76. ひとまずの信頼
夜更けの聖啓院で、デイモン・ウォーカーは籐編みの椅子に腰を下ろし、目の前の黄の匣をじっと睨みつけていた。
もう何日も経つというのに、この黄の匣をどうやって開ければいいのか、まるで見当がつかない。
まずは虫眼鏡で八面体の箱を隅々まで観察し、どこかに蓋の継ぎ目のような細い隙間がないか探した。
箱のあらゆる面を叩き、押し、引っ張り、何か仕掛けが動かないかも試した。
表面の紋様を手元の古文書と照らし合わせても手掛かりはなく、果ては炉で炙ったり、水に沈めてみたりまでした。
だが、黄の匣には何一つ変化が現れなかった。
デイモンは少しずつ苛立ちを覚え始めていた。
……いや、それだけじゃない。胸の奥に、かすかな不安が芽生えている。
サマンや魔獣と手を組み、長年の親友だったヴレス夫妻を殺した時も、不安など感じなかった。
故郷に忍び込んでいたジュリアナを見つけ、その場で始末した時も、心は微塵も揺れなかった。
モルゴロスと手を組み、第二要塞で大勢の魔獣に囲まれながら黄の匣を奪った時ですら、恐怖など欠片もなかった。
だが今、この聖啓院で開かない黄の匣を前にしていると、本気でまずい気がしてくる。
サマン現大教皇、ドミナス・カルセレスは、決して敵に回していい相手じゃない。
先代大教皇の崩御後、サマンが権力争いに揺れる中、十九人の教皇を退けて頂点に立った男。
その後の数十年にわたり、教皇団の誰一人として公然と逆らえなかったのも、あの男の残忍さと冷酷さ、そしてヴィサトゥ教を利用して人心を操る政治手腕ゆえだった。
ドミナスは、デイモン程度が敵にしていい人物ではない。
もし、自ら資金も人手も投じて奪わせた黄の匣が、実はまったく開かない代物だと知れば――自分に待っている末路など考えたくもなかった。
以前、デイモンは大教皇ドミナスに断言している。黄の匣の中身は、必ずやサマンが他国を呑み込むための最強の兵器になる、と。
その言葉を信じたからこそ、大教皇は彼を厚遇し、この聖啓院の中に他から完全に独立した広大な研究空間を与えてくれたのだ。
そして、もう一つ理由がある。
マドレーヌの存在だった。
絶世の美女として知られるマドレーヌは、大教皇ドミナスのお気に入りだった。
誰も口にはしない。
だが、ドミナスが彼女を特別視していることなど、誰の目にも明らかだった。
その彼女がデイモンのことを何度か口添えしてくれたおかげで、ドミナスもひとまず彼を信用してくれている。
――ひとまず、だ。
その言葉こそが、デイモンの立場の危うさを物語っていた。
何としてでも、一刻も早く黄の匣を解き、中の機密文書を手に入れなければならない。
「で、黄の匣の中身は解けたのか?」
突然の声に、デイモンは飛び上がりそうになった。
振り向くと、いつの間にかモルゴロスが窓から入り込んできていた。
「約束は忘れるなよ、イートン博士」
モルゴロスは冷ややかに言う
「俺は早く幻域中の魔獣を支配したいんだ。だが、お前の仕事はずいぶんのんびりしてるじゃねぇか」
「いい酒は時間をかけて熟すもんさ、モルゴロス。そんなに焦る必要はないぜ」
デイモンは作り笑いを浮かべた。
「俺たちは黄の匣を奪ってこいと言われて、朝飯前で速攻ひったくってやったぜ。それなのにお前ときたら、何日もここにこもって箱一つまともにこじ開けられねぇのかよ」
「心配するな。黄の匣が開いたら真っ先に知らせてやる。それまでは、サマンがお前たちのために用意した人間のご馳走でも、ゆっくり楽しんでくるといい」
デイモンがそう言うと、モルゴロスは鼻で笑い、窓から再び聖啓院の外へ飛び去っていった。
その姿が見えなくなると、デイモンの苛立ちはさらに膨れ上がった。
……鬱陶しい魔獣め。
自分を何様だと思っている。
人間より遥かに劣る生き物のくせに、よくもあんな口を利けたものだ。
デイモンは卓上の呼び鈴を鳴らした。
ほどなくして、前回第二要塞へ同行した狩魔師、ファイザン・クロスが扉を叩いて入ってくる。
「イートン博士、いかがいたしましたか。何なりとお申し付けください」
ファイザンは恭しく頭を下げた。
「モルゴロスと、あいつが連れてきた魔獣どもを見張っておけ。好き勝手にうろつかせるな」
「かしこまりました」
ファイザンは踵を返しかけたが、デイモンは思い出したように呼び止めた。
「それと……今すぐじゃない」
デイモンは声を潜めた
「だが、そのうち頃合いを見てモルゴロスを始末する。今はまだ、あの愚かな魔獣どもを利用できるだけ利用してやろうじゃないか」
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