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十一話 『燻る噂と跳ねる火の粉』

 路地を曲がるたび、朝の光が眩しく差し込んでくる。


 布屋の軒先で、色とりどりの布が風に揺れていた。さっきあの男が立っていた場所と、似てる。でも、確かに違う場所だ。


「――あら、気になる?」


 布を眺めていると、布屋のお姉さんがにっこり笑った。


「触ってみていいよ」


 そう言われて、手を伸ばして触れてみる。思ったより柔らかい。指先でなぞると、するりと滑るように感触が変わる。布ごとに、少しずつ違う。


「きれいだな」


 思わず呟く。


「そうでしょ? 朝の光に映える布は、特別なのよ!」


 お姉さんは一枚の布を軽く持ち上げてみせた。光を受けて、色がゆっくり変わる。思わず、ほんの一瞬見惚れてしまう。


 もう一度だけ布に目をやってから、手を離した。アリエスに軽く引かれて、そのまま通りを進む。


 ふと通りがかった香辛料屋の扉から、スパイスの香りが立ち上った。金色や赤の袋がずらりと並び、香辛料の粉が、かすかに舞っている。


「いらっしゃい! 今日は、珍しいスパイスが入ったんだ。ちょっと嗅いでみるか?」


 香辛料屋のお兄さんから渡された、小さな袋を鼻に近づけた瞬間、つんとした匂いが鼻に刺さった。


「……っ!」


 息が詰まる。手に持った袋が、じんわり熱を帯びているみたいに感じた。


「ラッサル、大丈夫?」


 少し顔をそらす。鼻の奥がひりついて、息が浅くなる。


「はは、初めてだとキツいだろ。これ、結構強いやつなんだ」


 お兄さんは軽く笑いながら、袋をひらひらと振ってみせた。


「……そういえばさ」


 そのまま袋を棚に戻しながら、何気ない調子で言う。


「火口の奥のほう、最近やばいらしい」


「奥?」


 僕が聞き返すと、お兄さんは肩をすくめる。


「古い神殿があるだろ。素材を取りに行くやつもいるけどさ。行ったまま帰ってこないって噂を聞いちまってさ」


 軽い調子なのに、妙に引っかかる。


 そのとき、ぱちっと金属が弾ける音がした。思わずそっちを見る。炉から火花が大きく散っていた。少しして、周りの人たちがざわめきはじめる。


「おい、火事だ!」


 思わず動きが止まる。さっきの火花が頭をよぎった。


「あっ――」


 かすれた声が聞こえた。炉のそばで、小さな子どもがしゃがみ込んでいる。足元に、赤い布が落ちていた。


「だめだ、これは、おれの……!」


 子どもが手を伸ばしかけて、火の熱に押されるように一瞬引っ込める。


 それでも、もう一度――無理やり手を伸ばそうとしている。じりじりと火が広がって、逃げ場がなくなっていく。


「あの子……っ!」


 それに気づいたアリエスが、一瞬で反応した。


「どいて!」


 地面を蹴って、まっすぐその子のもとへ走る。


「ねえ、きみ! そこ、危ないよ。こっち!」


 火のそばから、その子の手をつかんで引き寄せるように後ろへ下げた。子どもはよろけながら、ようやく火から距離を取る。


 その直後、鍛冶屋のおじさんが水をかけた。火は一気にしぼみかけたが――その奥で、赤い火がまだ細く舌を伸ばしていた。


 店の看板に、じわりと火が移る。すぐ近くに、人がいる。


「っ、まだ――!」


 誰かが声を上げる。けれど、その声より先に、火が一段大きく跳ねた。看板の端がぱち、と弾ける。焦げた匂いが一気に広がる。


 その瞬間だった。アリエスに引かれていた手を、子どもがぱっと振りほどいた。


「はなせ……!」


 子どもは一歩だけ前に踏み出す。押し寄せる熱風を正面から浴びながらも、地面へためらいなく手を伸ばした。


 指先が、焦げかけた赤い布を掴む。ぎゅっと握りしめると、そのまま胸元に引き寄せた。


「下がれ!」


 誰かが叫ぶ。


 直後、鍛冶屋のおじさんがもう一杯の水を叩きつけた。


 激しい水音の後、ぱちぱちと音だけを残して火が消える。地面にはまだ熱が残り、白い煙がくすぶっていた。


 ――無事だった。


「はぁ、びっくりした……」


 僕は思わず声を漏らす。アリエスの肩越しに、街の人たちの表情が見えた。笑っている人もいるけど、どこかまだ顔がこわばっている。


 火が完全に消えても、すぐには誰も声を出さなかった。鍛冶屋のおじさんが息を吐く。


「怪我はないか」


 助けられた子どもは、しばらくその場に立ち尽くしていた。手を握りしめたまま、何かをこらえるみたいに、唇を強く噛んでいる。


「……別に、怖くねぇし」


 そう言いながら、ちらっと周りを見た。まるで、敵か獲物かを探すみたいに。


 その瞬間、僕はその子の瞳に釘付けになった。


 恐怖なんかとっくに焼き殺しているような、ギラギラとした、異様に強い目。まるでその瞳の奥に、本物の獣が潜んでいるみたいだった。


 よく見ると、手首に煤で少し汚れた赤い布が巻かれている。それを終始大事そうに、ぎゅっと握りしめている。


 次の瞬間、その子の姿はなくなっていた。人混みの中に紛れて、どこに行ったのかもわからない。


 近くに来ていた布屋のお姉さんが、ほっとしたように肩の力を抜いた。


「危なかったね。けど、誰も怪我してないみたいで、よかった」


 その隣で、香辛料屋のお兄さんも遅れて頭をかいた。


「朝から肝が冷えたな。火の町でも、さすがに今のは洒落にならない」


 ざわつきが少しずつ戻りはじめ、通りにはいつもの生活音が混じり始めていく。


「……もう、大丈夫なの?」


 僕が聞くと、アリエスはいつもの調子で笑った。


「あーうん。たまにあるんだよね。まあでも、こんな派手なのは珍しいけど」


 火が落ち着くと、通りはすぐに日常に戻っていた。さっきの騒ぎだけが、少しだけ耳に残っている。


「でも、正直さ。ああいうの起きると、ちょっと不安になるんだよね。……火が怖いわけじゃないのに」


 そう言って、アリエスは軽く肩をすくめた。

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