62. 黒い森の先にある未知の国
どうして俺はここにいるんだろう……。
エリオは心の中でそう呟いた。
今の彼は、いつものマントではなく厚手のロングコートを身にまとっている。
黒い革の内側には柔らかな毛皮が張られ、両手には手袋、足元も防寒用の雪靴へ履き替えていた。
前方には単調な黒い森が広がっている。その先には険しい山々がそびえていた。ザヒールの山脈とはまるで違う。
ザヒールの山々はいつだって緑に満ちていた。
秋になれば黄金色の紅葉が山を埋め尽くす。
だが目の前の山は違う。
色彩は乏しく、冷たく、鋭い稜線ばかりが空へ突き刺さっている。
まるで巨大な斧で削り出された岩の彫刻のようだった。
一行は先ほどナディラの国境を越え、幻域の北に位置するサマン国へ足を踏み入れたばかりだった。
そしてすぐに感じた。サマンは他国とはまるで違う。
金銀財宝を積み上げたような豊かさを誇る西国ナディラとも違う。
力強さと秩序に満ち、それでいていつも笑い声の絶えない南国ザヒールとも違う。
北国サマン。なんと言えばいいのだろう。
この国には、すべてが薄いヴェールに包まれているような感覚があった。
表面の向こう側に、どれだけの秘密が隠されているのか見通せない。
そんな不気味さがある。
エリオはぶるりと身を震わせた。
寒さのせいではない。周囲に漂う気まずい沈黙のせいだった。
右隣を歩くコーディアはコートの襟を立て、顔の半分を埋めている。
髪が頬にかかり、表情は見えない。
そして左隣には今回の任務に参加する防衛軍団長アレク・ブレイ。
胸を張って歩く姿はまるで行軍中の兵士そのものだった。
コートの金属ボタンは留められておらず、その顔には「誰も俺に話しかけるな」と書いてあるようだった。
出発してから一時間。三人の間では一言も会話がない。
前方では楽しそうな笑い声が聞こえているというのに、こちらの空気は氷室の中のように冷え切っていた。
第二要塞で起きた出来事をザヒール皇帝とナディラ皇帝へ報告した後、二人の皇帝は黄の匣奪還のためサマンへ向かうよう命じた。
だが今回は事情が違う。
相手は魔獣だけではない。人間も関わる可能性が高い。
そのため狩魔師だけでなく、一般兵士も同行させるべきだという結論になった。
ザヒール皇帝は戦闘能力と外交能力の両方に優れる防衛軍団長アレク・ブレイを指揮官に任命した。
情報収集を得意とするミレイナも同行する。
一方ナディラ皇室からは、防衛軍団の小隊長が派遣された。
赤い髪を持つ精悍な男。その名はフレデリック・ナディラだった。
すべての準備が整った時だった。アレクが突然口を開いた。
「コーディア、お前の任務はここまでだ。狩魔軍団から別任務が出ている」
「どうしてですか?」
コーディアは即座に反論した
「黄の匣はまだ取り戻してませんよね? 私は任務チームの一員です。最後まで皆と一緒にやるべきじゃないですか?」
「理由はない。命令だ」
アレクは強硬だった。
その後、エリオたちは部屋の外へ出された。
しかし中からはコーディアとアレクの激しい言い争いが聞こえてくる。
誰も口を挟めなかった。
結局のところ、アレクはコーディアを説得できなかった。
渋々ながら同行を認めることになる。
だがその代償として、二人は道中ずっと意地を張り合い、一言も口を利かなかった。
ミレイナとグレンは先頭で道を確認しながら楽しそうに話している。
ソーンとフレデリックもそこへ加わった。
そして残されたエリオだけが、二人の間に挟まれていた。
前のグループへ逃げようとするたびに、コーディアが袖をぐいっと引っ張る。
そのせいで彼は延々と二人の間を歩かされていた。
――ああああ……。
誰か助けてくれ。
この気まずい空間から解放してくれ……!
エリオは本気でそう思った。
今なら魔獣と戦う方がまだ気楽だ。
ようやく休憩時間になった。ミレイナが黒い森の中に小さな空き地を見つけ、簡単な食事の準備を始める。
「この先を少し進めば黒森を抜けて、サマン国境の宿屋に着くわ」
ミレイナが言った
「だから少し休憩して何か食べましょう」
「腹減った!」
救われたような顔でエリオが前へ飛び出す。
「干し肉があるぞ。後ろの荷物に缶詰も入ってる」
グレンが言った。
アレクは黙って腰を下ろした。
コーディアはそれを見て、わざと一番離れた場所へ座る。
ミレイナはコーディアの隣へ腰を下ろし、小声で尋ねた。
「まだブレイ団長に怒ってるの?」
コーディアはパンをかじりながら不満そうに答える。
「だって団長はいつも私の実力を認めてくれないんです。難しい任務になると、絶対に私じゃ力不足だって決めつけるんですよ」
「あはは」
ミレイナは思わず笑った。
「私は団長の部隊じゃないけど、何度も一緒に仕事したことがあるの。だから分かるわ。団長は別にあなたの能力を否定してるわけじゃないのよ」
「じゃあ何なんですか?」
「うーん……何て言えばいいかな」
ミレイナは苦笑する。
「ちょっと過保護なのよ。みんなから『妹大好き人間』だって笑われてるくらいにはね」
「でも私はもう子供じゃありません」
コーディアはむっとした。
「団長にとっては違うのかもね。だって両親を亡くしたあなたを軍の孤児院へ連れて行ったのは団長でしょう?」
ミレイナは優しく言った。
「前に聞いたことがあるの。
その頃のあなたはすごく小さくて、病弱で、毎日泣いてばかりだったって。
ちゃんと大人になれるのか、本気で心配してたらしいわ」
彼女はくすりと小さく笑った。
「その心配は今でも消えてないんじゃないかな。きっとそれが兄ってものなのよ」
コーディアはこっそりアレクの方を見た。するとアレクもこちらを見ていた。
慌てて視線を逸らし、パンを一口かじる。
ミレイナの言葉は全部分かっていた。
アレクが孤児院の頃からずっと自分を可愛がってくれたことも。
血の繋がりなどなくとも、自分をこれほど温かく育ててくれた『兄』への感謝は、とうに心の奥底に刻まれている。
だからこそ――。
だからこそ、認めてほしいのだ。自分にも力があるのだと。
「私、もう二回も幻域に入って無事に帰ってきたんですよ」
コーディアは悔しそうに言った
「なのにどうして、私の実力を信じてくれないんでしょう」
「うーん」
ミレイナは少し考えてから答えた
「たぶん今回はサマンだからよ」
「サマン?」
「ええ。この国の事情はかなり複雑なの」
ミレイナは頷く。
「しかも実権を握っている教皇ドミナス・カルセレスは相当なやり手だって聞いてる。
私たちは今、その人の縄張りで任務をするのよ。危険度で言えば、幻域に負けないかもしれないわ」
「へえ……」
コーディアは思わず声を漏らした。
ミレイナは少しだけ表情を引き締める。
「時には魔獣より、人間の方が危険なこともあるの。だから絶対に油断しちゃ駄目よ」
突然、彼女たちの会話を遮る声がした。
「おやおや、美女お二人で何を話してるんだい?」
声の主はフレデリック・ナディラだった。
開けた鹿肉の缶詰を片手に持ち、もう片方の手には小さな酒瓶を提げている。
「特に何でもありません。サマンの状況についてコーディアと話していたんです。
私たちが情報収集をしても、サマンについて把握できるのはほんの一部だけですから」
ミレイナが答えた。
「ははっ! 心配いらないさ~。ここにいるのはみんな選び抜かれた精鋭だろ?
今回の任務なんてきっと楽勝だって。ほら、美人さんたちに一杯注いでやるよ」
フレデリックは鹿肉の缶詰を二人の前に置き、小さなカップへ酒を注ぎ始めた。
それを見たグレンが驚いたような顔をする。
「ありがとうございます、ナディラ隊長。
でも今はお酒は控えたほうがいいと思います。まだ移動がありますので」
ミレイナは丁寧に断った。
「ははっ! そんな堅苦しくしなくていいって。君、ミレイナだろ? フレデリックって呼んでくれればいいさ~」
そう言いながら、フレデリックは自然な仕草でミレイナの肩に手を回した。
ミレイナは眉をひそめると、食べ物を取りに行くふりをして素早く立ち上がる。
そのまま肩に置かれた手をさりげなくかわした。
「おいおい、そんな真面目になるなよ。ナディラじゃ任務前に酒を飲んで成功を祈願するのが伝統なんだ。ブレイ団長だって止めたりしないだろ?」
フレデリックは相変わらずへらへら笑いながら、酒瓶を持った手をアレクへ向けて振った。
だが、アレクは笑わなかった。真面目な表情のままフレデリックの方へ歩み寄る。
「すみません、ナディラ隊長。今回の任務の総指揮として申し上げますが、この場で飲酒するのは適切ではありません。任務が無事に終わった後、祝杯を挙げるほうがふさわしいでしょう」
「はいはい、じゃあ団長殿の言う通りにしようか~」
フレデリックは人好きのする笑みを浮かべたが、その横で、ミレイナは呆れたようにそっと白目を剥いていた。
「ナディラって、任務前に酒飲む習慣があるのか?」
エリオが小声でソーンに尋ねた。
「別にない」
ソーンは肩をすくめた。
「でも名前見れば分かるだろ。フレデリックはナディラ家の人間なんだ。普段からあんな感じだよ。どうせ背後には皇室がついてるしな」
「確かにな。ブレイ団長も結構丁寧に話してたし」
グレンは鹿肉を頬張りながら小声で言った。
しばらくして全員が十分に休憩を取ると、再び出発した。
ミレイナによれば、日が沈む前に国境の宿屋へ到着しなければならないらしい。
そのため一行は足を速めた。
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