Ep.13 side 春樹
温かいシャワーが、冷え切った体をじんわりと溶かしていく。タイルを叩く水の音を聞きながら、僕は目を閉じた。瞼の裏に、さっきまでの光景が鮮やかに蘇る。
ザアアァァッ――あの時も、こんな激しい水の音に包まれていた。
約束の時間に向け、高鳴る胸を抑えながら歩いていた、その時。突然、空が黒いカーテンを下ろし、バケツをひっくり返したような猛烈な雨が僕を襲った。傘なんて持っていない。あっという間に全身ずぶ濡れになり、僕は必死で近くの公園の東屋へと駆け込んだ。
雨は、僕の心を映すかのように、容赦なく地面を叩きつけていた。せっかくアイロンをかけたシャツは肌に張り付き、きれいに整えたはずの髪は、水を吸って重く垂れ下がっていた。
こんな姿で、玄弥さんの家に行くわけにはいかない。そう思ったのは、それだけが理由じゃなかった。スタジアムで、僕は勢いで告白してしまった。玄弥さんの動揺を見て、玄弥さんも僕を好きかもしれない、と舞い上がってしまったから。
でも、本当にそうだろうか?
あれは、玄弥さんの、ただの優しさだったんじゃないか?
僕の真剣な態度に戸惑って、断りきれなかっただけじゃないのか?
だとしたら、これから玄弥さんの家に行くことは、その優しさに甘えて、さらに困らせるだけじゃないだろうか。玄弥さんが男の人を好きになるのだとしても、その対象が「僕」でなければならない、なんて理由はどこにもない。僕のこの感情は、結局、玄弥さんにとっては「迷惑」なものなんだ。
そう考え始めたら、もう止まらなかった。冷たい雨が、僕の体温と一緒に、さっきまでの自信さえも奪い去っていくようだった。舞い上がっていた分、落ち込みは激しかった。
――やっぱり、行けない。玄弥さんの優しさにつけ込んではいけない。
僕は、かじかむ手でスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。
『すみません、玄弥さん。やっぱり、今日は行けそうにありません。本当にごめんなさい』
送信ボタンを押した指先は、もう感覚がなかった。
その直後だった。スマホが、けたたましく震えだした。
画面には『玄弥さん』の四文字。電話だ。
心臓が凍りつく。何を言われるんだろう。
怒られる? 呆れられる? ……怖い。でも、出なければ。
迷った末に、僕は震える指で通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし、春樹です」
「俺だ、玄弥だ。どういうことだよ、いきなり」
思った通り、電話の向こうから聞こえてきたのは、怒気を含んだ低い声だった。僕は、その声の圧力に、消えてなくなりたくなった。
「ご、ごめんなさい、本当に……」
「いいから言え!」
僕が、雨に降られてびしょ濡れになったことをおずおずと話すと、一瞬の沈黙の後、玄弥さんの、さらに大きな怒鳴り声が鼓膜を揺さぶった。
「バッカやろう! そんなくだらないこと考えてんのか! お前、男だろ!」
――その言葉が、シャワーの音にかき消されそうになりながらも、僕の頭の中で何度も何度も反響する。
僕はシャワーヘッドを壁に戻し、ゆっくりと息をついた。
あれからずっと、考えていた。玄弥さんの、あの言葉の意味を。他の人に言われたら、きっと傷ついたかもしれない。なんでそんな言い方をするんだって、反発したかもしれない。
でも、玄弥さんから言われた、あの「男だろ!」という言葉は、不思議と、僕の心に温かく響いたんだ。
僕が男の人を好きなことは、僕が「男らしくない」ということじゃない。僕が、一人の「男」として、玄弥さんの前に立っていることを、少しも変だと思っていない。むしろ、当たり前のこととして、そう叱ってくれたんだ。
玄弥さんは、僕を一人の男として見てくれている。その事実が、冷え切っていた心の芯に、小さな火を灯してくれた。
――行こう。ちゃんと、話をしなきゃ。
僕は浴室を出て、用意されてあったバスタオルで体を拭いた。脱衣カゴの上には、畳まれた着替えが置いてある。玄弥さんの、よれよれのグレーのTシャツと、スウェットパンツ。
そっと手に取ると、喉が、ごくりと鳴った。顔をうずめると、日向のような、清潔な柔軟剤の匂いがした。玄弥さん自身の匂いじゃない。でも、それだけで、彼の存在をすぐそばに感じているみたいで、胸が苦しくなる。
……下着はないけど、仕方ないよね。
僕は、少しだけ覚悟を決めて、彼の服に袖を通した。
鏡に映る自分を見て、思わず笑ってしまった。ぶかぶかのTシャツは、僕の細い肩からずり落ちそうで、華奢な鎖骨が覗いている。裾もだらしなく余り、まるで小さな子供が大人の服を着ているようだ。
でも、風呂上がりのせいか、頬は少し上気している。濡れた髪から立ち上る微かな湯気。さっきまでの頼りない自分とは、少しだけ違う。不思議と、少しだけ自信が湧いてきた。
僕は、深呼吸を一つして、脱衣所のドアをそっと開けた。
リビングでは、キッチンからトントン、と小気味よい包丁の音が聞こえてくる。僕が出てきたことに気づいた玄弥さんが、振り返った。
そして、僕の姿を見て、ぴたり、と動きを止めた。その大きな目が、驚いたように少しだけ見開かれている。その反応を見て、僕の心臓が、またドキリと鳴った。
今しかない。今、伝えなければ。
「玄弥さん」
僕が静かに呼びかけると、彼はまだ少し固まったまま、こちらを見ている。
一歩、近づく。
その分だけ、玄弥さんの体が、わずかに後ろへ引いた気がした。
「あのね、僕……」
もう一歩、近づく。
玄弥さんは、また一歩、後ずさる。
まるで、追い詰められた獣みたいに。
「昔から、ずっと……」
さらに、もう一歩。
ドン、と彼の大きな背中が、リビングの壁にぶつかった。
もう、逃げ場はない。
玄弥さんは、ばつが悪そうに僕から目を逸らし、低い声で唸った。
「……だめだ」
その声は、拒絶しているようで、でも、どこか懇願するような響きを持っていた。
僕は、その言葉の意味を確かめるように、最後の言葉を紡いだ。
子供の頃からずっと、僕の中にあった、どうしようもないこの感情を。
そして、僕がずっと確かめたかった、一つのことを。
「……ねえ、玄弥さん」
僕は、彼にだけ聞こえるような、少しだけ掠れた声で言った。
「あのひなまつりの日、僕の頬に、玄弥さんの髭がチクッとしたんです」
玄弥さんの肩が、大きく跳ねた。その瞳が、驚きと動揺で揺れているのが分かる。
「あの時、すごくドキドキしたんです。今も、ずっと忘れられない」
僕は、そっと自分の左の頬に指先で触れる。
「だから、玄弥さん。……もう一回、試してみませんか?」
「……何を、だよ」
やっと絞り出したような、玄弥さんの掠れた声。
僕は、玄弥さんを、まっすぐに見つめ返し、言った。
「今度は、髭じゃなくて、唇で。どんな感じがするのか……僕に、教えてください」
その言葉は、まるで呪文のように、玄弥さんの動きを完全に止めた。二人、見つめ合い――玄弥さんの喉が、ごくりと大きく上下した。震えながら、その大きな手が、僕の肩に置かれる。
僕は、少しだけ背伸びをした。
時間が、止まったみたいだった。心臓の音が、耳のすぐそばで鳴り響いている。玄弥さんの、少し荒い息遣い。僕を見つめる、熱を帯びた瞳。その全てが、僕の思考を麻痺させていく。
あと、ほんの数センチ。
玄弥さんの瞳が、諦めたように、あるいは、抗うことをやめたように、ゆっくりと閉じられるのを、僕は間近で見ていた。
――僕の唇に、柔らかくて、少しだけ不器用な感触が、そっと触れた。




