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【BL】ハルキゲニアのふたり  作者: 平手武蔵
春夏秋『冬』
14/16

Ep.14 side 玄弥

「今度は、髭じゃなくて、唇で。どんな感じがするのか……僕に、教えてください」


 まるで、呪文にかかってしまったかのようだった。振り返った先にいた、俺の服を着た春樹。その無防備な姿に、俺の中の理性のタガが外れかかっていた。後ずさり、壁際に追い詰められ、低い声で「だめだ」と唸ったのは、ほとんど無意識の抵抗だった。それは、春樹に向けた言葉であると同時に、暴走しかけている自分自身に言い聞かせるための、最後のブレーキだった。


 だが、春樹のその一言で、ブレーキはあっけなく破壊された。俺の喉が、ごくりと大きく上下するのが自分でも分かった。

 こいつは、俺が何を考えているのか、すべてお見通しなのか。春樹の肩を掴んでいた手に、ぐっと力が籠る。その力が、春樹にバレないよう、ひたすらに耐える。俺の指は、もう悲鳴を上げてしまいそうになっていた。

 春樹が、少しだけ背伸びをする。

 その瞬間、時間が止まったみたいだった。心臓の音が、頭蓋骨の中で直接響いている。目の前の春樹の、少し荒い息遣い。俺を射抜く、熱を帯びた、それでいてどこか切なげな瞳。その全てが、俺の思考を麻痺させていく。


 あと、ほんの数センチ――俺は、もう、抗うことをやめた。


 ゆっくりと目を閉じる。そして、その柔らかい唇に、自分の唇をそっと重ねた。驚くほど、優しくて、温かい。初めての感触。甘くて、熱くて、頭の芯が痺れるような、どうしようもないほどの快感が、全身を貫いた。

 春樹の体の力が抜け、俺の胸に寄りかかってくる。その華奢な体を、今度は迷うことなく、壊れ物を抱きしめるように、大きな腕でしっかりと抱きとめた。


 長い、長いキス。


 唇が離れた時、俺たちは、お互いの熱い息を感じるほどの距離で、ただ見つめ合っていた。目の前の春樹――頬は上気し、潤んだ瞳は熱っぽくとろけて、どこか夢を見ているような表情をしていた。少しだけ開かれた唇が、艶っぽく光っている。俺にすべてを委ねるかのような、無防備な顔がそこにあった。

 その表情に、俺の心の奥底が、またずくりと疼いた。俺の顔は、きっと、今まで見たことがないくらい、真っ赤になっているだろう。


 ◇


 エアコンの静かな風の音だけが、部屋に響いていた。俺たちは、どちらからともなくソファに腰掛け、言葉もなく、ただ隣に座っていた。

 俺の頭の中では、これまでの葛藤が、嵐のように渦巻いていた。


 俺は、女が好きなはずだった。

 真由美との関係も、本物だった。なのに、なぜ。

 俺は、本当は男が好きなのか?

 じゃあ、大学時代に男から言い寄られた、あの時の嫌悪感はなんだったんだ?

 今の、この気持ちは、一体なんなんだ?


 ぐるぐると、同じ場所を回り続ける思考。

 ふいに、春樹が、俺の体に軽く寄りかかる。

 春樹の体温を感じながら、ふと、気づいた。


 男か、女か。そんなことは、どうでもよかったんだ。

 俺が惹かれているのは、「男」という性別じゃない。

 目の前にいる、この「春樹」という、たった一人の人間なんだ。


 ひなまつりの日に見た、儚い妖精のような姿も。

 スタジアムで俺を追い詰めた、あの強気な告白も。

 雨に濡れて震える、頼りない姿も。

 そして今、俺の服を着て、少し照れたように隣に座っている、この姿も。

 そのすべてが、どうしようもなく愛おしくて、俺の心を掴んで離さない。

 ただ、それだけのことじゃないか。

 なんで、そんな簡単なことにも、今まで気づかなかったんだろう。


 長い間、俺の心を縛り付けていた鎖が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。


 他の誰かに、この関係を見られるのは、やっぱり嫌だ。それは、きっとこれからも変わらないだろう。俺は、そんなに強くない。

 でも、ここは俺の家で、俺の城だ。ここには、俺と春樹の二人しかいない。


 ――だったら、もう、いいだろう。


 俺は、おもむろに立ち上がると、隣で戸惑っている春樹の膝の裏と背中に、腕を差し入れた。


「え、わっ……! 玄弥さん!?」


 春樹が驚きの声を上げる。俺は、その細い体を、赤ん坊でも抱くように、ふわりと横抱きにした。いわゆる、お姫様抱っこだ。


「な、何するんですか……! お、重いですよ!」


 春樹は、顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに俺の胸を軽く叩く。構うものか。春樹の声には抵抗の色よりも、戸惑いと嬉しさが混じっているのが分かった。本当は、まんざらでもないくせに。


「重いわけねえだろ。お前なんて、妖精の羽みてえに軽い」


 そう言って、俺はもう一度、その潤んだ瞳を見つめ、深く、深くキスをした。むさぼるように、唇を味わっていると、春樹が「ん……」と声を漏らし、少しだけ顔を離した。


「……ひげ、痛いよ」


 上目遣いで、少しだけ拗ねたように春樹が言う。その表情が、たまらなく愛おしくて、俺の理性のタガ――最後のそれを意図的に外した。


「そうか?」


 俺は無精髭の顎を、春樹の柔らかな頬に、ゆっくりとこすりつけた。

 ざらりと、かすかな音が鳴る。この音が、春樹にも聞こえているだろうか。


「やっ……やめてよ、玄弥さん……!」


 本当に痛いのか、ただ、くすぐったいだけなのか。春樹は、体をよじらせた。だが、その手は、俺のTシャツを弱々しく掴んでいるだけで、本気で抵抗しているようには見えなかった。

 心の中で、俺は笑った。


 ――妖精。俺の、俺だけの、妖精。誰にも渡してなるものか。


 俺は、春樹を抱きかかえたまま、ゆっくりと立ち上がり、寝室の、その暗がりへと向かって、一歩を踏み出した。

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