3. 悪魔の鼻息
「魔獣だ!」
ソロモンが叫んだ。腰の剣を引き抜く
「こっちへ向かって来ている!」
「どうしてこんな数が……?」
レイラも剣を抜いた。
「おかしいわ。多すぎる!」
彼女は振り返る
「エリオ、先に逃げなさい、できるだけ遠くへ、どこかに隠れていて。ここを片付けたら迎えに行くわ」
「この箱を守れ!」
ソロモンが黄の匣を投げる
「逃げられるだけ逃げるんだ!」
エリオは慌てて黄の匣を受け取った。
ずっしりと重い。
少し離れた場所では、すでにヴレス夫妻が何かと激しく戦っていた。
だがエリオには見えない。
二人が空気に向かって剣を振っているようにしか見えなかった。前へ斬りつけ、振り返り、身を沈め、跳び上がる。
一体何匹の魔獣が襲っているんだ?
だが考えている暇はなかった。
これほど近くで魔獣と遭遇したのは初めてだった。
そして初めて理解した。
見えない敵というものが、どれほど恐ろしい存在なのかを。
エリオは慎重に後退する。
周囲を見回し、森の奥へ向かって走り出した。身を隠せる場所が多いからだ。
黄の匣を抱えたまま全力で駆ける。
やがて小高い土の丘へ辿り着いた。
その向こうは下り坂になっている。エリオは斜面を滑り降りた。そして小さな洞穴を見つける。
迷わず中へ飛び込んだ。
心臓が激しく脈打っている。黄の匣を抱く手は震え続けていた。
見えない敵への恐怖で頭皮が痺れる。エリオは必死に呼吸を整えた。
どれほど時間が経っただろう。
外の音へ耳を澄ませていると、遠かった戦闘音が徐々に近づいてくることに気づいた。
こちらへ向かって来ている。
エリオは慌てて洞穴を飛び出した。身を低くして再び走る。
背後の騒音はどんどん大きくなる。枝が折れる音も聞こえた。
息を切らしながら振り返る。だが見えるのは木々だけ。
何も見えない。
それがたまらなく恐ろしかった。
敵がどこにいるのか分からない。ただ逃げ続けるしかない。
だが、自分が正しい方向へ逃げているのかさえ分からない。
その時だった。
突然、右側から何かに激しく体当たりされた。
エリオは体勢を崩して地面へ倒れる。
その勢いで二、三回転がったあと、大木へ激突した。
エリオはすぐに起き上がった。黄の匣はまだ抱えている。
立ち上がって逃げようとした、その瞬間――
背中へ強烈な衝撃が走った。何かに蹴り飛ばされたのだ。再び地面へ叩きつけられる。
そして起き上がる前に、今度は黄の匣を激しく引っ張られた。
手元から熱い息が伝わってくる。まるで獣が鼻息を吐いているようだった。
魔獣だ。
エリオは必死に黄の匣を抱き締めた。
絶対に離すものか。
だが、いつまで耐えられるか分からない。
くそっ……! 魔獣が見えさえすれば――!
その時。黄の匣を引く力が突然消えた。獣の断末魔が響く。
ソロモンだ!
彼は空中へ剣を振るい、一匹、また一匹と魔獣を斬り伏せていた。
エリオは安堵の息を吐いた。助かった。黄の匣を抱えたまま起き上がる。
そして目の前へ飛び降りてきたレイラを見た。
そこから先は、まるで時間がゆっくり流れているようだった。
エリオはレイラの背中を見上げる。
木々の隙間から差し込む陽光。逆光を受けたレイラの輪郭は、金色に縁取られて見えた。
だが次の瞬間。
彼女の体が大きくよろめく。
見えない何かが、猛烈な勢いでレイラを攻撃していた。
鮮血が胸元から噴き出す。森に咲く名も知らぬ白い花が赤く染まった。
飛び散る血がエリオの視界を滲ませる。
何が……起きたんだ……?
頭が真っ白になった。
考えられない。
目の前で起きていることが理解できなかった。
レイラの黒髪が宙に舞う。力なく地面へ倒れていく。握っていた剣も手から離れた。
「母さん……」
夢の中で呟くような声だった。
エリオは反射的に前へ手を伸ばす。
レイラを受け止めようとした。だが足は動かない。腕を伸ばすことしかできなかった。
柔らかな髪が指先をかすめる。
その直後。
エリオの頭部へ強烈な衝撃が走った。視界が暗転する。
そして彼は、そのまま意識を失った。
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