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8. ありえない手術

夜の帳が下りていた。


バルバス・アッシュボーンは、国家機密研究開発局を出たばかりだった。


彼は街路をよろめくように歩いていく。

途中、飲食店の前を通り過ぎた。

中からは焼いた肉の香ばしい匂いが漂ってくる。


だが彼は肩を落としたまま、それに気づきもしなかった。


本当は腹が空いていた。

今日は一日、ほとんど何も食べていない。


ここ数年、ザヒールの国家機密研究開発局は西方の大国ナディラと密接に協力していた。


バルバスはザヒールでも名の知れた外科博士だ。

そのため軍や政府に随行し、外交行事へ顔を出すことも多い。

食事を取る時間すらない日も珍しくなかった。


だが忙しいにもかかわらず、彼の内側には空虚さばかりが積もっていた。


いつからだろう。

自分の生活が、かつて愛していた医学から少しずつ離れていったように感じていた。


今日も同じだった。

疲れきった足取りで自宅の前まで戻る。


鍵を取り出しながら、頭の中では明日と明後日の予定を考えていた。

だから玄関前の階段に、一人の少年が座っていることにまったく気づかなかった。


「失礼ですが、バルバス・アッシュボーン博士でいらっしゃいますか?」


突然の声に、バルバスは大きく肩を震わせた。

目を凝らす。そこにいたのは少年だった。


「私だが。君は何の用だ?」

バルバスは不快感を隠せなかった。


こんな無作法な形で自宅前に現れた者など、今までいなかったからだ。


「バルバス博士。私はエリオ・ヴレスと申します」

エリオは丁寧に頭を下げた

「以前から、博士の医術が非常に優れていると伺っておりました。ひとつ、ご相談したいことがあります」


「ほう?」

バルバスは少年を見下ろした。


頭の中では、どう早く追い返すかを考えている。


「それで? 相談とは何だ」


「私は……純血のプルプラ族です」

エリオは少し言葉に詰まった

「ですが、魔獣を見ることができません。博士なら、私の目を治す方法をご存じではないかと思いまして……」


「なるほど」

バルバスは目を細めた。

「確かに君の特殊な症例については聞いたことがある。もう一度名前を言ってくれるか」


「エリオ・ヴレスです」


「ヴレス?」

バルバスの表情がわずかに変わった。

「君はヴレス夫妻の息子か? 国家機密研究開発局の、あのヴレス夫妻の?」


「はい……」


「そうか……」

バルバスの興味が、明らかに動いた。


彼はエリオの目をまじまじと観察し始める。


あまりにじっと見られて、エリオは少し居心地が悪くなった。


バルバスは半開きの扉の前に立ったまま、エリオを見つめ続けた。

手は扉の取っ手を握ったまま動かない。まるで時間だけが止まったようだった。


その沈黙が永遠のように長く感じられた頃、ようやくバルバスが口を開く。

「方法がないわけではない。君の目を治療できる可能性は、確かにある

だが危険だ。

危険度は高く、失敗のリスクも大きい。

君に耐えられるとは思えない」


「試させてください、博士」


エリオの声は、不思議なほど揺らがなかった。

「この不完全な目のせいで、私は両親が手渡してくれた大切なものを守れませんでした。

それどころか、戦いの中で両親の足手まといにもなりました。だから、もう逃げたくないんです。

どうしても、自分が生まれ持った欠陥を解決したいんです」


バルバスは少年を見つめた。

夜の闇の中で、エリオの瞳に炎が宿っているように見えた。


――どうしても解決したい、か。


若い頃の自分に似ている。

野心に満ち、医学で人を救いたいと本気で信じていた頃の自分に。


今の自分はどうだ。

毎日、高官や軍人たちの相手に追われている。

医者になった時に抱いた「医術で人を助けたい」という初心など、とっくに置き去りにしてしまった。


バルバスは扉をさらに開いた。

「中で話そう。エリオ・ヴレス」



◆ ◆ ◆



「もう二十年以上前の話だ」

バルバスは煙管に火をつけ、ゆっくりと語り始めた。


その意識は、遠い昔へと沈んでいく。


「国家機密研究開発局では、かつてある研究が秘密裏に進められていた。

プルプラ族の紫の眼を、普通の人間へ移植する試みだ。

その手術は、視覚改造計画と呼ばれていた」


幻域を囲む四か国は、長年にわたり魔獣という共通の脅威に頭を悩ませてきた。

各国は多額の報酬を用意し、プルプラ族を狩魔師として雇い、民を守らせていた。


だが狩魔師の数には限りがある。

そのため各国は、魔獣へ対抗する別の方法を必死に探していた。


西国ナディラと南国ザヒールが共同で進めた極秘研究。

視覚改造手術。


その計画が始まった頃、バルバスは医学校を卒業してまだ数年しか経っていなかった。

だが優れた技術を持つ彼は、すでにザヒール国立病院の上層部から注目されていた。


最初、バルバスはこの計画に胸を躍らせた。

視覚改造手術が成功すれば、自分は一気に権力の中枢へ駆け上がれる。


そう思っていた。


だが計画の実態は、彼の想像とはまるで違っていた。


魔獣を見ることのできない普通の人間たちが、次々と実験室へ送られてきた。

囚人。戦争捕虜。そして、ごく少数の志願者。


まだ麻酔技術が十分に発達していなかった時代だ。

視覚改造手術の実験室には、毎日のように被験者たちの凄まじい悲鳴が響いていた。


彼らは常人では耐えられない激痛に晒された。

医師たちは特殊な薬液に保存された紫の眼を取り出し、彼らへ移植する。


バルバスにとって、その移植技術そのものは想像していたほど難しくはなかった。

問題は、ただ一つ。

誰一人として生き延びられなかったことだ。


手術が終わって数時間後。時には、ほんの数分後。

被験者の身体には激しい拒絶反応が現れた。


彼らは獣のように叫び、全身の力を振り絞って暴れた。

中には、自らの眼をえぐり出そうとする者さえいた。


だが医師たちは何もできなかった。

ただ目の前で、被験者たちが苦痛にのたうちながら死んでいくのを見ているしかなかった。


手術方法も、併用する薬も、何度も調整された。

それでも結果は変わらない。


何度も、何度も。

バルバスは悲鳴と泣き声に満ちた実験室で、さらに多くの被験者が目の前で死んでいくのを見続けた。


自分の精神が壊れていくのを感じていた。


ただ一度だけ。視覚改造手術が「成功」に近づいた例があった。

バルバスは今でも覚えている。


若く、体格のいい男性囚人だった。

手術後、彼は生き延びた。


もっとも、最後まで生きたのは五日間だけだった。


彼を病室の外へ出し、本当に魔獣が見えるようになったのかを確認する時間すらなかった。


「その後、視覚改造計画は禁止された」

バルバスは静かに言った。


「視覚改造手術の理論自体は、表面上は破綻していなかった。

だが実際の人体は、我々が考えていたよりはるかに複雑だった。

普通の人間がプルプラの眼に示す拒絶反応は、想像を絶するほど強かったんだ」


エリオは黙って聞いていた。

バルバスの言う「治療」は、彼の想像をはるかに超えていた。


ご覧いただきありがとうございます。

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