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第8話「おいしすぎて」

 朝、厨房から音がした。

 包丁の音ではない。

 鍋と、火と、何かが焼ける音だ。

 俺がカウンターの掃除を始めた頃には、もう匂いが漂ってきていた。

 バターに似た、でもバターより深みのある何かだ。

 (SOMA)

 ――ノアが昨夜のうちにアイテムボックスの素材を全部確認した。今朝五時から厨房に入っている。

 「五時から」

 ――料理人というのはそういうものらしい。

 俺はモップを置いて、厨房の入口に立った。

 ノアは背中を向けたまま、フライパンを振っていた。

 昨夜とは別人みたいだった。

 立ち方が違う。重心の置き方が違う。カウンターに座っていた時の頑固さが全部、集中力に変換されている。


 「何を作っていますか」

「朝飯だ。アイテムボックスの素材を使った」

振り返らずに言った。

「昨夜、全部確認した。問題があれば言う」

俺はそれ以上は聞かなかった。


 ルナが二階から降りてきたのは、それから十分後のことだった。

 寝間着のまま、まだ少し眠そうな目をしている。

 厨房の入口でノアの背中を見て、止まった。

 ノアが振り返らずに言った。

 「座ってろ。すぐできる」

 ルナはカウンターに座った。

 俺の隣に来て、小声で言った。

 「……ノアさん、昨日帰ったんじゃなかったの」

 「朝から来たみたいですよ」

 「朝って何時」

 「五時」

 ルナが目を丸くした。

 「五時」

 「そうです」

 ルナはもう一度厨房を見た。

 何かを考えている顔だったが、何も言わなかった。


 皿が三枚、カウンターに並んだ。

 ノアが厨房から出てきて、それぞれの前に置いた。

 深い緑色のソースがかかった卵料理だ。

 卵の横に、薄く切った何かが添えてある。赤みがかった色で、少し光っている。

 「食べろ」

 ノアはカウンターの端に立って、腕を組んだ。

 俺は一口、食べた。

 止まった。

 卵が、口の中でほどけた。固くない。でも形が崩れているわけじゃない。その境界のどこかにある食感だ。ソースの緑は薬草だ。でも薬草の苦みがない。甘みだけが残っている。横の赤い素材が、最後に全部を引き締めた。

 「……これは」

 「アイテムボックスの中に見たことのない素材がいくつかあった。昨夜確認した。赤いのはその一つだ。名前を教えてくれ」

 「『緋暮果』です。少し辛みがあって――」

 「知ってる。火を入れると辛みが消えて酸味だけが残る。そこを使った」

 俺は一口飲んで、また食べた。

 銀座の頃、料理人の知り合いが何人かいた。本物の料理人というのは、素材を「知識」ではなく「手」で理解する。ノアはその種類の人間だ。

 昨夜初めて見た素材を、一晩で自分のものにした。


 ルナが一口、食べた。

 止まった。

 もう一口、食べた。

 また止まった。

 ノアが眉を少し動かした。

 「口に合わないか」

 ルナは答えなかった。

 また一口、食べた。

 それから、俯いた。

 「……ルナ?」

 俺が声をかけた。

 ルナは答えなかった。

 肩が、少し震えていた。

 ノアの顔が、初めて困惑に変わった。

 「なんで泣くんだ」

 ルナが顔を上げた。

 目が赤くなっている。

 「……おいしすぎて」

 ノアが止まった。

 「スラムにいた時、こんな飯食べたことなかった。おにーさんの飯も美味しいけど、これは違う。なんか……なんか、あたし、こんな飯食べていいんだって思ったら」

 そこで言葉が途切れた。

 ルナは袖で目を拭って、また食べ始めた。

 「……おいしい」

 短く、言った。

 ノアは何も言わなかった。

 腕を組んで、窓の外を向いた。

 耳が、少し赤くなっていた。


 朝食が終わった後、ノアは無言で皿を洗い始めた。

 ルナが隣に立った。

 「手伝う」

 「いい」

 「なんで」

 「厨房の洗い方がある。教えてないのにやられると困る」

 「じゃあ教えてくれたら手伝う」

 ノアが少し止まった。

 それからルナを見た。

 「……いいだろう」

 ルナは頷いた。

 二人で皿を洗い始めた。

 ノアが無言で手本を見せて、ルナが真似した。

 三枚目で、ルナは完全に同じ手つきになっていた。

 ノアが一瞬、ルナを見た。

 何も言わなかった。

 でも、さっきより耳の赤みが増していた。


 昼間は、四人それぞれが動いた。

 ノアは厨房に引きこもって、夜のメニューを考えていた。

 時折、独り言が聞こえてきた。


 「この素材は熱に弱い。ならば……」

 「冷やしてから出す方が……いや」

 「この香りと、あの酸味を合わせると……」


 独り言の頻度が上がるたびに、何かが生まれているのだとわかった。

 ルナはフロアの掃除をしながら、ノアの独り言を黙って聞いていた。

 時々、小首を傾げている。

 (SOMA)

 ――ルナが覚えている。ノアの独り言の全てを。

 (全部か)

 ――言葉だけじゃなく、トーンと間隔まで。


 俺はグラスを磨きながら、それを黙って聞いた。

 ヴァルドは午前中に外を一周して、午後は入口近くで目を閉じていた。

 「昨夜から変化はあるか」と聞いたら、「ない」と一言返ってきた。

 それだけで十分だった。


 夕方、SOMAが告げた。

 ――零。隣国の商人が今夜来る。三件の調査の中で、最初に動いた人物だ。

 (どんな人間だ)

 ――名前はセルジオ・メナ。隣国ベルタニアの中堅商会の当主。四十代。実力主義の商人で、珍しいものに目がない。BAR ZEROのことをどこで聞いたか、自分で調べてここまで来た。往復で四日かかる距離だ。

 (目的は)

 ――純粋に「この店を確かめたい」だけだ。買収でも情報収集でもない。ただ、本物かどうかを見極めに来た。

 俺はグラスを棚に戻した。

 四日かけて来た商人。

 それだけで、この人間の本気度がわかった。

 (SOMA、ベルタニアの商業状況を整理してくれ)

 ――すでに終わっている。セルジオの商会の状況も含めて送る。

 情報が流れ込んできた。

 俺は黙って整理した。


 夜になった。

 ノアが厨房から出てきた。

 白い布でできた、簡素なエプロンをつけている。

 「今夜から、俺が作るものを客に出していいか」

 「もちろんです」

 「ただし」

 ノアは続けた。

 「俺が出すと決めたものを、黙って出す。説明はしない。客が聞いたら答えるが、押しつけない」

 「わかりました」

 「それと」

 俺を真っ直ぐに見た。

 「俺が作ったものに、お前のカクテルを合わせてくれ。素材の情報を毎回共有する。事前に」

 「できます」

 ノアは短く頷いた。

 「それでいい」

 厨房に戻っていった。

 ルナが俺の隣に来た。

 「ノアさんって、素直じゃないよね」

 「そうですね」

 「でも、ちゃんと一緒にやろうとしてる」

 「気づきましたか」

 「うん。さっきの話、全部そういう意味だったから」

 俺はルナを見た。

一緒にいて、まだ半日も経っていない。

それでもう、この子はノアの言葉の裏を読んでいる。


 午後九時を回った頃、扉が開いた。

 入ってきたのは、四十代の男性だった。

 浅黒い肌に、短く刈り込んだ白髪が混じった黒髪。目が細く、表情の変化が少ない。服はこの国の商人の格好をしているが、仕立て方が少し違う。細部に隣国の縫製の癖がある。

 男は店内を一度だけ、ゆっくりと見回した。

 カウンターを見て、棚を見て、グラスを見て、照明を見た。

 それから俺を見た。

 「BAR ZEROか」

 この国の言葉を話しているが、発音に独特の訛りがある。

 「はい。いらっしゃいませ」

 「遠くから来た。座っていいか」

 「どうぞ」


 男がカウンターに座った。

 セルジオ・メナだ。

 「何をお飲みになりますか」

 「何が飲めるか、教えてくれ。この国の飲み物に詳しくない」

 「アルコール、ノンアルコール、どちらも用意があります。お体で制限はありますか」

 「ない。何でも飲める」

 「では少し聞かせてください」

 俺はグラスを磨きながら、続けた。

 「今日の体の状態は」

 セルジオが少し止まった。

 「……四日間、馬で移動した。背中が少し張っている」

 「よく眠れていますか」

 「移動中は浅い。昨夜は宿でよく眠れた」

 「食事は」

 「昨夜と今朝は食べた。今は腹は減っていない」

 「わかりました」

 セルジオは俺を見ていた。

 「なぜそれを聞く」

 「飲み物を作る前に、あなたの今の状態を知りたいので」

 「医者のような聞き方だ」

 「バーテンダーです」

 セルジオは少し間を置いた。

 それから、口の端をわずかに上げた。

 「面白い店だ」


 アイテムボックスに手を入れた。

 四日間の移動で固まった体に必要なものを考えた。

 疲労を抜くのではなく、体を「解放」する一杯だ。

 セルジオは昨夜よく眠れたと言った。疲れの峠は越えている。今必要なのは、張り詰めていたものをほどくことだ。

 取り出したのは四つ。

 薄い黄緑色の「風葉果」――軽い酸味と、後に残る爽やかな余韻を持つ果物。体の外側からほぐすような香りがある。

 透明な蒸留酒。

 炭酸水。

 そして「白霧草」――このあたりでは乾燥させてお茶として飲む薬草で、筋肉の緊張をゆっくりと緩める効果がある。

 白霧草を少量の湯で先に煮出した。

 薄い白濁した液体ができる。

 それを冷ましてから、グラスに氷を入れ、蒸留酒を少量注ぐ。

 白霧草の液体を加えると、液体がわずかに霧がかったように曇った。

 風葉果を半分に切って、グラスの縁に添える。

 最後に炭酸水で満たした。

 炭酸が白い霧の中を泡立って上がっていく。

 グラスの中が、朝の山霧のような色になった。

 「名前はありませんが」

 俺はグラスをセルジオの前に置いた。

 「四日分の旅の疲れをほどく一杯です」


 二杯目を飲み終えた頃、厨房からノアが出てきた。

 白いエプロンのまま、カウンターの端に皿を一枚置いた。

 セルジオが皿を見た。

 深い赤みのかかったソースがかかった肉料理だ。

薄く切られた肉が重なって、その上から緋暮果のソースが艶やかに光っている。

湯気が細く立ち上っていた。

 「今夜の一皿だ」

 ノアがそれだけ言って、厨房に戻ろうとした。

 セルジオが言った。

 「待ってくれ」

 ノアが止まった。

 「これは、俺に出してくれているのか」

 「客に出している。お前が客なら、お前に出している」

 セルジオはノアを見た。

 それから皿を見た。

 「食べていいか」

 「出したんだから食べろ」

 ノアは厨房に戻った。


 セルジオがフォークを手に取った。

 一口、食べた。

 止まった。

 もう一口、食べた。

 また止まった。

 男は皿を見て、それから俺を見た。

 「……このソース」

 「緋暮果です。火を入れると辛みが消えて酸味だけ残ります」

 「肉の脂と合わさって、後味がない。食べ続けられる」

 「そうです」

 セルジオはまた一口食べて、グラスを手に取った。

 「このカクテルと合わせるつもりで作ったのか」

 「料理人と事前に素材を共有しています。互いに合わせて設計しています」

 男は料理を一口食べて、カクテルを一口飲んだ。

 目が、静かに細くなった。

 「……続きを作る」

 「何がですか」

 「料理を食べた口に、カクテルが続きを作る。別の味じゃない。同じ話の、次の段落だ」

 俺は手を止めた。

 セルジオは交互に食べて飲んで、皿を空にした。

 グラスも空にした。

 それから、長い息を吐いた。

 「……ベルタニアに持ち帰りたい」

 「この料理人とバーテンダーをか、ということですか」

 「そうだ」

 「お断りします」

 「やはりそうか」

 セルジオは苦笑した。

 「冗談だ。ただ、本気でそう思った」


 帰り際、セルジオはカウンターに金を置いた。

 二杯のカクテルと一皿の料理の代金だ。

 「チップは受け取らないと聞いた」

 「そうです」

 「ならこれだけだ。……安すぎる」

 「適正価格です」

 「この料理とカクテルのペアリングに、適正価格があるとは思えない」

 「今はこれでいいです」

 セルジオは首を振りながら、帽子を被り直した。

 「また来る。次も同じペアリングを頼む」

 「毎回変わります。同じ一皿は二度出ません」

 セルジオが止まった。

 「……なぜだ」

 「料理人のポリシーです」

 男はしばらく考えてから、また笑った。

 「ならば来るたびに新しいものがある、ということか」

 「そういうことです」

 「それは、来るしかないな」

 セルジオは扉を開けて、夜の裏路地へ消えた。


 扉が閉まった後、厨房からノアが出てきた。

 「食べたか」

 「全部食べました。カクテルも全部飲みました」

 「何か言ったか」

 「『続きを作る』と言っていました。料理を食べた口にカクテルが続きを作る、と」

 ノアは少し間を置いた。

 「……悪くない表現だ」

 厨房に戻っていった。

 ルナが俺の隣に来た。

 「ノアさん、うれしそうだった」

 「そうでしたか」

 「うん。口は全然そう言わないけど」




 深夜、ヴァルドが巡回から戻ってきた。

 「外は静かだ。変わりない」

 「ありがとうございます」

 ヴァルドはカウンターの端に座った。

 「一つ聞いていいか」

 「どうぞ」

 「ノアが加わって、店の空気が変わった気がする」

 「どう変わりましたか」

 「前は、お前とルナと俺の三人だった。どこか、仮の状態みたいだった。今日は違う。四人がそれぞれの場所にいた。それが普通のことみたいだった」

 俺はグラスを磨きながら、頷いた。

 「そうですね」

 「店になってきた、ということかもしれない」

 「店になってきた」

 俺は繰り返した。

 「いい言葉ですね」

 ヴァルドは短く息を吐いて、また目を閉じた。


 (SOMA)

 ――報告がある。

 (なんだ)

 ――アリシアの件。評議会の中間報告が今日出た。バルトロ第一席術師に対する処分が決定的になった。具体的には来月の本審問で正式決定となる見込みだ。

 (アリシアへの連絡は)

 ――本人にはすでに評議会から通知が届いている。

 俺は少し考えた。


 来月、決着がつく。

アリシアが雨の夜に扉を叩いてから、まだ十日しか経っていない。


 (SOMA、もう一つある気がするが)


 SOMAが一拍置いた。

 ――バルトロが動いた。

 (いつだ)

 ――今日の午後。評議会の中間報告が出ると知った直後だ。王都の有力者二名に接触した。内容は「BAR ZEROへの対処」についてだ。

 俺の手が、わずかに止まった。

 (具体的な動きは)

 ――まだ「接触した」だけだ。実際の行動は数日後になる。ただし零、この男は追い詰められるほど動きが速くなるタイプだ。

 「わかった」

 俺はグラスを棚に戻した。

 開店十一日目。

 ベルタニアから四日かけて来た商人。

 ノアの料理で泣いたルナ。

 「店になってきた」というヴァルドの言葉。

 その全部と同じ夜に、バルトロが動き始めた。

 (SOMA)

 ――わかってる。でも今夜は、その話は後でいい。

 「そうですね」

 俺はカウンターを磨いた。

 厨房から、ノアが片付けをしている音がした。

 水の音がして、道具を置く音がして、しばらくして静かになった。

 ルナが二階に上がる足音がした。

 ヴァルドが入口で目を閉じた。

 BAR ZEROの11日目の夜、静かに終わっていく。


≪第8話・了≫

次話――「あなたのことを、もっと知りたい」。正体を隠してカウンターに座った男は、そう言った。零はグラスを磨きながら答えた。「もう知っていますよ、バルトロさん」


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