55. 血と鉄の出征誓詞
「かつて血と鉄によって築かれし栄光は、今なお我らを守り続ける。
汝らの魂よ、永遠にこの世に在れ。
刃に宿る光となり、
我らが掲げる盾となれ。
我ら兵は今、征途へ赴く。
先祖の志を受け継ぎ、闇を恐れず、死を恐れず。
戦旗が倒れることなく、戦友たちが無事に帰還せんことを。
勝利は我らの軍に、栄光は我らの祖国に。
血脈は絶えず、信念は永遠なり」
エリオはアージ大将の後ろに立っていた。隣にはコーディアとグレンがいる。
三人はザヒール皇宮の大聖堂――祈祷や祭儀が執り行われる神聖な場所で、左胸に右手を当てながら、厳かな空気の中でアージ大将が唱える出征の祈りを聞いていた。
軍の正式な出征祈願式に参加するのは、エリオにとってこれが初めてだった。
アージ大将の手には一本の宝剣が高く掲げられている。その柄には小さな紋章が刻まれていた。大帝コーウィンの紋章だ。
ザヒールのみならず、他国にも多くの信奉者を持つ不死の戦神。
約三百年前の戦いを最後に姿を消したにもかかわらず、人々はいまだに彼が世界のどこかで生きていると信じている。
なにしろ彼は、史上初めて火のミンガン樹の花を口にし、不老不死を手にした人物なのだから。
祈りを終えたアージ大将の傍へ数名の兵士が進み出た。そして三人の肩へ、ザヒールの青いマントを掛ける。
「我々は当初、黄の匣に収められていた幻葉水の調合表を発見したと考えていた」
アージ大将が言った。
「だが、ザヒール皇帝陛下にご報告した結果、やはり黄の匣を奪還する価値は十分にあるとの結論に至った。
ヴレス夫妻が黄の匣に隠した資料も、極めて重要な研究成果である可能性が高い。
よって、諸君らの任務は継続される。さらにナディラの狩魔師も合流する予定だ。幻域へ入るのは二度目になるが、くれぐれも油断するな」
そう言いながら、アージ大将はコーディアへ視線を向けて片目をつぶった。
「特に君だ、コーディア。アレクは本来、この任務への参加に反対していた。君が何度も頼み込み、さらに私が保証人になったからこそ、ようやく渋々認めたんだ。
今回もし何かあったら、私はアレクに顔向けできなくなるぞ」
「ご安心ください、アージ大将」
コーディアは笑顔で答えた
「自分の身を守りながら、必ず任務を果たしてみせます」
三人は恭しく敬礼し、大聖堂を後にした。そして幻域へ続く国境地帯へ向かう。
そこにはすでにソーンが待っていた。
「よう、ソーン!」
グレンが手を振る
「ヴィクターは来てないのか?」
「ああ」
ソーンは肩をすくめた
「ヴィクターは二度目の幻域遠征には参加しない」
「怪我はもう大丈夫なのか?」
「問題ないさ。本人も復帰したがってたんだがな。なぜか上から許可が下りなかった」
「そうだったのか……」
グレンが頷いた。
「ザヒール軍から追加指示が出てる。任務目標は引き続き黄の匣の奪還だ。
ただし今回は魔獣たちの本拠地へ深く入り込むことになる。正面戦闘で優位に立てない場合は、偵察を優先しろとのことだ。
黒幕の特定、魔獣どもと交渉していたイートン博士の素性、そして黄の匣をどう使うつもりなのか。その辺りを調べるのが主目的になる」
グレンは三人を見回した。
「ヴィクターもいないしな。まずは全員で共通認識を持とう。
極力、魔獣との正面衝突は避ける。仮に黄の匣をすぐ奪還できなくても、情報収集を優先する。それでいいか?」
「問題ない」
エリオとコーディアが同時に答えた。ソーンも気だるそうに頷く。
四人は幻域の方向を見つめた。
今回の目標は前回より遥かに明確だ。黄の匣が保管されている第二要塞へ直接向かう。
だが同時に、言葉にできない不安も胸の奥にあった。
前回、あの場所で遭遇した魔獣モルゴロス。
至近距離で対峙したわけではない。それでも全身から滲み出る禍々しい気配は、思い出すだけで背筋が冷えるほどだった。
「行こう」
エリオは大きく息を吸い込み、真っ先に歩き出した。
しかしその頃――
ザヒールの反対側では。
エリオたちの知らぬところで、ある凶報が静かに幕を開けようとしていた。
◆ ◆ ◆
「はぁ……どうしてこんなことに……」
オールデン・カーターはデイモン・ウォーカーの家に立ち尽くしていた。
その視線の先には、血だまりの中に倒れるジュリアナの姿があった。
すでに息絶えてからかなりの時間が経っている。全身には致命傷となる刺し傷が幾つも残されていた。
その顔は凄まじい驚愕と恐怖に歪んでおり、激しい抵抗の末に命を奪われたことを物語っている。
本来なら今日、カーターはジュリアナをナディラへ送り届ける予定だった。長年の親友であるカイソンのもとへ、無事に返してやるはずだったのだ。
ところが朝になり、カーターがジュリアナの部屋を訪れて扉を叩いても返事がなかった。
何度も声をかけた。それでも反応はない。
不審に思ったカーターは、礼儀を気にしている場合ではないと判断し、そのまま扉を開けた。部屋の中は空だった。
その瞬間、嫌な予感が胸を貫いた。彼はほとんど反射的に駆け出していた。向かった先は、軍によって封鎖されているデイモン・ウォーカーの家。
そして扉を開けた瞬間、目の前に広がっていたのがこの惨状だった。
これをどうやってカイソンに説明すればいいのだろう。
カーターは頭を抱えたくなった。
ジュリアナがここまで頑なに自分で調査を続けようとするとは思わなかった。
その結果がこれだ。
カーターは室内を見回した。周囲の様子には特に変化が見当たらない。情報調査局が作成した現場報告書に記されていた状況とほぼ一致している。
つまりジュリアナはここへ来て間もなく殺されたのだろうか。
カーターは静かにしゃがみ込んだ。そして冷たくなったジュリアナの身体を抱き起こす。
その時、彼女のいた場所に何かが残されていることに気付いた。
血文字だった。死の間際に残した伝言のように見える。
カーターは目を細め、床へ顔を近づけた。
しかし血はすでに滲み、文字は崩れている。何が書かれていたのかまったく判別できなかった。
カーターは深く息を吐いた。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
ジュリアナはナディラの人間だ。だが長年にわたりザヒールと共同研究を続けてきた。
カーターにとっても古くからの知人であり、信頼できる研究者だった。
幻葉水研究班の仲間たちが次々と魔獣に殺されていった時。普段は冷静沈着なカーターも、人知れず何度か涙を流した。
そしてカイソン・ストーンから極秘電報が届いた。
――ジュリアナは生きている。
その報せだけが、彼にわずかな希望を与えてくれた。
だからこそ。彼はジュリアナやエリオの力になりたかった。
この事件の真の黒幕を見つけ出したかった。ヴレス夫妻が命懸けで守ろうとした黄の匣を取り戻したかった。
それなのに。またしても全てが遠のいてしまった。
カーターはゆっくりと窓の外へ目を向けた。
遠く。その先には幻域がある。
ちょうど今日。エリオたちは再び幻域へ向かっている。黄の匣を奪還するために。
カーターは無意識のうちに拳を握り締めていた。そして誰にも聞こえない声で、心の中だけで呟く。
「頑張るんだ、若者たちよ……!」
彼は遠く幻域の空を見つめながら、静かに祈り続けた。
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