Ep.12 side 玄弥
俺は、あってはならない男としての衝動から逃れるように、パッと春樹から手を離した。
「……行くぞ」
短くそう告げ、俺は自分が差してきた傘を少し持ち上げた。春樹が、濡れたタオルで体を拭きながら、俺に近づく。
「あの、玄弥さん、僕の分の傘は……?」
おずおずと尋ねる春樹に、俺は自分が手にしている傘が一本だけであることに、その時初めて気づいた。
コンビニだ……! あの時、焦って忘れてきたんだ!
――時間を少しだけ遡る。
「迎えに行ってやるから、絶対にそこを動くんじゃねえぞ!」
一方的に春樹との電話を切った俺は、玄関へ向かった。傘立てから、自分の大きな傘を掴む。そして、ふと足を止め、折り畳み傘も一本、手に取った。あいつの分だ。
……何をやってるんだ、俺は。
過保護な自分の行動に内心で舌打ちしつつも、傘二本を掴んで、俺は部屋を飛び出した。激しい雨の中を走り、春樹が言っていた公園へ向かう途中、駅前のコンビニに駆け込む。
あいつは今、ずぶ濡れのはずだ。タオルでも買ってやらないと。
頭の中は、春樹のことでいっぱいだった。日用品の棚からタオルを手に取り、会計を済ませ、急いで店の外へ。一刻も早く、あいつの元へ行かなければ。その焦りの中で、俺は、店の入り口の傘立てに、春樹のために持ってきた折り畳み傘を立てかけたまま、すっかり忘れてしまっていた――。
「……忘れた。コンビニに」
「えっ」
「いいから、入れ。ぐずぐずするな」
有無を言わさぬ口調で言うと、俺は自分の大きな傘を、春樹の頭上にもかかるように、ぐいっと差し出した。
チームメイト、ファン、あるいは近所の人。もし、こんな相合傘を見られたら、どんな噂を立てられるだろうか。
「独占スクープ! ラグビー日本代表、若い男の恋人か」――そんな根も葉もないゴシップ記事の見出しが、頭の中で明滅する。ラグビー人生だけじゃない。俺の人生そのものが終わるかもしれない。
しかし、目の前では、春樹が寒さで小さく震えている。濡れた前髪が額に張り付き、その瞳は不安げに揺れていた。このまま、こいつを雨の中に放っておくなんて、できるわけがない。
ええい、ままよ――! 俺は心の中で悪態をつき、覚悟を決めた。
「早くしろ。風邪ひくぞ」
もう一度、低い声で促す。春樹はおずおずと傘の中に入ってきた。一つの傘の下に、男二人。肩と肩が触れ合いそうな、息が詰まるほどの距離。俺は、意識して傘を少し春樹の方に傾けた。自分の左肩が、じわりと雨に濡れていくのが分かったが、今はそんなことどうでもよかった。
時々、風にあおられて、お互いの濡れた腕が触れ合う。ぬるり、とした生々しい感触に、心臓が跳ねた。やはり、意識してしまう。ドキドキしている自分に戸惑いながら、俺は周囲に鋭く視線を走らせ、誰にも見られていないことを確認しつつ、必死で春樹の顔を見ないように、前だけを向いて歩いた。
やがて、見慣れたマンションのエントランスが見えてくる。オートロックを解除し、エレベーターに乗り込む。狭い箱の中で、春樹の濡れた匂いと、自分の心臓の音がやけに大きく感じられた。
「……わあ。やっぱり、いい暮らししてるんですね」
部屋に入るなり、春樹が少し感心したような声を上げた。広くはないが、一人暮らしには十分すぎるリビング。その言葉に、俺は少しだけ口元が緩むのを感じた。まんざらでもない、と思っている自分がいた。
「とりあえず、風呂入れ。シャワーでも浴びて、体温めろ」
俺は、タオルと着替えを用意するために、クローゼットへ向かう。
「え、でも、服が……」
「俺のを貸してやる。どうせブカブカだろうが、我慢しろ」
そう言って、俺は春樹をバスルームへと促した。
一人、リビングに残される。内心、ホッとしたが、それはすぐに焦りへと変わる。どうすればよいか、分からない。春樹が風呂から出てきたら、何を……どこから、話せばいい?
……手を動かそう。何かしてないと、落ち着かない。
俺は、まるで何かに取り憑かれたように、キッチンへ向かった。とりあえず、飯だ。温かいものでも食わせれば、話もしやすくなるだろう。
冷蔵庫を開けると、先日スーパーで買った、味噌煮込みうどんのセットが目に入った。これなら、すぐできる。
野菜室から、長ネギ、しいたけ、人参を取り出す。トントントン、とリズミカルに包丁で野菜を切っていく。無心になれるこの作業は、混乱した頭を少しだけ整理してくれた。
俺は、一体どうしたいんだ?
そもそも、俺は女が好きなはずだ。
なのに、なぜ春樹だけが、こんなにも俺の心を乱すんだ?
庇護欲か? 昔からの情か? それとも……。
春樹は、俺にとって、一体なんなんだ?
その答えは、ずっと見つかっていない。
「――玄弥さん、お湯、ありがとうございました」
不意に、背後から声がかかった。振り返ると、そこに、春樹が立っていた。
俺の、よれよれのグレーのTシャツと、スウェットパンツを身につけて。
ぶかぶかのTシャツは、彼の細い肩からずり落ちそうで、華奢な鎖骨が覗いている。裾もだらしなく余り、まるで小さな子供が大人の服を着ているようだ。だが、濡れた髪から立ち上る微かな湯気と、少し上気した頬のせいか、その姿はひどく、無防備で、そして……俺の中の、何か根本的な男としての衝動を直接揺さぶってくるような、危険な色香を放っていた。
俺の中に、あいつがいる。俺は、その姿から目が離せなくなった。
言葉を失い、ただ立ち尽くす俺の目の前で、春樹が少し照れたように、はにかんだ。その瞬間、体の中心で何かが生まれ、熱が今まで経験したことのない速さで全身を駆け巡っていく。
女相手に感じる、単純な興奮とは違う。もっと根源的で、抗いがたい引力。
それは、ただ目の前の春樹という存在だけが引き起こせる、ときめきと呼ぶべきか分からない、生々しい何かだった。その想いが強ければ強いほど、なぜか胸の奥が締め付けられるように、苦しく、そして切なかった。




