75. 暗影に蠢く彼女
夜の帳が下り、サマンの大聖堂は静寂に包まれていた。
大聖堂に連なるゴシック様式の回廊は、北方特有の黒い岩石で組み上げられており、地面から天井へ向かって高く伸びている。
壁一面には精緻な紋様が刻まれ、床には白地に淡い緑の筋が走る石畳が敷き詰められていた。
窓の外から差し込む青い月明かりと、回廊の壁に灯された橙色の蝋燭の炎が、静かな明暗を描いている。
一人の女が足早に回廊を進んでいた。
足音は驚くほど静かだ。淡い茶色の髪は肩までの短髪に整えられているが、今は身にまとった灰色のマントの下に隠れている。
彼女は回廊の突き当たりにある扉の前で足を止めた。そこには二人の衛兵が立っていた。
「身分を」
「ヘイゼル・ウィンター」
彼女が徽章を掲げる。
「次席記録総監様、どうぞ良い夜をお過ごしください」
衛兵は恭しく一礼し、脇へ退いて扉を開いた。
ヘイゼルは扉の向こうの渡り廊下を進み、大聖堂に隣接する建物へ入る。階段を上り、自室の前まで来ると、しばらく立ち止まって考え込んだ。
ザヒール軍の密偵としてサマンへ送り込まれて、もう何年にもなる。
そして今、彼女はこれまでで最も困難な任務に直面していた。
黄の匣をザヒールへ持ち帰ること。
かつて彼女は、その抜群の頭脳と巧みな話術でサマン教皇団の信頼を勝ち取り、次席記録総監の座まで上り詰めた。
その立場を利用し、サマン内部の情報を数多く手に入れては、密かにザヒールへ送り続けてきた。
だが、今回ばかりは話が違う。
黄の匣を奪うなど、情報を盗み出すのとは比べものにならない難事だった。
次席記録総監とはいえ、権限には限りがある。
広大な大神殿区には、彼女ですら立ち入れない場所が数多く存在していた。
その中には、黄の匣が保管されている場所――聖啓院も含まれている。
聖啓院は、サマンの重要機密研究が行われる施設だった。
幾重にも配された警備。複雑に組まれた施錠。何度も行われる身元確認。
教皇団を構成する二十人の教皇ですら、そのうち六人しか自由に出入りできない。
イートン博士は幻域から黄の匣を持ち帰り、大教皇へ謁見した後、そのまま聖啓院で解析を進めている。
黄の匣がそこにあることは間違いない。問題は、どうやって中へ入るか。
仮に潜入できたとして、どうやって黄の匣を持ち出すのか。
「ヘイゼル? まだ起きてたの?」
突然の声に、彼女は心臓が跳ね上がった。だが長年の潜入任務で鍛えられたおかげで、動揺は表情に出ない。
振り向くと、そこに立っていたのはマドレーヌ・ストームウィンだった。
大神殿区で、ヘイゼルにとって最も親しい存在――。
……いや、そう言い切るのも違う気がした。
最初にマドレーヌへ近づいたのは打算だった。
彼女はサマン国の大教皇が最も信頼する狩魔師の一人。良好な関係を築けば、より多くの情報を得られる。
そのはずだった。
だが、気づけば二人の距離は少しずつ縮まっていた。
「マドレーヌ」
ヘイゼルは柔らかく微笑む
「今日は記録総監の仕事が立て込んでてね。ついさっき戻ったところなの」
「そうだったのか。私は今日、大教皇ドミナスに呼ばれて、午後いっぱい話し込んでた」
「へえ? 何かあったの?」
「黄の匣の件だよ」
マドレーヌは肩をすくめた
「大教皇は、魔獣に奪われる可能性を心配してる。それで聖啓院に狩魔師を配置しろってさ」
「でも、狩魔師ってずっと人手不足じゃない?」
「そうなんだよ。考えた末、二人が限界だった。一人が昼、一人が夜を担当する」
「そういうことなんだ」
ヘイゼルは何気ない顔で頷いた。
「ま、とりあえず明日考えよう。私は厨房で何か食べてくるけど、ヘイゼルも来る?」
「私はいいかな」
ヘイゼルは優しく笑う
「少し疲れちゃったから、先に休むわ」
マドレーヌは肩をすくめるだけで、両手をポケットに突っ込み、そのまま歩いていった。
氷の美女。
誰もがそう呼ぶ。
敵には一切の容赦を見せないくせに、身内には驚くほど義理堅い。そのギャップが、時々ヘイゼルを困らせていた。
……ここにいる人たちを信じすぎるな。
……本気になるな。
……私はスパイなんだから。
そう何度も自分に言い聞かせる。
部屋へ入り、慎重に鍵をかける。
この宿舎は大神殿区の後方にあり、区内で働く役人たちの住まいとなっていた。
ヘイゼルの部屋の窓は、ちょうど大神殿区の裏門の城壁へ向いている。
彼女は窓辺へ歩み寄り、目を細めた。
城壁の外。目立たない小さな家。庭師の住まいだ。窓辺には鈴のような飾りが吊るされていた。
……よかった。
ヘイゼルは小さく息をつく。
あれは、自分が手配した密偵の合図が無事に届いた証。
同時に、アレクたちがすでにサマンへ到着し、大神殿区へ向かっているという知らせでもあった。
彼女はカーテンを閉め、再びベッドへ腰を下ろす。
アレクたちは来た。
だが、黄の匣を奪う完璧な方法は、まだ見つかっていない。
先週。幻域から戻ったイートン博士が大教皇へ謁見した際、次席記録総監であるヘイゼルも、首席記録総監と共に大聖堂での会議へと召集された。
そこで彼女は、生まれて初めて黄の匣を間近で見た。
イートン博士は、これから聖啓院で黄の匣の研究を進めるという。
匣には特殊な方法で封印が施されており、開封には時間が必要らしい。
そして、その会議には第二要塞から来た魔獣たちも同席していた。
ヘイゼルには姿は見えない。だが会話から、数匹の魔獣がその場にいることは理解できた。
彼らはサマンの大教皇への忠誠を誓う代わりに、安定した食糧供給を約束されていた。
それが、ヘイゼルが会議で記録した内容だった。
彼女はもう一度、会議の記憶を辿る。散らばった情報の欠片を繋ぎ合わせ、使える手を探していく。
黄の匣。
精巧な八面体の金属箱。
どの面にも同じ紋様が刻まれ、幾何学模様と線が複雑に組み合わさっている。
イートン博士が持っていた様子から、それなりの重量があることも分かった。
……一度でいいから、自分の手で持って確かめたかった。
その時。
ふと、さっきマドレーヌと交わした何気ない会話が脳裏をよぎる。
ある考えが、ヘイゼルの中で形を成した。
彼女は机の引き出しを開けた。そのまま丸ごと引き抜く。
空いた棚の奥の角を、指先で何度か押す。隠し板が静かに浮き上がった。
薄い板を外すと、中には数枚の紙が整然としまわれていた。
その一枚には、黄の匣の精密な素描が描かれていた。材質についての細かな書き込みまで添えられている。
黄の匣を目にしたあの夜、記憶が薄れないうちに描き上げたものだった。
細部に至るまで、まるで実物を前に写生したかのような出来栄えだ。
ヘイゼルは小さく微笑んだ。
自分の並外れた視覚記憶には、今も変わらず自信がある。
そして、新しい紙を一枚取り出す。細かな暗号を書き込み始めた。
明日の朝。あの庭師が大神殿区へ仕事に来た時。この紙を密かに託し、外へ運び出してもらうつもりだった。
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