23. ムムロの過去(下)
ヴィーナは呆然とその場に立ち尽くしていた。
しばらくして、彼女は深く息を吸う。そしてムムロが隠れている洞穴のそばへ素早く歩み寄った。
「出てきて」
中から反応はない。
ヴィーナは焦ったように周囲を見回した。近くに誰もいないことを確認し、もう一度、狭い洞穴の奥へ声をかける。
「出てきて。あなたが中にいるのは分かっているわ。傷つけたりしない。今なら誰もいないから、早く幻域へ戻って」
永遠のような沈黙が流れた。
やがて洞穴の奥から、小さく岩が擦れる音がする。
ムムロがおそるおそる顔を出した。
「大丈夫よ」
ヴィーナは優しく見つめる
「今のうちに、早く幻域へ帰って」
ムムロは洞穴から這い出した。
なぜこの人間が自分を助けるのか、分からなかった。だが、この人間は他の人間とは違う気がした。
彼女が「傷つけない」と言った時、ムムロはほとんどそれを信じていた。
ムムロは試すように数歩動いた。そしてまたヴィーナを見る。本当にこのまま逃げていいのか分からなかった。
ヴィーナは背後の幻域を指差し、緊張した声で言った。
「早く行って!」
ムムロは走り出した。走りながら振り返る。
ヴィーナはまだその場に立ち、呆然と彼を見つめていた。
その時、ムムロは何かを思い出したように足を止めた。胸元へ目を落とす。そして再びヴィーナの方へ走っていった。
「何をしているの?」
ヴィーナは驚いた
「早く逃げて!」
ムムロは彼女の前まで戻った。首から一つの首飾りを外す。
それは少し前、母と一緒に幻域で採った鉱石で作ったものだった。
ムムロはその首飾りをヴィーナへ差し出した。
だがヴィーナは手を伸ばさない。ただ困惑したように見つめていた。
次の瞬間、ムムロは何かに突き動かされるように、ヴィーナの手を取った。そして、その首飾りを彼女の手のひらに置いた。
ヴィーナは手の中の首飾りを見下ろした。それからムムロを見る。紫の瞳に、ゆっくりと涙が滲んでいった。
ムムロは何か言おうとした。だが、もうここに留まってはいけないと分かっていた。
彼は背を向け、幻域の方へ走り出した。
ヴィーナはムムロの姿が近くの草むらへ消えるのを見届けた。ようやく息を吐く。
これからどうすればいいのか。
それを考えながら歩き出した。
大木の横を通り過ぎようとした、その時だった。異変を感じる。顔を上げた瞬間、全身の血が凍りついた。
今回の国境殲滅作戦の総指揮官、ルーカス・アージ副将が木の陰に立っていた。
鋭い紫の瞳が、逃れられぬ獲物を射抜くかのように、じっとヴィーナを見すえていた。
その傍らには、軍服を着た若い男が一人。
魔獣を見ることのできない一般兵だ。
ヴィーナは彼を知らなかった。おそらく遠距離戦闘の支援に駆り出された兵士だろう。
「アージ副将……」
ヴィーナは力なく呟いた
「ヴィーナ・キャスター」
アージ副将の声は氷のように冷たかった
「君は魔獣の逃亡を幇助した。軍命違反、および国家反逆の重罪にあたる」
「私は……違います……」
ヴィーナは嘘をつこうとした。
アージ副将が、彼女が魔獣を逃がすところを見ていたのか分からなかった。もし見ていなかったのなら、まだわずかな希望があるかもしれない。
彼女はアージ副将の隣にいる兵士を見た。
若い兵士は眉をひそめている。何が起きているのかよく分かっていないようだった。
無理もない。一般兵には魔獣が見えない。
彼らが作戦を支援する時は、前線の狩魔師の指示に従い、遠方から砲撃や銃撃で援護するだけだ。
もし、さっきその場にいたのがこの一般兵だけだったなら――。
「君については、複数名から密告を受けている」
アージ副将ははっきりと、ゆっくり告げた。
「戦闘中、継続的に魔獣を助けていたとな。そして先ほど、私自身もこの目で見た。あの魔獣は君の目の前にいた。だが君は最後まで剣を抜かなかった」
その言葉は、ヴィーナの恐怖をさらに強くした。
「私はこれまで、君を大切に育ててきた。だが今回の戦いにおける君とフィンの行動には、心底失望した。
ザヒールの民のために、私は正しい決断を下さねばならない」
アージ副将はその爛々と輝く紫の瞳を動かし、隣の若い一般兵に鋭く目配せをした。
「やれ」
遠くの草むらの中で、ムムロは息を殺して地面に伏せていた。
枝葉の隙間から、ヴィーナと二人の人間が木の下で何かを話しているのが見える。
一人は年上の男。その男からは恐ろしい気配が漂っていた。この距離からでも背筋が冷たくなる。
もう一人の兵士はずっと若く見えた。だがなぜか、ムムロの直感は告げていた。あの男もただ者ではない。
そしてムムロは見た。
若い兵士が腰の銃を抜き、ヴィーナへ向ける。
乾いた銃声が響いた。
次の瞬間、ヴィーナの身体は力を失い、地面へ崩れ落ちた。
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