんだケーキが静かに焼き上がっていた。
「ちょっと、味見してみる?」
アリエスのお母さんが小皿にケーキを取り分けて、僕の前に置いた。一口かじると、甘さの中に少しだけスパイスが混ざっていて、思わず息が漏れる。
「お、美味しい――」
「でしょ! 私が火加減ばっちり見てたからね!」
アリエスがふんっ、と胸を張って僕の顔を覗き込んできた。
……だけど、鼻の頭にさっきの小麦粉がうっすらついたままだし、口の端にはさっそくキャラメルソースがべったりついている。
「……アリエス」
「ん? なに?」
「いや、なんでも……ふふっ」
「え、何笑ってんの!?」
「なんでもない」
そんなやり取りを見て、アリエスのお母さんも笑っている。
なんだか、おかしい。ずっとあの夜から抜け出せないでいたのに。胸の奥につかえていた冷たい塊が、甘い匂いと一緒に少しだけ溶けていくような気がした。
そばで暖炉の火が揺れるたび、部屋の空気がゆっくり動く。外の熱とは違う、じんわりした温度が肌に残る。ここでは、火はただ燃えているだけじゃないのかもしれない。
「ラッサル、どう? この家」
「……なんか、落ち着く」
口に出してから、少しだけ引っかかった。こんな感覚、前にもあった気がするのに、うまく思い出せない。
「気に入ってくれてよかった」
アリエスはそう言って小さく笑った。
夕飯と風呂を済ませると、僕は二階のアリエスの部屋へ向かった。軽くノックしてドアを開ける。
「入るよ」
「どうぞー」
中に入ると、部屋の中は小さなランプの灯りだけが静かに揺れていた。アリエスはベッドに寝転んだまま、ぼんやり天井を見ている。
「……立ってないで、座りなよ」
「うん」
僕はベッドの端に腰を下ろす。
「ねえ、アリエス」
僕はふと思い出して口を開いた。
「お母さんってさ……魔法、嫌いなの?」
少しだけ間が空く。
「んー、嫌いっていうか」
アリエスは天井を見たまま続ける。
「近づきたくないんだと思う」
「どうして?」
アリエスは少しだけ言葉を探すみたいに黙った。
「怖いって思ってるみたい」
そこで一度止まる。
「……そんなこと、ないのにね」
アリエスは、小さな声でそう言って目を瞑った。
「今日一日、楽しかったね」
少し眠そうな声だった。
「うん。火の町って賑やかだけど、意外と落ち着く場所だな」
「そっか、よかった。……ねぇ、ラッサルも……こっちに……」
言いかけたまま、アリエスの声が途切れる。呼びかけようとして口を開いたが、返事はない。
「……アリエス?」
規則正しい寝息だけが返ってきた。僕は軽く息を吐いて、目を閉じる。今日の出来事が、まだ体のどこかに残っている。
『――この町に関わらない方がいい』
ふと、あの声が頭に浮かんだ。指先が、ほんの少し固くなる。
でも、今日が楽しかったことは確かだ。それに、アリエスと約束した。魔法使いを探すって。今更やめるなんてできない。
そのまま、意識はゆっくり沈んでいった。




