第2章:魔界の目覚めと、銀の洗礼
深い眠りだった。
重い泥の底に沈んでいくような感覚が
いつしか真綿に包まれるような
心地よさに変わっていた。
耳元で、誰かが祈るような
あるいは呪文を唱えるような低い声が聞こえる。
「……目を開けろ、更紗」
その声に導かれるように
更紗はゆっくりと瞼を持ち上げた。
まず目に飛び込んできたのは
見たこともないほど高い
黒大理石の天井だった。
そこには無数の魔法陣が淡く発光し
シャンデリアの代わりに浮かぶ蒼い炎が
幻想的な光を投げかけている。
「……ここは……?」
自分の声に驚いた。
掠れて使い古された雑巾のようだった喉が
今は鈴を転がすような
透明感のある響きを帯びている。
「魔王城の、俺の寝室だ」
傍らに立っていたのは
デストロイドだった。
彼は銀髪をかき上げ
わずかに安堵したように息をつく。
更紗は上体を起こそうとして
自分の体にさらなる異変を感じた。
「体が……軽い……」
鉛のように重かった肩
鈍く痛んでいた腰、疼くような頭痛。
それらすべてが
嘘のように消え去っていた。
視線を落とすと
そこには透き通るような白い肌。
指先の一本一本までが
まるで芸術品のように整っている。
「更紗様、お目覚めですね」
扉が開き、リアンとシャーネスが入ってきた。
リアンの手には
銀色の刺繍が施された
豪奢なドレスが捧げられている。
「貴女は今、デストロイド様から
直接魔力を分け与えられ
魔族へと転生しましたの。
その肌、その瞳……ふふ、なんて愛らしいのかしら」
更紗はふらつく足取りでベッドから降り
壁にある大きな鏡の前に立った。
そこに映っていたのは
月野更紗であって
月野更紗ではない「何か」だった。
髪は艶やかな漆黒を保ちつつも
どこか人外の輝きを放ち
瞳は深い夜の青色に変わっている。
何より、背中には小さな
けれど確かな漆黒の翼が畳まれていた。
「私、本当に……人間じゃなくなったんだ」
悲しみはなかった。
あるのは、自分を苦しめていた
「生存の限界」から解き放たれたという
圧倒的な解放感だけだ。
「……ねぇ、デストロイド」
更紗は鏡越しに
後ろで自分を見守る魔王を呼んだ。
「魔族になったからには
私も何か働かなきゃいけないんでしょ?
偵察だっけ?
……ブラックじゃなきゃいいんだけど」
その言葉に、デストロイドよりも先に反応したのは
部屋の隅で腕を組んでいた巨漢・アンデスだった。
「ガハハ! ブラックだと?
この魔界で誰が貴様を働かせるってんだ!
デストロイド様が、お前をどれだけ――」
「アンデス、黙れ」
デストロイドが冷たく制止する。
アンデスは「ちっ、相変わらず堅苦しい野郎だぜ」と
頭を掻きながら
更紗に不敵な笑みを向けた。
「いいか、小娘。
ここでは『魔王の加護』がある。
人間どもの国を少し覗いてくる程度の仕事なんて
散歩みたいなもんだ。
飯は美味いし、時間はたっぷりある。
存分に羽を伸ばすがいい」
アンデスの言葉は、どこか懐かしく
そしてひどく温かかった。
更紗は、彼が誰の生まれ変わりかも知らずに
その荒っぽい優しさに胸の奥が
じんわりと熱くなるのを感じた。
「……とりあえず、まずはゆっくり休むことだ」
デストロイドが、更紗の肩にそっと手を置いた。
その手は驚くほど熱く
微かに震えているように見えた。
「更紗。お前を、二度とあんな目には合わせない。
……これは、俺の誓いだ」
その誓いの重さを
更紗はまだ知らない。
彼がどれほどの年月、自分を想い続け
この瞬間のために
魔王の座にまで登りつめたのかも。
更紗は、魔界の窓から見える
紫色の月が浮かぶ夜空を見上げた。
元の世界では
今頃また深夜の電話が
鳴り響いているのだろうか。
そんな思考さえ
今は遠い異国の昔話のように思えた。
お読み頂きありがとうございます
次回も楽しみに♡




