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6. 初めての幻域

「ソーン、やっぱり引き返そう!」

グレンが前方へ向かって叫んだ。


日はすでに沈み、空には厚い雲が垂れ込めている。月明かりすらほとんど見えない夜だった。


幻域偵察隊の四人は、幻域南西部の山岳地帯で数日間も足止めを食らっていた。


平頭に大柄な体格。

グレン・フォグラーは四人の中で最年長だった。


彼は当初、ザヒール側の国境から幻域へ入るつもりでいた。


幻域は四方を山々に囲まれている。

だがザヒール側だけは比較的開けた峡谷があり、これまで狩魔師たちもそこを出入り口として利用してきた。


しかしソーンフィールド・カウェンディッシュは違った。


最年少の狩魔師である彼は、ナディラ側の山岳地帯から侵入するべきだと主張したのだ。


地形は複雑だが、その分だけ魔獣に発見される危険も少ない。

それがソーンの理屈だった。


ソーンはナディラ有数の名門、カウェンディッシュ家の出身だ。

王家であるナディラ家とも極めて近しい関係にある。


さらに幼い頃から狩魔師として非凡な才能を示し、わずか十一歳でナディラ王室直属の狩魔師へ抜擢された。


そのためか、彼は常に自信家で自己中心的だった。

同じく王室直属の狩魔師であるヴィクター・ホールでさえ、時々手を焼いているほどだ。


山へ入ってから三日。

一行は完全に方向感覚を失っていた。

同じ場所をぐるぐる回っているような感覚さえある。


辺りはさらに暗さを増していた。そこでソーンは……

「高い場所まで登れば自分たちの位置が分かる」

と言い出した。


他の三人の返事も待たず、一人で先へ駆け出す。

仕方なく残りの三人も後を追った。


だが幻域の地形は想像以上だった。

山道は入り組み、上へ下へと続き、何度曲がっても山を抜け出せる気がしない。


さらに厄介なことに、幻域には特殊な鉱物が存在するらしく、携帯していた方位磁針も狂ってしまっていた。


それでもグレンと、同じザヒール出身の長髪の少女、コーディア・キャスターは冷静だった。

二人は道中、小刀で忘れることなく目印を残し続けていた。


今、四人は山腹で足を止めている。

周囲には奇妙な形の岩が無数に並び、その隙間には細い裂け目が走っていた。

夜の闇の中では、それが道なのか行き止まりなのかすら分からない。


グレンは空を見上げた。


これ以上進むべきではない。そう判断する。

「みんな、今日はここで休もう。夜が明けてから改めて考えればいい」


ヴィクターとコーディアは頷いた。

だがソーンだけは露骨に不満そうな顔をしている。


「まったく面倒だな」

ソーンは腰を下ろしながら愚痴をこぼした

「ずっと山頂を目指してるのにさ。もう少しで越えられそうになるたびに、変な岩に道を塞がれるんだよ」


「それが理由かもしれないわね」

コーディアは水筒を口元へ運んだ。


「今まで誰もこちら側から幻域へ入ろうとしなかったのは。

確かに魔獣には遭遇していないけど、地形が複雑すぎるもの。

いっそ明日は来た道を戻るのもありかもしれないわ」


「もうすぐ越えられるかもしれないだろ!」

ソーンは寝転びながら文句を続ける

「みんな歩くのが遅いんだよ。

明日は俺が先に偵察する。道を見つけたら合図するから、後から来ればいい」


「駄目だ」

グレンは即座に否定した

「幻域では必ず四人で行動する。単独行動は危険すぎる」


「危険?」

ソーンが鼻で笑う

「ザヒールじゃ俺の話を聞いたことないのか?

俺、一人で魔獣二十体を相手にしたことがあるんだけど」


「それは本当にすごいわ」

コーディアが柔らかく微笑んだ

「でも今回はザヒールとナディラの共同任務でしょう?

もしあなたに何かあったら、私たちもナディラ王家に申し訳が立たないもの」


「まあ、それはそうだけど」

ソーンは得意げに口元を緩めた。


この数日でコーディアは学んでいた。

ソーンが駄々をこね始めた時は、優しく持ち上げた方が話が早い。

正面から否定すると余計に面倒になるのだ。


「みんな休んでくれ」

グレンは剣を手元へ置いた。

「見張りは俺がやる」


ソーンとヴィクターはすぐに眠りについた。

コーディアだけが、星ひとつ見えない空を見上げていた。


ふとエリオのことを思い出す。

――魔獣が見えないプルプラ族。


その噂は以前から耳にしていた。

幼い頃から出来損ないだと笑われ続けてきた少年。

そして今は、両親を魔獣に殺されるのを見ながら何もできなかった。


その無力感なら、コーディアにも少し分かる気がした。


今頃エリオは何をしているのだろう。

きっと誰よりも黄の匣奪還に参加したかったはずだ。


コーディアは寝返りを打った。これ以上考えるのはやめよう。

そう思って目を閉じる。


だが次の瞬間、違和感が走った。コーディアは目を開く。じっと前方の岩を見つめた。


「グレン」

身を起こし、小声で呼ぶ

「ねえ、あの岩……見覚えない?」


グレンが振り返った。コーディアの指差す先を見る。そこには奇妙な形の岩があった。


地面近くで二股に分かれ、まるで両脚を開いて立っている人間のように見える。

さらに上部は前へ突き出していて、両腕で崖を支えているようにも見えた。


コーディアは思い出した。


今日の夕方、似たような岩を見たのだ。形が特徴的だったので印象に残っている。


そして、その岩には一本の蔓が絡みついていた。

痩せた幻域の土地で植物を見ること自体が珍しい。

だから余計に記憶に残っていた。


その時はまだ幻域の外縁部だからだろうと思った。

中心部ほど土地が痩せていないため、わずかな植物が生えているのだと。


だが今目の前にある岩もよく似ている。


コーディアはゆっくり体を動かし、反対側を覗き込んだ。

やはりあった。蔓のようなものが垂れている。


その時だった。

グレンの表情が変わる。


「あの岩……」

彼は低い声で言った

「今、動かなかったか?」


コーディアが振り返る。


だが理解するより早かった。


グレンは地面を蹴る。

一瞬でコーディアの前へ飛び出した。両手で剣を握り締める。


そして――

ガキィンッ!!

鋭い衝突音が夜の山へ響いた。


グレンの剣が、一体の中型魔獣の爪を受け止めていた。

先ほどまで岩だと思っていたもの。それは岩ではなかった。魔獣が擬態していたのだ。


コーディアは即座に剣を掴み、跳び起きた。そのまま振り向きざまに剣を突き出す。

刃が魔獣の身体へ深く突き刺さった。


魔獣は悲鳴を上げ、その場へ倒れ込む。


その声でヴィクターとソーンも飛び起きた。

二人は素早く剣を抜き、戦闘態勢を取る。


「大丈夫か!」

グレンが叫びながら後退した。ヴィクターとソーンの位置へ近づいていく。


「平気!」

コーディアも地面すれすれまで姿勢を低くしながら後退した。


四人は背中合わせになり、円陣を組む。


これまでずっと、この辺りには魔獣がいないと思っていた。

道中、一度も姿を見なかったからだ。


だが今は違う。

周囲に異様な気配が漂っていた。まるで大勢が息を潜めているような音。空気そのものが張り詰めている。


闇の中で、何かが襲いかかる瞬間を待っている。


その時、四人は理解した。周囲の奇岩の多くは岩ではない。


魔獣の擬態だったのだ。


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