81. 相次ぐ誤算
「あれ、あれってグレンとソーンじゃないか?」
エリオは目を細め、聖啓院の中央研究塔の外壁を見上げた。二つの人影が、石壁を伝って上へ上へとよじ登っている。
「どうやら、聖啓院の中は思ったほど順調じゃなかったみてぇだな」
アレクは眉をひそめた。
懐中時計を確認する。まだ二十分ちょっとしか経っていない。
グレンとソーンは外壁を登るぶん時間を食うだろうが、計画通りならデイモン・ウォーカーが昼食を終えて戻る前には、十分脱出できるはずだった。
やがて二人の姿が最上階の窓の向こうへ消える。
その光景を見て、アレクたちはようやく小さく息をついた。
しばらくその場で待ちながら、二人は雑草を抜くふりをして周囲を警戒していた。
ふと、エリオの目に、聖啓院へ向かって歩いてくる人影が映る。
目を凝らした次の瞬間、心臓が跳ねた。
「ブレイ団長、あれ……デイモン・ウォーカーじゃありませんか!?」
エリオが緊張した表情で指差した。
アレクもそちらを見る。
間違いない。
デイモン・ウォーカーが、一人で聖啓院へ戻ろうとしていた。
「くそっ! まさか予定より早く戻ってくるとは!」
アレクは低く毒づき、両手を口元へ添える。そして鳥の鳴き声そっくりの細長い口笛を吹いた。
一回。
二回。
三回。
その瞬間、遠くで鐘が鳴り始めた。鐘の音が口笛をかき消してしまう。
なんて間の悪い――。
アレクは焦る気持ちを抑え、辛抱強く鐘が鳴り終わるのを待つと、もう一度口笛を吹こうと手を口元へ運んだ。
だが、その頃にはデイモン・ウォーカーはすでに聖啓院の中へ入ってしまっていた。
「ねえ!」
背後から若い女性の声がした。
振り向くと、侍女服を着た娘が立っていた。
「ゲイリー教皇様がお部屋に香りのない花を飾りたいとおっしゃってて、裏庭で探してくるよう頼まれたんです」
侍女はにこりと笑った。
「か、香りのない花?」
アレクは一瞬、頭が追いつかなかった。
「そうなんです。前の花は香りが強すぎて、瞑想の邪魔になるって」
侍女は両手をこすり合わせながら言う
「面白いですよね? わたし、みんな香りのある花の方が好きだと思ってました」
……頼む、今だけは来ないでくれ。
アレクは心の中で頭を抱えた。
「花なら、こちらでゲイリー教皇様のところへお届けしますよ」
エリオが侍女に声をかけた。
「あら~、今すぐ持って行っちゃだめですか?」
「えっと……その、選ばないといけなくて。それに手入れも……そう、少し剪定してからお持ちします」
自分でもしどろもどろだと思いながら、エリオは必死に言葉をつないだ。
「そうですか」
侍女は少し残念そうに振り向く。だが、二歩ほど歩いたところでまた振り返った。
「その花、どんなお花なのか、一目だけ見てもいいですか?」
侍女は期待に満ちた顔をしていた。
だが、アレクとエリオの視線は、その向こうの聖啓院に釘付けになっていた。
グレンとソーンが、中央研究室の窓の外にぶら下がっていたのだ。
足を宙に投げ出し、壁に足場を探そうと必死にもがいている。
侍女は二人の様子を不思議そうに思い、振り返ろうとした。
「そ、その! 花を見に行きましょう! ほら、庭ですよ、庭!」
エリオは慌てて声を上げ、侍女の視線を引き戻した。
「本当ですか!? わぁ、よかった!」
侍女は嬉しそうにエリオの後をついていった。
アレクは再び中央研究塔を見上げた。
ちょうど二人の黒い外套が、窓の向こうへ消えていくところだった。
その場で数分待つ。時間が止まってしまったように長く感じる。
ようやく、聖啓院の入口からグレンとソーンの姿が現れた。そこへエリオも戻ってくる。
「あの侍女、ようやく追い払えたよ」
グレンとソーンは平静を装いながら、足早にアレクのもとへ向かった。
中央研究室では、あと一歩でデイモン・ウォーカーと鉢合わせになるところだった。
だが、運よく外の衛兵がデイモンを呼び止めてくれたおかげで、ほんの数秒の隙を突いて窓から逃げ出せたのだ。
「あの偽物の箱……重さが違う」
グレンは息を切らしながら言った
「きっとすぐにすり替えに気づかれる」
アレクは静かに頷いた。
「お前たちは予定通り撤退しろ。こっちの後始末は俺とエリオがやる」
グレンとソーンは急いでサマンの狩魔師の制服を脱ぎ、本来の行商人の服へ着替えた。
そして黄の匣を荷車から持ってきた植木鉢の中へ隠し、市場広場へ戻る。ちょうど市が終わる時間だった。
一方、アレクとエリオは、まだ気絶したままの二人のサマン狩魔師に制服を着せ直し、裏門の衛兵のもとへ向かった。
二人の狩魔師が魔獣に襲われた、と報告するために。
◆ ◆ ◆
「次! そこのお前ら、花屋!」
門番の怒鳴り声に、グレンたちは自分たちが呼ばれたのだと気づいた。
フレデリックが慌てて荷車を押し、グレンとソーンもぴったり後ろにつく。
大神殿区を出る者まで、ここまで厳しく検査されるとは思ってもいなかった。
市が終わり、行商人たちは門へと追い立てられていく。グレンたちは人混みに紛れていた。黄の匣は、彼らが押す売り物の荷車の中にある。
市場の混雑で隠す時間もなく、とりあえず一番下へ押し込み、逆さにした植木鉢をかぶせてあるだけだった。
「市も終わったんだし、この場所を出ちまえば一安心……だよな?」
フレデリックが言う。
グレンとソーンも黙って頷いた。
ところが、予想に反して行商人たちは門を抜けていかない。一人、また一人と門番に呼び止められていた。
「俺たち、大神殿区から出るだけだろ? 何をそんなに調べるんだよ」
フレデリックが小声でぼやく。
「ミレイナの話じゃ、サマンの大教皇は疑り深い性格らしいからな」
グレンは苦笑しながら、さりげなく後ろを振り返った。幸い、追手らしき姿は見えない。
その時、門の方が騒がしくなった。
ある行商人の荷車から、銀色の徽章が見つかったのだ。どうやら大聖堂の役人が持つ身分証らしい。
「これは大神殿区の品だ! 貴様、これを外へ持ち出そうとしたな!」
衛兵が怒鳴る。
「だ、大人! 冤罪です! 本当に、どうしてこんな物が荷車にあるのか、私にも分からないんです!」
男は真っ青になってひざまずいた。
だが、衛兵は聞く耳を持たない。一声命じると、哀れな行商人は他の衛兵たちに引きずられていった。
グレンたちは不安げに顔を見合わせた。どう切り抜けるべきか考え始めた、その時。
「花屋! 番号は?」
衛兵が怒鳴った。
「五十一番でございます、お役人様」
フレデリックは朝にもらった木札をポケットから探り出し、手渡した。
衛兵は手帳を見て、三人の顔を見比べ、何かを書き込む。そして身体検査を始めた。怪しい物を持っていないと確認すると、今度は荷車へ手を伸ばす。
上に積まれた鉢植えを持ち上げて下を覗き込み、種の入った麻袋を開けて中を探る。やがて元の位置へ戻した。
頼む……!
もう終わってくれ……!
グレンは胸の内で祈った。
衛兵は再び手帳に何かを書き込み、脇へどいた。そして門の外を手で示した。
助かった……!
グレンは心の底から安堵し、急いで荷車を押し始める。
数秒後。ついに三人は大神殿区の門をくぐり抜けた。
その時だった。
「待て!」
背後から鋭い怒声が飛ぶ。
別の衛兵が横から飛び出し、手にした長槍で三人の行く手を塞いだ。
「その下に積んである物は何だ? 持ち上げて、見せてみろ」
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