61. 裏切られた者たち
サーカノン長老が勢いよく立ち上がった。
その隣にいた魔獣たちがモルゴロスへ襲いかかる。
だがモルゴロスは軽やかに左右へ身をかわした。魔獣たちに包囲されながらも、焦った様子はまるでない。
上方から振り下ろされた攻撃を仰け反って避けると、続けざまに背後の二体へ拳を叩き込み、地面へ沈めた。
一方、サーカノンの周囲も混乱の渦に包まれていた。
いつの間にかイスマリスが後方の魔獣を制圧している。
そのままモルゴロスの援護へ向かおうとした時だった。サーカノンが地面を強く踏み鳴らす。
ドンッ――という衝撃と共に、エリオたちは会議室のある中央の石柱全体が揺れたのを感じた。
数秒も経たないうちに、第二要塞のあちこちから数十体もの魔獣が中央の石柱へ雪崩れ込んでくる。
鋭い咆哮が石柱内部に響き渡った。まるで悪魔たちの交響曲だった。
モルゴロスとイスマリスは魔獣の群れに完全に包囲される。
何体もの魔獣が手足を押さえつけようと飛びつき、別の魔獣たちは急所を狙って襲いかかる。
そんな乱戦の最中だった。エリオの耳に、かすかな笛のような音が届く。
彼は目を細めて下を見た。すると数体の魔獣が壁へ叩きつけられ、その間を緑色の影が会議卓の上を駆け抜けていく。
目を凝らしたエリオは思わず息を呑んだ。
ナウセクだ。前回、第二要塞で戦ったあの小柄な雌の魔獣だった。
ナウセクはイスマリスに取りついていた魔獣たちへ飛びかかる。
大きく口を開け、その身体へ噛みついた。噛まれた魔獣は瞬く間に血を噴き出す。
その隙にイスマリスは拘束を振りほどいた。
片腕でナウセクを抱き上げながら壁面へ飛び移り、叫ぶ。
「モルゴロス!」
その瞬間だった。
モルゴロスを囲んでいた魔獣たちが、まるで爆発に吹き飛ばされたかのように四方へ弾け飛ぶ。
中心からモルゴロスが飛び出した。
そしてイスマリスとナウセクに続き、壁面を駆け上がって石柱の頂上へ向かう。
彼らがエリオたちのすぐ近くを通り過ぎた時だった。
エリオはモルゴロスの身体に視線を向ける。
そこには細い引っかき傷が数本あるだけだった。
信じられなかった。あれほど大量の魔獣に囲まれていたのに、受けた傷はその程度なのだ。
モルゴロスたちは頂上の穴から脱出した。それを追うように魔獣の群れも一斉に壁を駆け上がる。
このままではエリオたちの隠れ場所が見つかる――。
そう思った瞬間。コーディアがまだ呆然としていたエリオの腕を掴み、梁の陰にある隙間へ引きずり込んだ。
やがて魔獣の群れがすべて外へ飛び出していく。すると中央の石柱は、嘘のように静まり返った。
エリオたちはしばらく息を潜めたまま待つ。下が安全になってから離脱するつもりだった。
その時だった。サーカノンの声が聞こえてくる。
「黄の匣を奪われた」
サーカノンが低く言った
「モルゴロス、イスマリス、ナウセク。奴らは私利私欲のためにイートン博士と手を組み、第二要塞を裏切ったのだ」
冷たい声だった。聞いているだけで背筋が凍る。
「今回の離反に、どれだけの魔獣が関与していたのか調べ上げろ」
その場にいた二体の魔獣は小さく震えていた。怒りに満ちた長老と目を合わせることすらできない。
「私の言葉が聞こえなかったのか?」
サーカノンが言う。
「は……はい……ちょ、長老……」
二体の魔獣はか細い声で答えると、頭を下げながら慌てて退出していった。
エリオとコーディアは慎重に顔を覗かせる。
向かい側ではグレンが目配せしていた。
――早く撤退しろ。
そう伝えている。
これ以上騒動に巻き込まれる前に離脱するべきだった。
エリオたちは天井裏から音もなく滑り降りると、さらに細心の注意を払って地下の密道へと戻っていった。
「事態は思った以上にややこしくなったな……」
グレンは頭をかきながら言った。
「つまりモルゴロスたちとイートン博士は、最初から黄の匣を奪うつもりだったんだろ?
ずっと前から第二要塞の長老を裏切る準備をしてたってことだよな。これで黄の匣は北のサマンへ持ち去られちまったし……」
――裏切り。
その言葉がエリオの胸を重く打った。
両親もまた、信頼していた友人に裏切られ、その命を奪われた。
そして今、同じような出来事が魔獣たちの世界でも起きている。
「エリオ?」
突然ソーンが声をかけた
「幽霊でも見たのか? 顔色ひどいぞ」
エリオは深く息を吐いた。
数秒黙り込んでから、ようやく口を開く。
「みんな、知ってるか? あのイートン博士だけど……あいつ、本当はサマンの人間じゃないんだ。
俺たちと同じザヒールの出身なんだよ。しかも本名はデイモン・ウォーカーだ」
「デイモン・ウォーカー?」
グレンが呆然とした顔で言う
「でもあいつ、魔獣に殺されたんじゃなかったのか?」
「いや、間違いない。あの顔を覚えてる。イートン博士はデイモン・ウォーカー本人だ」
エリオは苦しそうに首を振った。
「どうやって自分が死んだと思わせたのかは分からない。でも……あいつが全部の黒幕だったみたいなんだ。
それで、父さんと母さんも……」
そこから先は言葉にならなかった。だが事情は十分伝わった。
みんな衝撃を受けていた。
それでも落ち込んでいるエリオを見て、誰も軽々しく言葉をかけることはできなかった。重苦しい沈黙だけが続く。
約束の時間になり、サラがザヒールへ戻るため迎えに来るまで、誰もほとんど口を開かなかった。
それぞれが胸の内に思いを抱えたまま、ただ静かに時間が過ぎていった。
「みんな、大丈夫?」
サラが一人ひとりの顔を見回し、不思議そうに尋ねる。
「黄の匣は取り戻せなかったんだ」
ソーンが肩をすくめた。
「とにかく、まずはザヒール皇帝とナディラ皇帝に報告だな」
グレンはため息をつきながら立ち上がる。
「帰り道も頼むよ、サラ」
「もちろん」
サラはうなずいた。
エリオたちは黙ったままサラの後ろを歩いた。
帰り道は来た時と同じはずなのに、複雑に入り組んだ地下道は相変わらず方向感覚を狂わせる。
こんな場所を迷いもせず歩くサラには感心するしかなかった。
いくつもの分岐を通り過ぎた頃だった。サラが不意に足を止める。
「みんな、ここで少し待ってて。密道にいる男の人に食べ物を届けてくるから」
そう言うと、右側の分岐へ入っていった。
エリオたちはその様子を眺めていた。
サラは通路の奥まで進み、誰かに小声で話しかける。
すると脇の穴から一つの人影が現れた。
薄暗い松明の明かりではよく見えない。ただ、少し背中の曲がった男だということだけは分かった。
サラは抱えていた大きな荷物を男に渡した。その後も何か話しているようだった。
男は一度こちらを振り返ったように見えたが、すぐに穴の中へ引っ込んでしまう。
そしてサラは再び戻ってきた。
「その人に定期的に食べ物を届けてるの?」
コーディアが興味深そうに尋ねる。
「うん」
サラはうなずいた
「だって、あの人は一度も密道の外へ出ないんだもの」
「外へ出ない?」
ソーンが目を丸くする
「そんなことあるのかよ?」
「家族とかいないのか?」
グレンも不思議そうに聞いた
「ずっと一人でここに住んでるってことだろ?」
だがサラは肩をすくめるだけだった。
確かに、その謎の男の話はかなり奇妙だった。
だがその奇妙な男への好奇心も、すぐに彼らの頭から掻き消されてしまった。
今の彼らには、それどころではない問題がある。
デイモン・ウォーカーによってサマンへ運ばれた黄の匣。
そして、まだ果たせていない自分たちの任務。
その重い現実を抱えながら、エリオたちは地下道の奥へと歩き続けた。
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