72. 命懸けの賭け
「……わかった。だが、前もって釘を刺しておく」
やがて彼は言った
「魔獣はエリオに『触れる』だけだ。それで勝敗を決める」
「もし約束を破ってエリオを傷つけたら――」
グレンの目が鋭くなる
「ここには二人の狩魔師がいることを忘れるな。お前たちを一匹残らず狩り尽くしてやる」
「構わない」
ムムロはうなずいた
「この件に関しては、魔獣はルールを守る」
そして横目でマイビーを見る。
「第一要塞の名にかけて保証しよう」
マイビーは露骨に不満そうな顔をしていた。
魔獣の姿が見えない村人たちが近づいてくると、グレンが一歩前へ出て声を張り上げた。
「皆さん、祭りを邪魔してしまって本当に申し訳ない! 皆さんの言う通り、このオッドアイの仲間が生贄の儀式を中断させ、神の怒りを買った原因なのかもしれない。
だから俺たちは、この仲間を生贄として捧げる。それが神への償いだ」
村人たちはざわざわと顔を見合わせ始めた。
グレンは畳みかける。
「さっき、あの二人の子供は生贄として捧げられたのに、神の使者に連れていかれなかった。
だったら、あの子たちは神の望む供物じゃなかったのかもしれない。だから俺たちは、この仲間を差し出す。神の怒りが鎮まることを願って!」
祭司はエリオをじろりと眺め、それから怒りに震える村人たちを見回した。
「……では、生贄を替えてみるとしよう。神がお望みなのは、この化け物なのかもしれん!」
村人たちは一斉にエリオへ飛びかかった。
何人もの手が全身を探り、武器を取り上げようとする。
だが、その一秒にも満たない隙を突いて、エリオは腰の剣を何食わぬ顔でグレンへ渡していた。
屈強な男たちに担がれたエリオは祭壇へ運ばれ、太い麻縄で柱へ縛りつけられる。
両手は外套の下に隠したまま、腕をわざと外側へと突っ張らせた。村人が縄を結ぶその隙に、器用に手首の内側で縄結びを握り込んだのだ。
格闘技術学院で教わった脱出術。
だが、実戦で使うのは今日が初めてだった。
グレンはエリオから預かった剣を握り、コーディアと肩を並べて立つ。
二人とも心臓が激しく鼓動し、額には冷や汗が浮かんでいた。拳を強く握りしめ、必死に呼吸を整える。
もし作戦が失敗したら。
もし魔獣たちが約束を破ったら。
もしエリオが――。
その先は、とても考えられなかった。
「誰を出す?」
後方では魔獣たちが相談を始めていた。
やがて第一要塞と第二要塞が、それぞれ三体ずつ代表を選び、屋根の上で身構える。
グレンとコーディアは、その中にマイビーの姿を見つけて顔を曇らせた。
なんでよりによって、あいつなんだ。
狡猾で陰険そうなあの魔獣が、もしエリオの急所を狙ったら――。
一方、村人たちは息を呑んで空を見上げていた。
彼らには魔獣が見えない。ただ、心の中で思い描く「神の使者」が姿を現す瞬間を待っている。
そしてエリオは、柱に宙吊りにされたまま全身に冷や汗を流していた。
さっきは自信満々なふりをしていた。けれど、本当は怖くてたまらない。
とくにマイビーから漂う悪意が、全身にも心にも重くのしかかっていた。
深呼吸を繰り返さなければ、息が詰まりそうだった。
落ち着け。
エリオは目を閉じ、頭の中で手順を整理する。
結び目を放し、腕を引く。すると縄は一気に緩む。そのまま飛び降りた瞬間、何体もの魔獣が自分へ飛びかかってくる。
その一瞬で。自分の策が名案だったのか、それとも命を賭けた愚策だったのか、答えが出る。
ムムロは言った。魔獣は約束を守る、と。信じよう。
昔のエリオなら、魔獣と交渉できるなんて考えもしなかった。
まして、一部のことなら信じられる存在かもしれないなんて。
だけど、もう他に道はない。
相手はムムロだ。第一要塞で、自分たちを逃がしてくれたあの魔獣。
だから今回も、信じてみよう。
もう一度だけ。ムムロを信じよう。
エリオは目を開いた。
手を離す。腕を引く。きつく締まっていた縄が一気に緩み、エリオの背中が柱から離れた。体が落下を始める。
紫の瞳となった左目には、六体の魔獣が同時に屋根を蹴って飛び出す姿が見えた。
引っ込めていた爪が前へ伸び――
違う。
マイビーだけは、その鋭い爪をまっすぐエリオの頭へ振り下ろしてきた。
その一瞬、エリオは自らの死を、これ以上ないほど間近に感じていた。
頭を切り裂かれる寸前、エリオはとっさに首を引く。頭頂部に鋭い痛みが走った。
村人たちは、シュッという風切り音を聞いた。見えない何かがエリオの頭をかすめ、黒い髪が一房宙を舞う。そこには、わずかに血しぶきも混じっていた。
それでも、あの異色の瞳はまっすぐ前を見据えている。まるで恐れを知らないかのように。
マイビーは爪を引っ込めてなどいなかった。最初からエリオを殺すつもりだったのだ。
だが、あいつは一つだけ失敗を犯した。左側から襲いかかったこと。
そのおかげで、エリオは紫の左目でマイビーの動きを捉え、致命の一撃をかわすことができた。頭に浅い傷を負っただけで済んだ。
「エリオ!」
グレンが祭壇へ飛び上がる。叫びながら、エリオの剣を放り投げた。
空中で剣をつかんだエリオは、着地と同時に振り返り、二人の少女を縛る縄を一閃で断ち切る。そのまま片方の少女を抱き上げた。
続いて祭壇へ飛び乗ったグレンも、もう一人の少女を軽々と抱える。
二人は屋根へ飛び移り、夢中で駆けた。
広場を離れ、大木の陰にある草むらまで逃げ込んで、ようやく足を止める。
背後で騒ぎが起こった。
二人が振り返ると、コーディアがあの母親を連れて追いついてきていた。
「私の子たち!」
母親は半ば取り乱しながら叫び、コーディアを振り切って姉妹へ駆け寄る。そして二人を力いっぱい抱きしめた。
「お母さん、私たち平気だよ」
足の不自由な少女が言う。
「大丈夫だよ、お母さん」
目の見えない少女も続けた。
母親は姉妹を狂ったように抱きしめたまま、激しく泣きじゃくり、止まらない震えに身を任せていた。しばらくしてようやく顔を上げる。
「ありがとう……ありがとう……本当に、ありがとう……」
グレンは涙をこらえ、小さく言った。
「早く、この子たちを連れて逃げてください。きっと村人たちも探し始めています」
エリオが草むらからそっと顔を出す。魔獣たちが追ってくる気配はない。
成功した。本当に成功したんだ。
胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
まさか、本当にうまくいくなんて。
グレンが母親を急かす。それでも彼女は何度も頭を下げていた。
「当然のことをしただけです! 早く行ってください! 時間がありません!」
母親はうなずき、立ち上がる。片腕で足の不自由な娘を抱き、もう片方の手で目の見えない娘の手を引く。
そして、もう一度深々と頭を下げると、二人の娘を連れて森の奥へ消えていった。
「はあぁっ!」
グレンが大きく息を吐いた
「信じられるか? 俺たち、本当にやったんだ!」
「ああ」
エリオは笑ってグレンとハイタッチする
「最高の作戦じゃなかったかもしれないけど、少なくとも誰もケガしなかった」
「これで安心してブレイ団長たちと合流できるな」
グレンも笑う
「やっと肩の荷が下りた気分だ」
「行こう!」
エリオが明るく言った
「……あれ? コーディアは?」
エリオが辺りを見回す。
「え? さっきまでここにいたよな?」
グレンも首をかしげた。
二人は草むらを出る。
その瞬間。頭上で、銀髪の魔獣が木の枝を伝い、森の奥へ駆けていく姿が見えた。
ムムロだ。
そして、その肩には――コーディアが担がれていた。
あっという間に、その姿は森の闇へ消えていく。
「……あの野郎!」
エリオは思わず叫んだ
「俺たちと交わしたあの約束を、反故にしやがった!」
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