71. 囮と罠
エリオたちは慎重に祭りの広場へ戻った。
人だかりはまだそこにあったが、最初の儀式で人々が見せていた、畏れと期待が入り混じった空気はもうない。代わりに、重く沈んだ恐怖が広場全体を覆っていた。
祭司は祭壇の上で途方に暮れたように立ち尽くし、村人たちは落ち着きを失って押し合っている。
隅の方では、一人の女が地面にひざまずき、何度も額を打ちつけながら祈っていた。
その叫び声から、エリオたちは彼女があの姉妹の母親だと知った。
姉妹はまだ柱に縛られたままだった。覆い布はすでに外されている。それなのに、二人とも今のところ傷一つ負っていない。
不思議だった。
屋根の上には、相変わらず数体の魔獣が陣取っている。
魔獣の群れの中には、以前第一要塞で出会った緑髪の魔獣――マイビーの姿もあった。
なのに、どうしてあの姉妹を食べないんだ?
「神は……お怒りになったのか?」
群衆の中からそんな声が上がった。
「もう一度祈りを捧げたのに、なぜ神の使者は供物を受け取らないんだ?」
「私たちは何か間違えたのか?」
「神罰が下るんじゃないか……?」
泣き出す者まで現れた。
「皆さん、どうか敬虔な心を――」
祭司が言いかけた瞬間、怒声が飛んだ。
「責任を取れ! お前は祭司だろう!」
「そうだ! こんなこと今まで一度もなかったじゃないか!」
「村が呪われたら祭司のせいだ……!」
恐怖と不安は、少しずつ怒りへと変わり始めていた。
「どういうことだ?」
コーディアが小声で尋ねた。
三人は一軒の家の壁際に身を隠している。
「わからない。なんであの魔獣たちは動かないんだ?」
エリオも首をかしげた。
「今のうちにあの姉妹を助けるか?」
グレンが言う。
「でも状況が混乱しすぎてる。見ろよ、祭壇にまで上がってる村人もいる。それに魔獣たちが何を考えてるのかもわからない」
エリオは慎重に答えた。
三人は危険を承知で、魔獣たちがいる建物の近くまで忍び寄った。
軒下に身を潜めると、激しい議論の声が聞こえてくる。
「さて、どうする?」
マイビーの声だった
「もともとこの祭りは、第一要塞と第二要塞のこの地域における優先狩猟権を決めるためのものだったんだぞ」
「今の得点はどうなってる?」
「現在は同点だ。最初の供物は第二要塞が先に触れた。二つ目は俺たち第一要塞が先だった」
「はぁ……まさか途中で中断されるとはな」
「三つ目は無効ってことでいいんだよな?」
「残り二つの供物で決着をつけるか?」
「でも今が同点なんだぞ? 残りでも同点になったらどうする?」
「これ、狩りの競争にしてるってことか……?」
グレンが顔をしかめた
「人の命を弄ぶなんて、あまりにも残酷だろ」
すると背後から声がした。
「人間がよくそんなことを言えるな」
三人は飛び上がるほど驚いて振り返った。ムムロがいつの間にか立っていた。
「魔獣も食べなければ生きていけない。私たちはただ、食料資源の分配を公平に決める方法を作っただけだ」
ムムロは無表情のまま言った。
「それに対して人間はどうだ? くだらない理由で同族を殺し合っている。本当に、人間に魔獣を責める資格があるのか?」
三人は思わず顔を見合わせた。ほんの一瞬だけ。ムムロに言いくるめられそうになった気がした。
「で、でも!」
グレンが勇気を振り絞る
「祭壇のあの二人は、何の力も持たない小さな女の子なんだぞ! なんで食べられなきゃいけないんだ?」
「話を聞いていなかったのか?」
ムムロは淡々と返した
「この祭りは、第一要塞と第二要塞の優先狩猟権を決めるためのものだ。私たちの本当の目的は供物を食べることじゃない」
そして目を細めた。
「それに――供物を選んだのは私たちじゃない」
それは確かにその通りだった。
コーディアは黙って考える。
祭壇に縛られた子供たちを選んだのは、人間だ。魔獣ではない。
「ムムロ……」
コーディアが口を開いた
「困らせるかもしれないけど、その子たちを見逃してくれない?」
「それは私一人で決められる話じゃない」
ムムロはそう言って、小さく肩をすくめてみせた
「今も魔獣たちが、どうやって勝敗を決めるか話し合っているところだ」
そのときだった。一人の村人が、物陰に隠れていたエリオたちを見つけた。
「おい、見ろ!」
男が甲高い声で叫ぶ
「あいつらだ! さっき供物を奪った異教徒だ!」
人々が一斉に振り向く。
「あいつ、昨日宿屋にいた化け物だ!」
別の男がエリオを指差した
「見ろよ、あの左右で色の違う目を!」
「気味が悪い……」
「間違いなく怪物だ」
「あいつが不吉なものを村へ持ち込んだんだ!」
非難の声が次々と飛び交う。
怪物?俺のことか?
エリオは最初、戸惑った。だが次の瞬間、胸の奥に怒りが湧き上がる。
――目の色が違うだけで、そんなふうに言われなきゃならないのか?
そのとき、ミレイナの言葉が脳裏によみがえった。
『供物には家畜や老人のほかに、“不完全な怪物”と呼ばれる者たちも含まれます』
エリオの中で、一つの考えが形になった。
うまくいくかどうかはわからない。それでも――。
彼はゆっくりとムムロを見た。
「ムムロ……一つ、考えがあるんだ」
◆ ◆ ◆
村人たちは祭壇を取り囲んでいた。その顔には怒りがありありと浮かんでいる。
「この化け物を神の使者に捧げろ!」
そんな叫び声が四方から飛んでいた。
数分前――
エリオたちは魔獣たちと一つの取り決めを交わしていた。
村人たちがエリオを怪物だと言うのなら、その流れを利用してしまえばいい。
エリオ自身が供物となり、「神」に選ばせるのだ。
「面白そうだな」
ムムロがエリオを見た
「つまり、お前は私たちに食われるつもりか?」
「食われたりしないさ。俺は他の供物とは違う。狩魔師だからな」
エリオは落ち着いた声で答えた
「ただ、新しい勝負の方法を提案してるだけだ。どうせ今のお前たちも決着の付け方を思いついてないんだろ?」
「で、どうなったら勝ちなんだ?」
別の魔獣が尋ねる。
「もともとのルールは、最初に供物へ触れた魔獣がいる要塞の勝ちだったよな?」
エリオは考えながら説明した。
「村人に俺を柱へ縛り付けさせる。そのあと、俺は策を講じて拘束を解く。
俺が柱から逃げ出す前に、どっちの要塞の魔獣でもいい。最初に俺へ触れた側の勝ちだ」
「ほぉ~」
第二要塞側らしい魔獣が声を上げた
「ムムロ、どう思う?」
「いいんじゃないか」
ムムロはあっさり答えた
「一発勝負で決着をつける方が手っ取り早そうだ」
その時だった。それまで黙っていたマイビーが割り込んだ。
「ムムロ、お前正気か?」
緑色の瞳が鋭く細められる。
「人間と手を組むつもりか?」
「私は早く勝敗を決めるべきだと思っている」
ムムロは平然と言った
「これは両要塞の魔獣たちの狩猟権に関わる問題だからな」
そして真っ直ぐマイビーを見据える。
「それとも、お前にもっと良い案があるのか?」
マイビーはムムロを睨みつけた。そして顔を近づけ、小声で囁く。
「私が知らないと思うなよ。前にこいつら人間が第一要塞へ侵入した時、お前が逃がしたんだろ? 今度は人間と協力だと? 長老ダリプーロロが聞いたらどう思うだろうな?」
「好きに告げ口すればいい」
ムムロは少しも動じなかった
「前回、人間を逃がしたのが私だと証明できるならな」
マイビーの表情が歪む。
ムムロの言う通りだった。あの時、捕らえた人間を逃がした証拠は何一つない。
しかも長老ダリプーロロはもともとムムロを高く評価している。だから疑惑は結局うやむやになった。
そのことが、マイビーにはずっと面白くなかった。
「おい!」
第二要塞の魔獣が苛立った声を上げる
「第一要塞はこの勝負を受けるのか受けないのか、どっちだ?」
「受ける」
ムムロは即答した
「それでいこう」
「じゃあ決まりだな?」
エリオが言う。
コーディアとグレンは、そのやり取りを聞いて青ざめていた。
何なんだ、この無茶苦茶な方法は。
エリオは魔獣と交渉しているのだ。しかも自分自身を賭けて。
「反対だ」
グレンが口を挟んだ。
「私も反対……」
コーディアの声は震えていた
「エリオ、そんな危険を冒さないで」
「あそこに直接殴り込みをかけて、あの姉妹を連れてずらかろう」
グレンも続ける。
「殴り込み? 今の村人たちがどれだけ怒ってるか見ただろ?」
エリオは眉をひそめた
「今あの子たちを救い出すのは、さっきミレイナを助けた時より難しい。しかも俺たちは三人しかいないんだ」
「忘れるなよ」
ムムロが口を挟む
「お前たちが供物を奪えば、今度は魔獣たちも追いかけることになる。もともと競技の対象なんだからな」
「でも……」
コーディアは必死に別の方法を探そうとしていた。しかし何も思い浮かばない。
「時間がない!」
エリオが言った
「今決めるしかないんだ!」
村人たちはじりじりと距離を詰めてきていた。包囲しようとしているのは明らかだった。
コーディアは助けを求めるようにグレンを見る。グレンは唇を強く噛んだ。
どうすればいい。
グレンはエリオを見つめ、それからムムロへ視線を移すと、いつの間にか拳を強く握り締めていた。
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