53. 暗夜の潜入
ジュリアナは、カーター大将が用意してくれた部屋の隅に座っていた。目の前の小さな寝台をじっと見つめる。
眠れるはずがなかった。
カイソンは、彼女が何度も頼み込んだ末、カーター大将の保護の下でザヒールへ密かに向かうことを認めてくれた。
ヴレス夫妻とデイモン・ウォーカーの家を自分の目で調べるためだ。友人たちが殺された理由。そして、その裏で指示を出した者の正体。
それを突き止めるために。先ほどヴレス家では、確かにいくつかの進展があった。だが、肝心なところはまだ何も見えていない。
ジュリアナは先ほど、デイモン・ウォーカーの家にも連れて行ってほしいとカーター大将へ頼んだ。だが、断られた。
「行かせないわけではない」
カーター大将はそう言った
「ただ、あそこは全部焼け落ちている。君が行っても、恐らく何も見つからないだろう」
今、ジュリアナの手元にはザヒール情報調査局の現場記録表があった。
そこには、デイモン・ウォーカーが殺害され、さらに家ごと無残に焼かれた後、調査員たちが現場で確認した状況が詳細に記されている。
遺体の損傷状態。屋内に残っていた判別可能な物品。そして当時の現場写真。
ジュリアナは素早く記録に目を通した。
途端に、強烈な吐き気が込み上げる。
目を閉じる。喉の奥が震えた。
何年も一緒に働いてきた友人が、最後にこんな死に方をしたなんて。
受け入れられるはずがなかった。
もしかすると、カーターの言う通りだったのかもしれない。あんな現場など、自分は見ない方がいい。
ジュリアナは寝台へ上がり、布団の中へ潜り込んだ。
明日になれば、カーターがナディラまで護送してくれる。
少し落ち着いてから考え直せばいい。どうやって内通者を見つけ出すか。
ザヒールかナディラの国家機密研究開発局には、必ず内通者がいる。それだけは確信していた。
イアン医師の家。ヴレス夫妻の家。そして自分の家。
それらを調べ、照らし合わせた結果、分かったことがある。
魔獣たちは明らかに何らかの研究成果を探していた。
どの家も荒らされてはいた。しかし研究に関する手記や資料の多くは残されている。
今のところ、エリオが話していた黄の匣以外に、持ち去られた研究資料らしきものは見当たらない。
そして魔獣は研究班のメンバーを殺した。だが、食べなかった。
つまり目的は捕食ではない。口封じだ。
ただ、一つだけ分からない。
なぜデイモンの家だけが燃やされたのか。
しかも、デイモンの遺体は身元確認も難しいほど焼かれていた。
内通者は、デイモンにだけ特別な恨みでも持っていたのだろうか。
ジュリアナは天井を睨んだ。頭の中で考えが乱れ続ける。やがて、少しずつ眠気が訪れた。
この一日は、あまりにも疲れすぎていた。まぶたが重くなる。意識が沈みかける。
半分眠りに落ちかけた、その時だった。脳裏に、もう一つの違和感が浮かび上がった。
ジュリアナは目を開けた。そして上体を起こす。
直感が消えてしまう前に、考えを整理しなければならない。
彼女は手を伸ばし、デイモン家の現場記録表をもう一度取った。
今度は一字一句を追うように読み直す。
デイモンの遺体に関する項目には、こう書かれていた。
――遺体は炭化が激しく身元確認困難。
――ただし、遺体に装着されていた鋼製の耳飾りは、デイモン・ウォーカー教授が数か月前から身につけ始めたもの。
――また右手に装着されていた指輪も、遺族によりデイモン・ウォーカー教授の所有物と確認された。
――以上により、遺体をデイモン・ウォーカー教授本人と断定。
ジュリアナには、その鋼製の耳飾りに覚えがあった。
およそ四か月前のことだ。
ある日、デイモンは研究室へ入るなり、嬉しそうにその耳飾りを皆へ見せびらかした。
その時、皆で話したのだ。デイモンは研究班の中で一番装飾品を身につけている、と。
耳飾りだけではない。デイモンは左右の手に、それぞれ指輪を一つずつ着けていた。
特に左手の指輪。そこには青い宝石が嵌め込まれていた。全体の細工も非常に精巧だった。
デイモンは言っていた。おそらく古い時代の貴族が所有していたものだろう、と。
古物商の店で偶然見つけ、一目惚れしてすぐに買ったのだと。
そうだ。ジュリアナは記憶を辿る。あの青い宝石の指輪を、デイモンはいつも肌身離さず着けていた。彼が外しているところなど、一度も見たことがない。
ならば。現場の遺留品リストには、指輪が二つなければおかしい。
遺体には鋼製の耳飾り。右手の指輪。
そして左手には、青い宝石の嵌まった指輪があるはずだった。
だが、記録表にはその指輪の記載がない。
なぜ?
魔獣たちは機密研究成果だけでなく、あの指輪まで奪おうとしたのか。
いや。
どこかおかしい。
仮に青い宝石の指輪が欲しかっただけなら、デイモンを殺して指輪を奪えばいい。わざわざ家ごと燃やす必要はない。むしろ火の手が上がれば、人目を引く。
まるで。何かを隠そうとしているようだった。
あの遺体の本当の身元を、誰にも判別させたくなかったかのように。
その考えが浮かんだ瞬間。ジュリアナの背筋に寒気が走った。
彼女は決めた。今すぐ抜け出して調べに行く。
上着を羽織った時だった。なぜか、嫌な予感が胸をよぎった。ほとんど直感に近い感覚。手が扉の取っ手の上で止まる。一瞬、迷った。
よく分かっている。この真っ暗な夜に、魔獣の見えない人間が一人で外へ出る。それがどれほど危険なことか。
それでも。今、死んだ友人たちの真実を暴けるのは自分だけではないのか。
ここで怯んだら。
レイラ。ソロモン。イアン。デイモン。
彼らの死が、あまりにも報われない。
ジュリアナは拳を握った。
デイモンの家へ行くしかない。自分の目で確かめるしかない。
屋外の通りは静まり返っていた。
夜明け前。どの家も眠りの中にある。
そしてこの時間こそ、魔獣が平民を襲うことが最も多い。
ジュリアナは恐怖を押し殺した。魔獣に食われるかもしれない。その思いを胸の奥へ押し込み、小走りでデイモンの家へ向かう。
途中。扉が開け放たれた家の前を通った。
一目見ただけで分かる。その家は魔獣に襲われていた。住人は、食われている。
それでも足を止めなかった。
ようやくデイモンの家へ辿り着く。そこはすでに軍によって封鎖されていた。デイモンの家族も、別の場所へ移されている。
ジュリアナは手にした提灯へ火を入れた。深く息を吸う。そして、家の中へ足を踏み入れた。
想像していた通り、屋内は凄惨だった。ほとんど全てが焼け焦げている。
彼女は黒く焼けた床を踏みしめ、家の中央に立った。
正直、何を探しに来たのか自分でも分からない。ただ、ずっと違和感があった。
そして家へ入った瞬間、その違和感はさらに強くなった。
しばらく立ち尽くした後。ようやく分かった。この違和感がどこから来ているのか。
デイモンの家は黒く焼けていた。だが、よく見れば他の現場とは決定的に違っていた。魔獣に荒らされた形跡が、ほとんど見当たらないのだ。
多くの家具は元の位置に留まり、本棚の本も、乱雑に床へと薙ぎ払われたような形跡はなかった。
明らかだった。魔獣は、この家を漁っていない。最初から火を放っただけだ。
その事実に気づいた瞬間、ジュリアナはめまいを覚えた。
一つの考えが、心の奥からゆっくりと浮かび上がってくる。
仮説。疑念。そして、自分でも直視したくない推論。
その時だった。背後から足音がした。
ジュリアナはびくりと跳ね上がった。
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