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46. 特訓計画

エリオは両手を前へ伸ばした。だが、目の前には何もない。

いや、何も見えない。


漆黒だった。


慎重に足を動かす。地面はごつごつしていて歩きにくい。しかも湿っている。


鼻の奥にはわずかに腐臭が漂っていた。

ぽつり。頬に冷たい水滴が落ちる。

反射的に見上げた。だが、やはり何も見えない。


特訓のために、サイモンとガジェンドラはエリオをザヒール南東部の山中にある洞窟へ連れてきていた。


三人は洞窟の入口から湿った泥道を進み、曲がりくねった通路をしばらく歩き続けた。

そして辿り着いたのは、巨大な空洞だった。


手にしたランプの光では全体像までは見渡せない。

見えたのは大きな岩がいくつも転がる地面。岩の隙間を流れる細い水流。それだけだった。


エリオは必死に地形を覚えようとした。だが、その途中でサイモンとガジェンドラがランプを消してしまった。

今。エリオは一人で闇の中に立っている。


周囲の暗闇が壁のように迫ってくる。押し潰されそうな圧迫感だった。

サイモンとガジェンドラがどこにいるのかも分からない。


エリオは腰の剣を握った。鞘に収まったままの剣だ。

二人が何をするつもりなのか。どんな訓練を始めるつもりなのか。


何も説明されていない以上、想像するしかなかった。


その時だった。背後で何かが動く音がした。


エリオは即座に振り向く。剣を構える。鞘に入ったままの剣で攻撃を防ごうとした。

だが。位置がずれていた。


ドンッ!


鈍い衝撃と共に、左肩を激しく打ち据えられる。


「っ!」


誰かがいる。すぐ近くで姿勢を変えている。移動している。気配だけが絶えず位置を変えていく。


サイモンおじさんか?それともガジェンドラか?

見えない。それが何より苦しかった。


足元の岩に注意しながら耳を澄ます。

足音。衣擦れ。剣を振る音。

わずかな変化を必死に拾う。そして音がした方向へ、できる限り素早く剣を向ける。


だが毎回遅い。ほんの一瞬。だが確実に遅い。

焦りが胸の中に広がっていった。


「エリオ! 集中しろ!」

サイモンおじさんの声が闇の中に響く

「敵の位置を目で探そうとするな!全身の感覚で感じろ!」


「ちゃんと聞いてるよ……!」

エリオは苦しそうに言い返した。


「まだ足りない」

サイモンは即座に返した。


「幻域で左眼が使えなくなった時、お前が魔獣に対応できなかった理由はそこだ。

お前は頭の中でずっと『見たい』と思っていた。魔獣を見ようとしていたんだ」


聞いてるじゃないか!エリオは思わず反論したくなった。


足音は聞こえている。剣の音も聞こえている。衣擦れの音だって聞こえている。敵が近づいていることも分かる。

ただ。位置を正確に把握できないだけだ。


「エリオ。お前は環境全体の音を聞かなきゃ駄目なんだ。さっきもそうだったが、お前の反応は全部遅い」

今度はガジェンドラが口を開いた。


「俺がほぼ目の前まで近づいてから、ようやく反応してる。だが本当は違う。

俺が遠くで足を動かした時点で気づかなきゃいけなかったんだ。

もし俺が本気でお前を殺そうとしていたら、とっくに終わってるぜ」


エリオは暗闇の中で悔しげに唇を噛んだ。


その気配を察したのか、サイモンは少し黙り込む。どう説明すれば伝わるか、その沈黙は思案しているようだった。


「エリオ。お前は環境をバラバラの情報として見ている。そうじゃない。環境は一つの『全体』なんだ」


やがて、ゆっくりと口を開く。

「お前が気づかなきゃいけないのは、その全体に何が起きたかだ。

今のお前に必要なのは、それを理解することだな」


だが。エリオにはまったく分からなかった。何を言われているのか理解できない。


「よし」

サイモンはため息をついた

「だったら説明の仕方を変えよう」


カチッ。ランプに火が灯る。

サイモンとガジェンドラはエリオの隣へ腰を下ろした。


「この洞窟全体が一つの球だと思ってみろ」


そう言いながらサイモンは両手を丸く合わせた。球の形を作る。


「これが元の状態だ。中には何も入っていない。分かるな?」


エリオは頷いた。


「じゃあ、この中に石を入れる」


ガジェンドラが足元の小石を拾い上げ、サイモンが両手で作ったその空間へと落とした。


「これで状態が変わった。敵が環境へ入ってくるというのは、こういうことなんだ」


「環境の中にあるものは全部影響し合う」

ガジェンドラが続けた。


「音も、空気も、匂いもな。まずは環境が本来どんな状態なのかを知る。そうすれば新しい物体が入ってきた瞬間、違和感に気づける」


「その通りだ。敵がお前のところまで来るには時間が必要だ。瞬間移動なんてできない。

魔獣だって同じだ。魔獣も人間と同じ物質だ。幽霊じゃない。亡霊でもない。だから察知できる。たとえ見えなくてもな」


「今のお前は、暗闇の中で俺の攻撃が突然現れたように感じてる。だが実際は違う。俺は突然現れたわけじゃない。

遠くで構え、歩き、位置を変え、武器を調整していた。その過程で音が生まれる。空気も動く」


「全部繋がった流れなんだ。突然出現した断片じゃない。環境全体の変化として捉えろ。そうすれば攻撃が来ても慌てなくなる」


エリオは首を傾げた。しばらく考える。


そして、おそるおそる口を開いた。

「つまり……敵を探そうとするんじゃなくて、周りに何が変化したかを見るってことか?」


サイモンは満足そうに頷いた。

「そうだ。音も空気も形のあるものだ。空間を満たしている。そして他の物質が動けば、それらも動く。

その変化を感じ取れるようにならなきゃいけない。そうすれば攻撃に反応する時間が生まれる」


サイモンは笑った。

「例えば今朝。ガジェンドラがお前を尾行していたのは気づいただろう。だが俺もずっと後ろについていたことには気づかなかったはずだ」


「えっ!?」

エリオは目を丸くした。


サイモンおじさんも?ずっと後ろにいた?

まったく気づかなかった。


「エリオ」

サイモンは立ち上がった。


「お前の右眼は魔獣が見えない。だからこそ感知能力を鍛えろ。

そうすれば魔獣が右側の死角から襲ってきても、反応する時間を作れる。

ガジェンドラ。もう一回やるぞ」


「了解」

ガジェンドラが立ち上がる

「まずは俺の攻撃を避けてみろ、エリオ」


そして。再びランプの火が消された。洞窟は、また完全な闇に包まれた。


エリオは深く息を吸った。

もう視覚に頼ろうとするのはやめよう。


そう思い、思い切って目を閉じる。

耳を澄ます。ただひたすら聞く。


聞こえてきたのは、サイモンとガジェンドラが離れていく足音だけではなかった。

洞窟の奥で流れる細い水の音。空間を流れる空気のかすかなざわめき。


耳を澄ませば澄ますほど、サイモンおじさんの言葉が少し分かる気がした。

――音も空気も形がある。


本当にそんな感じだった。

音も空気も固体になったみたいに、耳や肌へ触れてくる。


いつの間にかサイモンとガジェンドラの気配は環境へ溶け込んでいた。


エリオは頭の中で球を思い描く。自分がその中心に立っている姿を想像する。

そして球の中で起きる変化へ意識を向けた。


すると。球の片隅で何かが動いた気がした。どの方向だ?


そう考えた瞬間だった。ガジェンドラが目の前へ飛び込んでくる。


「っ!」


エリオは慌ててしゃがみ込んだ。だが遅い。


ドンッ!


拳が横顔をかすめた。体勢を崩し、その場へ転がる。


「チッ……」

思わず舌打ちが漏れた。


「焦るな、エリオ」

ガジェンドラの声が響く

「落ち着け」


手加減されているのは分かっていた。

だが、もし相手が魔獣だったら。

そう考えるだけで背筋が冷えた。


エリオはもう一度集中する。さっきの感覚を思い出そうとした。


ガジェンドラの気配は再び消えている。

エリオは眉をひそめた。必死に位置を探る。


――人も魔獣も瞬間移動なんてできない。サイモンの言葉が頭をよぎる。


そうだ。ガジェンドラは消えたわけじゃない。

どこかにいる。気配を隠しているだけだ。


探せ。

見つけろ。


周囲は静まり返っている。


その時だった。エリオの頭に一つの考えが浮かぶ。

隠れるなら、隠れられないようにすればいい。 エリオは鞘に収まったままの剣を、周囲へ向かって素早く振り抜いた。


その瞬間。聞こえた。今までとは違う音。


ほんのわずかな摩擦音。聞き逃しそうなほど小さい。だが確かにそこにあった。

――ガジェンドラだ!


エリオの攻撃を避けるため、ガジェンドラが動いたのだ。


空気が揺れる。気流が乱れる。

近い。剣一本分も離れていない。ガジェンドラはエリオのすぐそばで高速に位置を変えている。


その瞬間。エリオは高く跳んだ。空中で一回転する。そして少し離れた場所へ着地した。距離を取る。


まずは生き残る。今はまだ完全に視覚を捨てて戦えない。だが逃げることはできる。生き延びることはできる。それでいい。


「ヒュー!」

サイモンが口笛を吹いた

「なかなか賢いじゃねえか、エリオ!」


突然の称賛だった。エリオは思わず意識をそちらへ向けてしまう。


その一瞬。


ドゴッ!


足首に強烈な衝撃が走った。


「うわっ!」

エリオは尻もちをつく。


ガジェンドラの声が聞こえた。

「いい考えだったぜ。だが調子に乗るな。戦場じゃ一秒たりとも気を抜くな」


その通りだ。一秒も。本当に一秒も。


エリオは額の汗をぬぐいながら立ち上がった。


「もう一回だ! 続けよう!」

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● 毎週 【日・月・火・木・金】18:10 更新


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