48. 生存者
それは暗く、湿っぽく、息苦しいほど狭い空間だった。
天井のどこかから染み出した水滴が、時折ぽたりと頭へ落ちてくる。
空気には吐き気を催すような汗臭さが充満していた。
大勢の囚人たちが蒸し暑い牢獄へ押し込められているせいだ。
ジュリアナ・ヴォーンは膝を抱え、牢の入口近くに身を縮めていた。できるだけ他の囚人へ触れないように。
彼らが何をしてここへ入れられたのかは知らない。だが、一つだけ確信していた。
――ここから早く出なければまずい。
数人の男囚が、すでに彼女を値踏みするように見ていた。
ひそひそと何かを話し合い。時折いやらしい笑い声を漏らす。
ジュリアナはマントのフードをさらに深く被った。せめて金髪と顔だけでも隠したかった。
彼女は鉄格子の向こうを覗いた。だが看守の姿はどこにもない。
今日はナディラ皇三世の百九十七歳の誕生祝典の日だった。ナディラで最も重要な祭典の一つ。
軍も警備兵も、ほとんどが街へ出払っている。牢獄の囚人など気にしている余裕はないのだろう。
一時間ほど前。ジュリアナは街中で二人のナディラ兵に捕まった。
扱いは乱暴そのものだった。相手が女性であることなどお構いなしだ。腕を強引に掴まれ、そのまま大通りを引きずられる。
兵士たちは大声で怒鳴り続けていた。牢へ連れて来られた後も同じだった。入口に一番近い牢を適当に開ける。 そして、彼女を中へ容赦なく突き飛ばした。
ジュリアナは激しくよろめいて。
「きゃっ!」
と悲鳴を上げ、そのまま床にいた別の男囚の上へと重重と倒れ込んだ。
男は振り向くなり罵声を浴びせてきた。酒臭い息まで飛んでくる。
だが兵士たちは見て見ぬふりだ。さっさと扉を閉め、鍵を掛ける。そのまま振り返りもせず去っていった。
「ねえ! 待って! 待ってよ!! こんな所に置いていかないで!」
ジュリアナは叫んだ。
だが兵士たちの姿は、すでに牢獄の入口から消えていた。
彼女は絶望しながら床へ座り込んだ。そして思い出す。誕生祝典で出会った、あのお節介な少年を。
――あいつが追いかけて来なければ。
――捕まらなかったかもしれないのに。
思い出しただけで腹が立った。
だが怒りの一方で、どうしてこんな悲惨な状況に陥ってしまったのかを考えてしまう。全ての始まりは、あの一通の緊急電報だった。
その日。ジュリアナはいつものようにナディラ国境を越えた。向かう先はザヒールの機密研究開発センター。
彼女が所属する研究班は五人。
ナディラ出身の一般人である医師、イアン・フォークナー博士。
そしてザヒール出身の三人のプルプラ族。
デイモン・ウォーカー教授。ソロモン・ヴレス。レイラ・ヴレス。
彼らの研究テーマは一つだった。
魔獣が見えない人々でも、自分の身を守れる方法を作ること。
十九年前。彼らは第一世代の幻葉水を完成させている。
身体へ塗布すると、魔獣が嫌う臭いを発する薬だ。
それ以来。彼らはより効果的で、より安価な幻葉水の開発を続けていた。
研究室へ入ると。すでにデイモン・ウォーカー教授とイアン・フォークナー博士が来ていた。
「おはよう、ジュリアナ~」
デイモンは二本の試験管を持ったまま手を振る
「そこの薬品取ってくれるか?」
「ああ、これね」
ジュリアナは瓶を手渡した。
そして白衣へ着替えながら周囲を見回す。
「レイラとソロモンはまだ来てないの? 珍しいわね。ナディラから来る私の方が先に着くなんて」
「今日は来ないぞ」
顕微鏡を覗き込みながらイアンが答えた
「中央軍司令部へ行くらしい。息子に会いに行くとか言ってたな」
「エリオ・ヴレス?」
ジュリアナは思わず笑った
「へえ~息子のために研究室を休むなんてね」
「私も同じこと言ったさ」
デイモンが吹き出した。
「君が来る前にイアンへ言ったんだ。
サヴィル家へ預けたきり放ったらかしだと思ってたのになってな。
まさか息子に会うために休暇を取るとはな」
「親子関係の修復でもするつもりなんじゃない?」
ジュリアナがからかう。
「さあな。二人とも相変わらず秘密主義だからな。詳しいことは何も言わなかったよ」
そして大笑いした。
その日の研究は特に変わったこともなかった。第四世代幻葉水の改良実験を続ける。
現在の第四世代は一度使用すると約五日間効果が持続する。だが製造コストは依然として高い。
彼らは高価な薬草の代用品として一般的な蔓植物を試していた。
しかし結果は芳しくなかった。
夕方が近づく。いつものように挨拶を交わし。それぞれ帰路についた。
ジュリアナは外で夕食を済ませた。その後、のんびり歩いて帰宅する。
途中で久しぶりに会った友人と話し込んでしまった。そのためナディラの自宅へ着いた頃には、いつもよりかなり遅くなっていた。
そして。彼女はすぐに気づいた。玄関の隙間へ電報が差し込まれている。
取り出して読む。差出人はイアンだった。
そこには短くこう書かれていた。
――逃げろ。奴らがお前を探している。
意味が分からなかった。
何から逃げる?
誰が探している?
「奴ら」とは誰だ?
ジュリアナは眉をひそめる。
だがイアンは冗談を言う人間ではない。
研究班の中でも最年長で経験豊富な人物だった。
仕事は慎重。几帳面。滅多に笑わない。だからこそ皆が信頼していた。
そんな彼が夜中に意味不明な緊急電報を送ってきたのなら。信じるべきだろう。
だが。一つだけ恐ろしいことがあった。
この電報が、いつ届いたのか分からないのだ。
ジュリアナは素早く周囲を見回した。そして家へ入り、すぐに鍵を掛ける。
室内は朝出た時のままだった。
窓も閉まっている。侵入された形跡もない。
それでも恐怖は消えない。
頭の中がざわつく。
灯りは点けなかった。床へしゃがみ込み、必死に考える。どうすればいいのか。
その時だった。椅子へ掛けてあったマントが目に入る。
彼女は飛びつくようにそれを羽織った。
机の引き出しを開けると、そこにはまとまった現金の束が入っていた。ジュリアナはそれを鷲掴みにすると、机の上の水やパンと一緒にすべて鞄の中へと放り込んだ。
他に何を持っていくべきか。そう考えた瞬間。
ガチャッ。
玄関から音がした。誰かが扉を開けようとしている。
ジュリアナは窓を見る。だが外に人影はない。
全身に悪寒が走った。分かった。あれは人間じゃない。魔獣だ。
見えない悪魔たちだ。
幸い、この家には裏口がある。ジュリアナは全力で駆け出した。
だが途中で思い出す。裏口は普段使わない。鍵が掛かっている。しかも鍵は壁の大量の鍵束の中だ。
彼女は慌てて鍵束を取った。
前方では。
ドンッ!
玄関へ何かがぶつかる音。音はどんどん激しくなる。
手が震える。それでも必死に鍵を探した。
ようやく見つける。鍵穴へ差し込む。カチッ。鍵が開いた。
その瞬間。
バキィッ!!
玄関が破られる音が響く。
ジュリアナは飛び出した。裏口を閉める。そして全力で走った。
辿り着いたのは近くの廃倉庫だった。昔、偶然見つけた場所だ。地下室もある。身を隠すには十分だった。
夜が明けたら助けを求めよう。そう考えた。
だが。怖かった。どうしようもなく怖かった。
彼女には魔獣が見えない。
もし奴らが物陰へ潜み、襲う機会を待っていたら。どうすればいい?
結局。ジュリアナは外へ出るのをやめた。
もう少し。もう少しだけ。そう自分に言い聞かせながら、地下室へ身を潜め続けた。
ジュリアナは地下室に身を潜めたまま、何日も過ごした。
持ち出した水もパンも、とうとう底をつく。もう隠れ続けることはできなかった。
意を決して地下室を出る。最初に思い浮かんだのはイアンだった。彼なら何か知っているかもしれない。
そう考えてイアンの家へ向かった。
だが。彼女が目にしたのは、すでに殺された後のイアンだった。
「そんな……」
ジュリアナの顔から血の気が引く。
何日もまともに食べていなかったこともあり、その場で倒れそうになった。
その時だった。背後から聞き覚えのある声が響く。
「ジュリアナ? 君、生きていたのか?」
カイソン・ストーンが驚いたように目を見開いた。
「ずっと捜していたんだ。もう魔獣に食われたものだと思っていたぞ」
「カイソン……」
そこまで言ったところで、ジュリアナの足から力が抜けた。そのまま意識を失う。
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