十話 『人混みに紛れる灰色』
遠くで、鍛冶屋の鉄を打つ音が、ちん、と響いた。
まだ小さいけど、胸の中に何かが残っている気がした。うまく言えないけど、それは消えそうになかった。石畳を踏むたび、足の裏にじんわり熱が伝わる。
「ねえラッサル、見て!」
アリエスが指さした先に、何人かの人が集まっていた。石で囲まれた小さな場所の中央で、細い炎が立ち上がっている。
その火は、ただ燃えているだけじゃなかった。風に合わせて揺れるというより、自分から前に出ていくみたいに形を変えている。
見ていると、どこか迷いがないように感じる。一瞬でも止まることを知らない動き。
「こうやって、炎の息吹に手を合わせるの。旅人の無事を祈ってくれるんだって!」
アリエスは足を止めて、じっと火を見つめている。
でも、僕はその色を見た瞬間、息が詰まった。なんだろう……落ち着かない。火が怖いわけじゃないのに、目が離せなかった。
「ラッサル?」
アリエスがのぞきこむ。
「どうしたの、なんか顔こわいよ」
「なんでもない」
「そう。ならいいけど」
その時だった。ひゅ、と細い風が走った。肌の上に一瞬だけ、火の町とは違う、妙に冷たい空気が触れた。背筋をなぞるような感覚に、思わず息を止めた。
「え?」
反射的に振り返る。
街の中で、そこだけ色が抜けたみたいに見えた。ひやりとした風が頬をかすめる。通りの奥、布屋の前で、布がひらりと揺れた。
……誰かいる。
瞬きをしてもう一度見ると、人混みの間をすり抜ける影があった。たくさんの人とぶつかっているのに、誰も気づかない。
そして――ふっと立ち止まった。灰色の髪に、薄い黒の外套を羽織った青年。赤や橙ばかりのこの町で、その色だけがやけに目につく。
ふと、隣でアリエスが足を止めた。
「あっ、これ、紅角パイ!」
そう言って、露店の焼き菓子を覗き込んでいる。――アリエスには、見えてない。そう思った瞬間、喉がひゅっと狭くなった。
「……っ」
アリエスの名前を呼ぼうとして、声が出ない。青年の視線がこっちに向く。その瞬間、逃げ場がなくなった。
青年は何も言わず、ゆっくりとこっちに近づいてくる。遅れて、背中に強烈な寒気が走った。
「なに、これ……」
おかしい。さっきまで、こんな感じじゃなかった。視線を逸らそうとしても、なぜか逸らせない。引っ張られている。
青年の周りだけ、空気が違う。暑くて騒がしいこの町で、そこだけが妙に静かで冷えている。
――どうして、僕にだけ見えてる? その考えが浮かんだ瞬間、青年の視線がわずかに揺れた。ほんの少しだけ、口元が動く。
「やっと見つけた」
その一言は、ざわめきの中でも不思議とはっきり聞こえた。
「……誰?」
一歩、近づこうとする。だけど、足が動かない。
青年は何も言わず、ゆっくりと僕の横をすり抜ける。すぐそばを通ったはずなのに、触れた感触がない。遅れて、背中に寒気だけが走った。
「やめとけ」
低く、かすれた声。
「この町に関わらない方がいい」
「っ、なんで――」
「……お前が壊れるだけだ」
瞬きする。……いない。さっきまで、確かにそこにいたはずなのに。布だけが、風に揺れている。
音が、一気に戻ってきた。人の声。火の音。足音。全部が、さっきより近い。――今の、なんだ。
さっきの言葉が、なぜか頭に残っている。理由は分からない。でも――崖で見た、アリエスの急ぐ姿が、かすかに重なる。
アリエスが不思議そうに首を傾け、僕の横顔を覗き込む。
「ラッサル、どうかした?」
「……いや」
みぞおちのあたりが、少し重い。さっきの感覚が、まだ残っている気がした。
街の空気は変わらず熱い。一歩踏み出すと、砂がじゃりっと鳴る。アリエスの声が、すぐ隣で弾む。子どもたちの笑い声も、遠くで聞こえた。
「ねぇ、ラッサル」
アリエスがそっと手を取る。その手が、あたたかい。
「行こ。今日から、旅が始まるんだよ」
「……うん」
手を引かれるまま歩き出す。アリエスの笑顔を見ると、周りの景色が、元通り明るく見えた。




