Ep.14 side 玄弥
「今度は、髭じゃなくて、唇で。どんな感じがするのか……僕に、教えてください」
まるで、呪文にかかってしまったかのようだった。振り返った先にいた、俺の服を着た春樹。その無防備な姿に、俺の中の理性のタガが外れかかっていた。後ずさり、壁際に追い詰められ、低い声で「だめだ」と唸ったのは、ほとんど無意識の抵抗だった。それは、春樹に向けた言葉であると同時に、暴走しかけている自分自身に言い聞かせるための、最後のブレーキだった。
だが、春樹のその一言で、ブレーキはあっけなく破壊された。俺の喉が、ごくりと大きく上下するのが自分でも分かった。
こいつは、俺が何を考えているのか、すべてお見通しなのか。春樹の肩を掴んでいた手に、ぐっと力が籠る。その力が、春樹にバレないよう、ひたすらに耐える。俺の指は、もう悲鳴を上げてしまいそうになっていた。
春樹が、少しだけ背伸びをする。
その瞬間、時間が止まったみたいだった。心臓の音が、頭蓋骨の中で直接響いている。目の前の春樹の、少し荒い息遣い。俺を射抜く、熱を帯びた、それでいてどこか切なげな瞳。その全てが、俺の思考を麻痺させていく。
あと、ほんの数センチ――俺は、もう、抗うことをやめた。
ゆっくりと目を閉じる。そして、その柔らかい唇に、自分の唇をそっと重ねた。驚くほど、優しくて、温かい。初めての感触。甘くて、熱くて、頭の芯が痺れるような、どうしようもないほどの快感が、全身を貫いた。
春樹の体の力が抜け、俺の胸に寄りかかってくる。その華奢な体を、今度は迷うことなく、壊れ物を抱きしめるように、大きな腕でしっかりと抱きとめた。
長い、長いキス。
唇が離れた時、俺たちは、お互いの熱い息を感じるほどの距離で、ただ見つめ合っていた。目の前の春樹――頬は上気し、潤んだ瞳は熱っぽくとろけて、どこか夢を見ているような表情をしていた。少しだけ開かれた唇が、艶っぽく光っている。俺にすべてを委ねるかのような、無防備な顔がそこにあった。
その表情に、俺の心の奥底が、またずくりと疼いた。俺の顔は、きっと、今まで見たことがないくらい、真っ赤になっているだろう。
◇
エアコンの静かな風の音だけが、部屋に響いていた。俺たちは、どちらからともなくソファに腰掛け、言葉もなく、ただ隣に座っていた。
俺の頭の中では、これまでの葛藤が、嵐のように渦巻いていた。
俺は、女が好きなはずだった。
真由美との関係も、本物だった。なのに、なぜ。
俺は、本当は男が好きなのか?
じゃあ、大学時代に男から言い寄られた、あの時の嫌悪感はなんだったんだ?
今の、この気持ちは、一体なんなんだ?
ぐるぐると、同じ場所を回り続ける思考。
ふいに、春樹が、俺の体に軽く寄りかかる。
春樹の体温を感じながら、ふと、気づいた。
男か、女か。そんなことは、どうでもよかったんだ。
俺が惹かれているのは、「男」という性別じゃない。
目の前にいる、この「春樹」という、たった一人の人間なんだ。
ひなまつりの日に見た、儚い妖精のような姿も。
スタジアムで俺を追い詰めた、あの強気な告白も。
雨に濡れて震える、頼りない姿も。
そして今、俺の服を着て、少し照れたように隣に座っている、この姿も。
そのすべてが、どうしようもなく愛おしくて、俺の心を掴んで離さない。
ただ、それだけのことじゃないか。
なんで、そんな簡単なことにも、今まで気づかなかったんだろう。
長い間、俺の心を縛り付けていた鎖が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。
他の誰かに、この関係を見られるのは、やっぱり嫌だ。それは、きっとこれからも変わらないだろう。俺は、そんなに強くない。
でも、ここは俺の家で、俺の城だ。ここには、俺と春樹の二人しかいない。
――だったら、もう、いいだろう。
俺は、おもむろに立ち上がると、隣で戸惑っている春樹の膝の裏と背中に、腕を差し入れた。
「え、わっ……! 玄弥さん!?」
春樹が驚きの声を上げる。俺は、その細い体を、赤ん坊でも抱くように、ふわりと横抱きにした。いわゆる、お姫様抱っこだ。
「な、何するんですか……! お、重いですよ!」
春樹は、顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに俺の胸を軽く叩く。構うものか。春樹の声には抵抗の色よりも、戸惑いと嬉しさが混じっているのが分かった。本当は、まんざらでもないくせに。
「重いわけねえだろ。お前なんて、妖精の羽みてえに軽い」
そう言って、俺はもう一度、その潤んだ瞳を見つめ、深く、深くキスをした。むさぼるように、唇を味わっていると、春樹が「ん……」と声を漏らし、少しだけ顔を離した。
「……ひげ、痛いよ」
上目遣いで、少しだけ拗ねたように春樹が言う。その表情が、たまらなく愛おしくて、俺の理性のタガ――最後のそれを意図的に外した。
「そうか?」
俺は無精髭の顎を、春樹の柔らかな頬に、ゆっくりとこすりつけた。
ざらりと、かすかな音が鳴る。この音が、春樹にも聞こえているだろうか。
「やっ……やめてよ、玄弥さん……!」
本当に痛いのか、ただ、くすぐったいだけなのか。春樹は、体をよじらせた。だが、その手は、俺のTシャツを弱々しく掴んでいるだけで、本気で抵抗しているようには見えなかった。
心の中で、俺は笑った。
――妖精。俺の、俺だけの、妖精。誰にも渡してなるものか。
俺は、春樹を抱きかかえたまま、ゆっくりと立ち上がり、寝室の、その暗がりへと向かって、一歩を踏み出した。




