第10話 新しい日常のはじまりー2
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「……あの、二人とも」
「はい、何でしょうか。マスター?」
「何かしら、悠里」
背後から、物理的な質量を伴った圧迫感が押し寄せてくる。端的に言って修羅場だった。この二人は救いようのないほどに犬猿の仲なのだ。
「……なぜ、この『暗殺女』がうちの敷居を跨いでいるんですか? 不法侵入ですよね。今すぐ通報してもよろしいですか?」
サップちゃんが、温度の消えた声で告げる。対する緋宮硝子は、挑発を受け流すように鼻で笑った。
「残念ね。この家の所有者からは、正式に許可を得ているわ。悠里、あなたの親戚からよ」
……おじさんから?
おいおい、住人の俺には一言の連絡も入っていないんだが。
「とにかく、順を追って説明してくれないか。緋宮……」
「……そうね。それがいいわ」
意外にも素直にこちらの提案を受け入れた彼女は、リビングの椅子に腰を下ろした。俺とサップちゃんも、彼女を挟むようにして対面に座る。
緋宮硝子は視線を伏せ、静かに語り始めた。
「父が失踪してから、私の家はずっと困窮していたの。……正直に言うわ。金に目が眩んだのよ。だから、あなたを殺そうとした」
「……自分のためだけじゃないんだろ?」
俺の問いに、彼女は間髪入れずに断言した。
「自分のためよ」
あまりにきっぱりとした口調。だが、それが逆に嘘の響きを帯びて聞こえた。
「嘘はつかないでほしい」
真っ直ぐに彼女の目を見つめると、硝子はわずかに視線を泳がせ、やがて絞り出すように本音を漏らした。
「……母のためよ。生まれつき身体が弱くて。私が苦労をかけているせいで、母はいつも自分を責めて、苦しそうだった。だから、まとまったお金を手に入れて、少しでも楽をさせてあげたかった……」
うつむき加減に語る彼女の横顔には、刺客としての冷酷さは微塵もなかった。やはりこの少女は、根底では優しい人間なのだ。
「そんな時だったわ。一年くらい前かしら。全身を黒いローブで包み、【預言者】と名乗る男が現れて、あなたの暗殺を依頼された。それから今日まで、私は【預言者】の指導の下で暗殺術を叩き込まれてきたのよ。すべては、あなたが現れる日のために」
「【預言者】……」
その言葉から察するに、相手は俺が異世界から帰還する時期を正確に把握していたことになる。それは文字通りの『預言』によるものか、あるいは。
「その男が俺の命を狙っている、か。ヘルヴィールドが協力している以上、魔王軍の介入も確実だろう。だが、なぜそこまでして俺を――」
「それは、貴方が勇者だからですよ。マスター」
それまで沈黙を守っていたサップちゃんが、冷徹な分析を口にした。
「勇者には、魔王と戦う【運命】が刻まれています。それはどちらかの命が尽きるまで決して消えない呪縛。マスターには魔王を討つ使命があり、魔王もまた、あなたを排除せねばならない宿命にあるのです」
「えぇ……なんだよ……それ……」
そんな物騒な設定、初耳だ。
あちらの世界を去る時、女神様はあんなに晴れやかな笑顔で見送ってくれたというのに。
そもそも、なぜサップちゃんがそんな仕様を知っているのか……。いや、彼女が『聖剣』であることを考えれば、納得せざるを得ないのかもしれない。
「【運命】、ね……」
俺はため息と共に吐き捨てた。
こんな面倒なことになるなら、最初から勇者になんてなるんじゃなかった。そもそも俺だって望んでなったわけじゃない。
突然異世界に放り込まれ、女神たちにあれよあれよと祭り上げられただけなのだから。
「つまり……魔王は俺を殺すべき宿命に従って、【預言者】と手を組んでいる。そういうことか?」
「確定ではありませんが、状況証拠は揃っています」
頭が痛くなる話だ。だが、俺はこの仮説に小さな違和感を抱いていた。
俺は女神の承認を得るより先に、魔王本人に赦しを請うて、この世界へ戻ってきたのだ。真に殺す必要がある相手なら、あの魔王がみすみす見逃すだろうか?
もしかすると、俺は本物の勇者などではなく、そんな【運命】も存在しないのではないか――そんな疑念が胸を掠める。
それならそれでいいのだが。
「……だが、もしそれが事実なら、俺のせいで緋宮の生活をめちゃくちゃにしてしまったわけだ。……悪かったな」
「謝らないで。選んだのは私。すべての責任は、私にあるわ」
「それでもだ。一年もの時間を奪ってしまったのは申し訳ない」
もしかすると、その時間以上のものも、奪ってしまっているのかもしれない。
「……別に、護身術を覚える良い機会だったと思っているし、気にしないで。それに、もし本当に申し訳ないと思っているなら、さっきの『願い』を叶えてちょうだい」
「……願い?」
思わず聞き返すと、緋宮硝子の表情がパッと華やいだ。そこには年相応の少女らしい、悪戯っぽい満面の笑みがあった。
「私をこの家に、住まわせてほしいの」
「「……なんで?」」
俺とサップちゃんの声が綺麗に重なった。
既視感のある光景だった。紆余曲折を経て、ようやく会話は本題へと舞い戻ってきたらしい。
「さっきの話の続きよ。私は結果として【預言者】を裏切った。だから、私や母の命も危ないかもしれない。……そう懸念していたら、昨日、あなたの前から去った後に一通の連絡があったのよ。送り主は、蜜柑川佐良木」
「佐良木さん……?」
この家の持ち主であり、俺の親戚の叔父さんだ。両親を早くに亡くし、身寄りのなくなった俺を引き取り、保護してくれた恩人でもある。
「彼、なんだか【能力】に関する機関――【世界能力管理機関】に所属しているらしくてね。私と母の保護を決定してくれたのよ」
「――はあぁっ!?」
椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。世界能力……なんたらかんたら、って、それはまさか、あの、異世界に関係しているものなのか!? いや、名前や文脈からしてそれは確実だろう。
おじさんが、そんな異世界関連の組織に関わっているなんて初耳だ。
「ええ。あなたにも直接伝えるつもりだったらしいけど、入れ違いで海外出張が決まったんですって。……つまり、あなたの異世界召喚についても、佐良木さんは最初から知っていたということね。彼の組織は、あなたのような帰還者や、逆にこちらへ迷い込んだ異世界人を管理するための機関らしいわ。今回の件は、あまりに急なことだったから対処が追いつかなくて申し訳ない、とも言っていたわ。まあ、これは私が言うことじゃないけど」
「そう、だったのか……」
「もう少ししたら、機関も動くそうよ。魔王軍は結構大きな組織だからね。でも、あなたが狙われている以上、まずはあなたがなんとかしないといけないけれど――」
あまりに衝撃の事実だ。
できれば、もっと早く……せめて異世界に行く前に教えてほしかったと、俺は遠い目をして天を仰いだ。




