21. 崖の上の膠着
ソーンは即座に剣を抜く。そのまま周囲へ鋭い視線を走らせ、ムムロを仕留められる位置を探った。
「騒ぎは起こさない方がいい」
ムムロは落ち着き払った声で言った。
低く静かな声。表情は相変わらず微動だにしない。
そして崖の上から軽々と飛び降りると、エリオたちの前に着地し、冷たい視線を向けた。
「私が一つ合図を出せば、要塞中の魔獣の群れが押し寄せてくる。この場所でお前たちに有利な点は何もない。人間は魔獣のように崖を素早く登れないからな」
ムムロはソーンが握る剣を横目で見た。その身体からは、圧倒的な威圧感が漂っている。
エリオは思った。たとえ他の魔獣が加勢に来なくても、自分たち五人だけでムムロを倒すのは簡単ではないだろう。
グレンはそっと手を伸ばし、ソーンの剣を押さえた。鞘に戻せ、という合図だ。
ソーンは不満そうな顔をしながらも、剣を鞘へ収めた。
グレンはムムロを見据える。
「確か、お前はムムロだったな? 俺たちがここに現れたのを見ても、あまり驚いていないようだが……なぜだ?」
ムムロは答えない。表情も変わらない。
グレンは一度深呼吸し、続けた。
「さっきから一連の流れを考えていたんだ。一つ大胆な仮説がある。お前は俺たちに、この外へ通じる隠し通路をわざと見つけさせたんじゃないか?」
他の四人は戸惑ったようにグレンを見る。
「俺たちが隠し通路を見つけられたのは、コーディアが、お前が目の前で同じ方法で隠し通路を開けるのを見たと言ったからだ。
おかしくないか? お前はかなり頭の切れるタイプに見える。そんな奴が、人間の前で要塞の隠し通路を無警戒に開くか?」
グレンは落ち着いたトーンで語った。
「まるでコーディアに見せるために演じていたみたいじゃないか。
それに、その後お前自身が、同じ仕掛けのある部屋へ俺たちを閉じ込めた。
そして俺たちが通路を見つけて逃げ出した頃には、お前はここで待っていた。
つまり残る疑問は一つだ。お前は俺たちから何を得たい?」
ムムロは冷たい目でグレンを見た。やがて視線をコーディアへ向ける。
「幻域から出て行け」
そう言った
「後ろの崖を見れば、比較的登りやすい場所がある。そこから地上へ戻り、そのまま南へ進め。ザヒール国へ帰れる」
エリオたちは黙り込んだ。
こんなにもあっさり逃がされるとは思っていなかった。見返りも要求しない。ただ出て行けと言うだけだ。
彼は自分たちを殺したいわけではなかったのか?
「俺たちを逃がす代わりに、何を望んでいる?」
グレンが尋ねた。
「聞こえなかったのか?」
ムムロはコーディアから目を離さない
「私は幻域から出て行けと言った」
「てめぇ、何を企んでやがる?」
ソーンが我慢できずに叫んだ
「欲しいものがあるならはっきり言えよ。わざとらしく勿体つけるな」
ムムロはソーンを完全に無視した。
一歩前へ出る。そしてコーディアの首へ手を伸ばした。
「何をする気だ!」
エリオは慌てて割って入ろうとした。しかしムムロは片手であっさり彼を押し止める。
首を絞めるわけではなかった。
ムムロが手に取ったのは、コーディアの胸元に下がる首飾りだった。
親指ほどの大きさの三角形のペンダント。何かの鉱石を磨いて作られたような造りで、透明な結晶の中に細かな金色の粒が閉じ込められている。
陽光を受けて美しく輝いていた。
「これはどこで手に入れた?」
ムムロの声は急に柔らかくなっていた。
コーディアは固まった。数秒後、ようやく答える。
「……母が生前身につけていたものです。母が魔獣に殺された後、遺体を発見した兵士たちが見つけて……私に渡してくれました」
「お前の母親は……ヴィーナという狩魔師だったか?」
コーディアの顔から血の気が引いた。頭が真っ白になる。
「どうして……それを……」
「要塞でお前を見た時から、その首飾りには気付いていた」
ムムロはペンダントから目を離し、コーディアを見つめる。
「その首飾りは、幻域特有の鉱石を使って私が作ったものだ。私はそれをヴィーナに護符として渡した。彼女はかつて、私の命を救ったからな」
エリオたちは目を見開いた。
コーディアの母親が魔獣を助けた?
狩魔師だったはずなのに?なぜ人喰いの魔獣を救ったのだろう。
コーディア自身も言葉を失っていた。まるで記憶の渦へ引き込まれたように、その場に立ち尽くす。
「お前の母親が魔獣を助けたっていうのか?」
ソーンが信じられないという顔で言った。
「わ、私は知らない……」
コーディアは苦しそうに目を閉じる
「父も母も、魔獣との戦場で命を落としたとしか聞いていないの」
エリオはコーディアを見つめた。そして脳裏に、あの日の光景が蘇る。
母が目の前で倒れた瞬間。飛び散った血。赤く染まった野花。
人間が魔獣を助ける理由など、彼には一つも思いつかなかった。
それなのに、なぜコーディアの母親はそんなことをしたのだろう。
ムムロは何も言わなかった。ただ首飾りを見つめ、何かを考えている。
そして再び、あの恐ろしい威圧感を纏った。
首飾りから手を離し、一歩後ろへ下がる。
「とにかく、私の言葉をよく聞け。幻域から出て行け」
「本当に俺たちを逃がすつもりなのか?」
グレンはまだ状況を整理できていなかった。
「勘違いするな。今回お前たちを見逃すのは、この娘の母親に命を救われたからだ。
だが、それは人間を認めたという意味ではない」
ムムロは冷たく言う。
「私は第一要塞の理念を支持している。人間を憎み、人間を嫌悪している。
この首飾りとヴィーナへの恩義がなければ、私がこの手で、お前たちを今すぐにでも絞首台へ送らせていたところだ」
「ムムロ」
グレンが静かに口を開いた
「人間と魔獣は敵対している。だが、俺たちは戦争をしに来たわけじゃない。
命令を受けて、盗まれた物を取り返しに来ただけだ」
「何の話だ?」
ムムロが尋ねる。
「黄色い箱だ。中には研究成果が入っている。
黄の匣を取り戻せば、俺たちは幻域を去る。そして俺たちは、モルゴロスという魔獣を探している」
「モルゴロスか」
ムムロは鼻で笑った
「奴なら第二要塞にいる」
「そうか」
エリオが言う。警戒は解いていない
「それなら第一要塞を騒がせて悪かったな」
「忠告しておく」
ムムロは背を向けながら言った。
「今すぐ幻域を出ろ。これが私の最後の情けだ。
その首飾りは護符だと言ったが、それを知っている魔獣ばかりではない。
私の部下以外の魔獣に見つかれば、意味など通じないだろう」
そう言い残すと、ムムロは崖の縁へ向かった。そして躊躇なく飛び降りる。
エリオたちは慌てて崖際へ駆け寄った。
だが見えたのは、ムムロが鋭い爪を岩壁に力強く突き立てて張り付き、あっという間に崖を駆け下りていく姿だけだった。
ほんの数秒後には、その姿は完全に見えなくなっていた。
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