第1章:境界線の夜
新シリーズ開始です
深夜零時十五分。
重い玄関のドアを閉めた月野更紗は
靴を脱ぎ捨てることすら億劫だった。
二十四歳。
新卒で入った会社は
世間で言うところの「真っ黒な」企業だった。
連日の徹夜、罵声、終わりの見えないタスク。
「……あ」
視界がぐにゃりと歪む。
着替える気力も
メイクを落とす気力もない。
更紗は吸い寄せられるようにベッドへ倒れ込んだ。
ネクタイ代わりのリボンが
喉を締め付けている気がしたが
指一本動かすのが億劫で
そのままぼんやりと天井を見上げた。
(あぁ、もう、いいかな……)
限界だった。
心臓の音が耳元でうるさく脈打ち
呼吸が浅い。
このまま眠れば
二度と目が覚めないかもしれない。
そんな予感があったが
恐怖よりも安堵が勝った。
その時だった。
何もなにもないはずの
シミの浮いたアパートの天井が
パキリと音を立てて裂けた。
裂け目から溢れ出したのは
夜よりも深い漆黒。
そこから、一人の青年が降り立つのを
更紗は他人事のように眺めていた。
銀色の髪が、月明かりのない部屋で淡く光っている。
背中には、禍々しくも美しい漆黒の翼。
青年はベッドに横たわる更紗を見下ろし
低く、地響きのような声を出した。
「……なぜ、驚かない」
死神だろうか。
更紗は枯れ果てた喉を震わせ
掠れた声で答えた。
「……疲れすぎて……驚く、気力も、ないから……」
青年は一瞬、言葉を失ったように目を見開いた。
その瞳には、言いようのない複雑な色が混じっている。
「……デストロイドだ」
聞いてもいないのに
彼は名を名乗った。
そして、更紗が口を開く前に続けた。
「お前は、更紗。……このままだと
お前はもうすぐ死ぬぞ」
「そう、かもね……」
更紗は視線を天井に戻した。
死の宣告。
けれど、それは今の彼女にとって
ようやく届いた救いの手紙のようにしか聞こえなかった。
デストロイドは小さくため息をつき
パチンと指を鳴らした。
その音を合図に
狭いワンルームにさらに二人の影が現れる。
腰まで届く金髪に
白い翼を羽ばたかせる絶世の美女。
そして、黒髪を後ろで束ね
執事のような漆黒のスーツを纏った端正な男性。
「……また、増えた」
更紗の呟きに、金髪の女性
――上位悪魔のリアンが、悲しげに微笑んだ。
「酷い有様ですわね。
まるで魂が磨り潰されているようだわ」
「左様ですね。更紗殿、我らの主が
貴女に選択肢を与えに来たのです」
執事風の男、シャーネスが静かに一礼する。
その時、更紗の枕元で
スマートフォンのバイブ音が響いた。
この時間に電話をかけてくる相手など
一人しかいない。会社だ。
更紗は反射的に、指を動かして通話ボタンを押した。
体に染み付いた、呪いのような習性。
『もしもし! 月野さん!?
すみません、システムがエラー吐いてて!
処理が追いつかなくて、どうすればいいか――』
受話器越しに聞こえる
パニックに陥った同僚の声。
更紗は虚ろな瞳のまま
淡々と、しかし的確な指示を口にした。
「……サーバーのログを見て。
……プランBのスクリプトを走らせれば、止まるから」
『あ、止まった! 助かりました!』
「……あんた、まだ会社にいるの?
明日から出張でしょ……早く、帰りなさいよ……」
そう言って電話を切ると
更紗は深く、深く吐き出した。
「あー……めんどくさぁ……」
辞めたいと言っても、受理されない。
代わりはいないと引き止められ
責任だけを押し付けられる毎日。
更紗は初めて、部屋にいる「異形」の者たちに
自分から問いかけた。
「……ねぇ。あんたたちの世界は
のんびり暮らせんの?」
「更紗殿の今の状態よりは
のんびり出来るでしょうね。
住む地域にもよりますが」
シャーネスの答えに、リアンが身を乗り出した。
「いっそ魔族になってしまえばいいわ。
人間の国の偵察や観察程度のお仕事なら
今の貴女の苦労に比べれば
お遊びのようなものですもの」
デストロイドが、ベッドの側に跪き
更紗の顔を覗き込んだ。
「選ばせてやる。ここで死を待つか。
俺たちの世界へ来るか。
……魔族になるか、人間として暮らすかだ」
「……このままここにいたら、いつ死ぬ?」
「一ヶ月は持たないでしょう」
シャーネスの冷徹な、けれど事実に基づいた宣告。
更紗は、ふっと笑った。
「……両親はもういない。
大好きだった彼氏も……ずっと前に、死んじゃった。
この世に未練なんて、一つもないから。
死んでもいいんだけどさ」
その瞬間、デストロイドの顔が歪んだ。
それは、魔王と呼ばれる者が見せてはいけない
張り裂けんばかりの、苦痛の表情だった。
だが、更紗は気づかない。
さらに空間が揺れ、山のように巨大な男
アンデスが現れた。
「デストロイド様らしくねえな!
何を迷ってやがる。
今度こそ幸せにするって誓って
魔王にまでなったんだろうが!」
アンデスの怒号が部屋を揺らす。
更紗はその大男を見上げ、ふと
幼い頃に見た父の背中を思い出した。
「……また、パパとママと
……武流に、会いたいな。
……死んだら、会えるかな……」
更紗の独り言に
その場の空気が凍りついた。
デストロイドが、アンデスが
言葉を飲み込んで拳を握りしめる。
上位悪魔の二人は
主たちの胸の内を読み
悪魔らしからぬ
切ない眼差しを更紗に向けた。
「わかったわ。……どちみち死ぬなら
魔族にだってなってやるわよ」
更紗は、初めて笑った。
それは、死を決めた者のような
けれど新しい世界へ手を伸ばす子供のような
純粋な笑顔。
「転生して、スライムとかになっても困るしね。
……さあ、連れて行って」
更紗がゆっくりと
白く細い手を伸ばす。
デストロイドはその手を、壊れ物を扱うように
けれど二度と離さないという意志を込めて
力強く握りしめた。
部屋の壁が、床が、闇に溶けていく。
重力から解放され、体がふわりと浮き上がった。
薄れゆく意識の端で
更紗は今まで自分を縛り付けていた
狭く、暗く、冷たいこの部屋を振り返った。
明日には、また誰かが自分のいた場所を埋めるのだろう。
けれど、もう自分には関係のないことだ。
(……さよなら、世界)
心の中で、最後の一片の未練を切り離す。
次の瞬間
月野更紗という存在は
この世界から完全に消失した。
お読み頂きありがとうございます
次回も楽しみに♡




