56. 出発早々、危機だらけ
此時、エリオ、コーディア、グレン、ソーンの四人はザヒール北方の国境から幻域へと足を踏み入れていた。
前回、第二要塞で見かけたあの謎の男――イートン博士。
魔獣と交わした約束は「黄の匣と引き換えに百人の生きた人間を差し出す」というものだった。
その記憶がよぎるたびに、エリオの胃の奥がじわりと重くなる。
もし本当に百人の人間を連れて取引に現れたら――。
その時、自分たちはどうするべきなんだ。
黄の匣を奪い返しながら、同時に無関係の人間を救うことなんてできるのか。
だが、それ以上に強く胸を締め付けるものがあった。
今度こそ、自分は“守れる側”にならなければならない。
『仲間の足を引っ張りたくない、じゃない。俺ならできるって思うんだ』
レニーの言葉が頭の奥で何度も響く。
エリオは無意識に剣の柄を強く握った。
「最初に幻域へ来たときのルートをもとに、地図を少し修正してみたわ」
コーディアの声が思考を切り裂くように届いた。
彼女は新しく描き直した地図を広げ、仲間たちへ見せる。
「それと補足も入れてあるの。例えば第一要塞は地中に隠された巨大な要塞だった、とかね。ただ内部の規模まではまだ分からないけど」
「それでも、ミレイナがくれたやつよりずっと分かりやすいぜ!」
エリオは素直に感嘆しながら地図を覗き込む。
「コーディアはやっぱり優等生だな!」
グレンがそう言って肘で軽くつつく。
「ちょ、やめてよ……」
コーディアは少し照れたように笑った。
「ただ残念なのは、前にあの謎の女の子に案内された地下通路を地図に書けないことね」
「無理だろ、あれ。複雑すぎて途中で完全に迷ったしな」
「確かにな。あそこは迷宮そのものだ」
ソーンも短く同意する。
「もう二度と閉じ込められたくはないな」
会話を交わすうちに、四人はさらに幻域の奥へと進んでいた。
湿った霧がじわじわと立ち上がり、視界を侵食していく。
そして時間とともに、その濃度は増していった。
空気が変わる。背後に、微かな違和感。
エリオの耳が、土が崩れるような細かな音を拾った。
反射的に剣を抜く。振り返りざまに一閃。
まだ敵の姿を完全に捉える前に、刃はすでに魔獣の爪を捉えていた。
魔獣が甲高い悲鳴を上げ、後退する。
エリオは息を止めたまま距離を取った。
サイモンおじさんとガジェンドラによる特訓の成果だ。
右の視界では魔獣の姿が見えなくとも、もう動揺することはない。
恐怖より先に、身体が自然と動く。
その横ではグレンも剣を振るい、二体の魔獣を追い払っていた。
魔獣たちは霧の中へと退き、そのまま姿を消す。
だが――終わったわけじゃない。
霧の奥から、圧のような気配が残る。
いつでも飛びかかれる位置で、獲物を見定めているような殺気。
「みんな、気を抜くなよ」
グレンが低く言う。
「魔獣って案外しつこいな……幻域に入った瞬間からこれかよ」
ソーンが舌打ち混じりに呟いた。
四人は背中を合わせるようにして、慎重に前へ進む。
濃霧と魔獣の襲撃が重なり、歩みは明らかに鈍っていた。
コーディアは何度も羅針盤を確認しながら進路を確かめる。
霧が晴れることを願いながら。
だが願いとは裏腹に、霧はさらに濃くなる。視界は五メートル先すら曖昧になった。
グレンが先頭で道を切り開き、
コーディアとエリオが左右を固める。
そしてソーンは最後尾。背中を合わせるように後ろ向きで進む。
「来るぞ!」
ソーンが鋭く声を落とした。
霧が裂ける。魔獣が飛び出す。
剣が走る。
一体、二体、三体。
ソーンの刃が次々と魔獣を沈めていく。
霧の濃さが逆に仇となっている。
視界を奪われた魔獣たちは、奇襲を狙っていたつもりだったのだろう。
だがその奇襲のすべてを、鷹のように鋭いソーンの眼が完全に見抜いていた。
霧の向こうで黒い影が揺れる。
攻めるか、引くか――迷っている。
空気が張り詰めたまま膠着する。
やがて、空がゆっくりと暗くなっていく。
岩場が点々と姿を現し始めた。
グレンはやや高い岩を見つけ、そこで一度休むことを提案した。
ただし、誰も油断はしない。頭上から魔獣が飛び降りて襲いかかってくる可能性を、四人とも一度目の経験から深く身に染みていたのだ。
「予定よりかなり遅れてるな」
コーディアが言う。
「これじゃ、交易前に第二要塞に着けるか怪しいぞ」
エリオが問いかける。
「やるしかねえだろ。急ぐしかない」
グレンが短く答える。
「急ぐって言っても限度あるぜ。後ろ向きに全力疾走でもしろってのかよ」
ソーンが軽く吐き捨てる。
「まあ、できる限り進みましょう」
コーディアが落ち着いた声でまとめる。
「ただし休めるときは休め。第二要塞に着いた後、どうなるか分からねえからな」
グレンが続ける。
「……それに、今回はヴィクターもいない」
狩魔師の不在は、想像以上に重い。
だが戻ることはできない。進むしかない。
「見ろ、あそこに小さな石の洞窟がある」
グレンが指を差す。
四人は警戒しながら駆け寄る。
洞窟は狭い。四人が座り、背を預けるのがやっとの空間だった。
だが、その分だけ守りやすい。見張りは一人で済む。
エリオが真っ先に名乗りを上げた。他の三人はすぐに食事と休息に入る。
魔獣の群れは今のところ動かない。それでもエリオは目を離さなかった。
霧はわずかに薄れている。
エリオは右手で剣を握り直す。
右側の“見えない領域”を補うように。
もしそこから来るなら――一瞬で斬るために。
幻域の風が地面の砂礫を揺らし、かすかな音を立てていた。
もし以前のエリオなら、そんな音に注意を向けることはなかっただろう。
だが今は違う。
サイモンおじさんの特訓を経てからというもの、周囲の“音”がやけに鮮明に入ってくるようになっていた。
右後方から、砂が擦れるような細かな音。エリオは耳を澄ませる。
「環境の変化に気を配れ」
ガジェンドラの声が脳裏に蘇る。
風の流れ、砂粒のぶつかる音、その“規則”。今ではそれらすべてに一定のリズムのようなものを感じ取れる。
――だが、その規則が崩れた。
どこか遠く。しかし確実に、自分へ向かって近づいてくる“乱れ”。
背後だ。
エリオは反射的に振り向いた。
岩の上から、魔獣が顔を覗かせている。一瞬、目が合う。
魔獣は驚いたように引っ込んだ。
次の瞬間。背後から別の魔獣が飛びかかる。
「っ……!」
エリオは振り返りざまに剣を振るった。反応はわずかに遅れたが、それでも牙を受け止める。
金属が軋む音。
エリオは力任せに剣を振り抜いた。魔獣は避けきれず、顔を押さえながら霧の中へ退いた。
エリオはすぐに洞口へ戻り、再び見張りについた。
しばらくしてから、グレンが外へ出てきて肩を叩く。
「エリオ、もう休め」
「……はい」
エリオは頷き、洞窟へ戻ろうとした。
その時だった。視界の端に、異様なものが映る。
少し離れた岩の下。そこから――白い煙が、細く立ち上っていた。
エリオは目を細める。自然のものではない。一定の場所から、絶えず“吐き出されている”。
一体それは何なのだろう?
ご覧いただきありがとうございます。
【更新スケジュールのお知らせ】
● 毎週 【日・月・火・木・金】18:10 更新
ぜひブックマークして、続きをお楽しみいただけると嬉しいです。
本作を気に入っていただけましたら、評価(★★★★★)やご感想、レビューなどをいただけると大変執筆の励みになります。




