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綺麗なままで終わりたかった  作者: 宵


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3/4

綺麗なままでは終われない 中


⸻


律は、その夜ほとんど眠れなかった。


ベッドに入って、電気を消して、スマホも伏せた。


それでも、目を閉じるたびに悠真のメッセージが浮かんだ。


『期待して』


ずるい。


そう返した。


それ以外、言えなかった。


期待していいようなことを言われたら、期待してしまう。


そんなことは、自分が一番よく分かっている。


今までだってそうだった。


悠真が何気なく「明日昼食おうぜ」と言うだけで、その日一日を生き延びられた。


夜に「今ひま?」と来るだけで、眠気なんてどこかへ消えた。


悠真の部屋に、自分のパーカーが掛かっているだけで、そこに自分の居場所があるみたいな気がした。


全部、期待だった。


言葉にされていないものを、勝手に拾って、勝手に大事にして、勝手に傷ついてきた。


だから、もうやめようと思った。


悠真が悪いわけじゃない。


少なくとも、最初はそう思っていた。


悠真は何も知らなかった。


律が悠真を好きなことも。


彼女の話を聞くたびに、律が少しずつ息の仕方を忘れていたことも。


律が荷物を返して、電話を避けて、履修を合わせず、少しずついなくなる準備をしていたことも。


全部、知らなかった。


知らないなら、責められない。


だから、綺麗に終わらせようと思った。


好きだったことも。


隣にいた時間も。


部屋に置きっぱなしだった充電器も、パーカーも、漫画も。


全部、ちゃんと元の場所へ戻して。


何もなかったように。


いつか笑って「そういえば昔、ずっと一緒にいたよな」と言えるくらいの距離にしたかった。


なのに。


『期待して』


そんな言葉を投げられた。


律は布団の中で、スマホを手に取る。


画面をつける。


悠真とのトークを開く。


何度見ても、そこには同じ文字がある。


『期待させるような話をする』


喉の奥が、きゅっと縮んだ。


嬉しい。


そう思ってしまう自分が嫌だった。


期待してしまう。


もしかしたら、と思ってしまう。


悠真が、今さらでも自分を選んでくれるのかもしれない。


親友じゃなくて。


友達じゃなくて。


好きな相手として、見てくれるのかもしれない。


そんなことを考えてしまう。


でも、同時に怖かった。


悠真には彼女がいる。


少なくとも、まだ別れたとは聞いていない。


それなのに、期待してと言われた。


会いたいと言われた。


律の中に残っている好きを、悠真はちゃんと分かっていて触れてきた。


それがずるい。


優しい顔で、欲しいところだけに手を伸ばされるみたいで。


逃げたいのに、逃げられなくなる。


律はスマホを胸の上に置いて、天井を見た。


真っ暗で、何も見えない。


それでも、悠真の顔だけは浮かんだ。


学食で笑っていた顔。


寝起きで髪が跳ねていた顔。


彼女の話をして、少し照れていた顔。


佐伯を見た時の、知らないくらい硬い顔。


そして、あの日。


カフェの外で、何も言えずに立っていた顔。


律は目を閉じた。


あの顔を見て、少しだけ期待した。


もしかしたら。


悠真も、少しは寂しいのかもしれない。


自分がいなくなることを、嫌だと思ってくれているのかもしれない。


でも、それは恋じゃないかもしれない。


ただ、親友が離れていくのが嫌なだけかもしれない。


自分が一番近い場所から降りようとしているから、焦っているだけかもしれない。


律は、それが怖かった。


悠真にとっての親友の席を守るために、自分の恋をもう一度殺すのは嫌だった。


もう無理だった。


律は、誰かの一番になりたかった。


親友だから大事、ではなく。


たまたま近くにいたから楽、ではなく。


恋人だから選ぶ、でもなく。


ただ、律だから一番にしたいと思ってくれる誰かがよかった。


自分も、その人を一番にしたかった。


そう思った瞬間、胸が少し痛んだ。


その誰かの顔は、まだうまく思い浮かばない。


佐伯かもしれない。


佐伯ではないかもしれない。


でも、少なくとも悠真ではない人を好きになれる日が来るなら。


その日まで、待ってほしかった。


悠真が大事な友達に戻るまで。


悠真の名前で、心臓が跳ねなくなるまで。


悠真の彼女の話を聞いても、ちゃんと笑えるまで。


悠真が誰を一番にしていても、平気になれるまで。


そこまで行けたら、また会える。


今度こそ、普通に。


律はそう思った。


そう思おうとした。


でも、眠れなかった。


⸻


翌日、待ち合わせ場所に指定したのは大学近くの川沿いだった。


駅前のカフェは嫌だった。


佐伯といた場所でもあるし、悠真に告げた場所でもある。


あそこへもう一度行ったら、同じ痛みをなぞる気がした。


川沿いの道は、昼過ぎでも人が少ない。


講義の合間に少し歩く学生や、犬を連れた老人がたまに通るくらいだった。


律は橋のたもとの手すりにもたれて、ぼんやり水面を見ていた。


空は曇っている。


水の色も鈍い。


何もかも、中途半端な色をしていた。


「律」


声がした。


振り返る。


悠真が立っていた。


少し息が上がっている。


走ってきたのかもしれない。


髪が少し乱れていて、鞄の肩紐がずれていた。


そんなところまで、律は見てしまう。


見たくないのに。


「走らなくてよかったのに」


律は言った。


自分でも驚くくらい、普通の声が出た。


悠真は少しだけ眉を寄せた。


「遅れたくなかった」


「別に五分くらい待つよ」


「そういうことじゃない」


「ふうん」


会話が止まる。


風が吹いて、律の前髪が少し揺れた。


悠真は何か言おうとして、言葉を探しているようだった。


その沈黙が、律には少しだけ苦しかった。


早く言ってほしい。


でも、聞きたくない。


早く終わらせたい。


でも、終わったら本当に戻れなくなる。


律は先に口を開いた。


「昨日のあれ、何」


悠真が顔を上げる。


「期待してってやつ」


「……そのまま」


「そのままじゃ分かんない」


「期待してほしいってこと」


律は少し笑った。


笑えた。


でも、たぶん冷たかった。


「ずるいって言っただろ」


「うん」


「分かってて言った?」


「分かってる」


「じゃあ、もっと最悪だな」


悠真は黙った。


律は手すりから体を離した。


「悠真」


「うん」


「彼女とは?」


悠真の肩が、わずかに揺れた。


それだけで分かってしまった。


まだ、終わっていない。


律は目を伏せた。


胸の奥が、思っていたより静かに冷えた。


「……そっか」


「話した」


「別れてはないんだ」


悠真はすぐには答えなかった。


律はその沈黙で、十分だった。


「じゃあ、何しに来たの」


「律と話しに来た」


「俺と話す前に、話す相手いるんじゃないの」


「分かってる」


「分かってないだろ」


声が少し硬くなった。


律は自分で気づいて、息を吐く。


怒りたくない。


怒ったら、全部汚くなる。


でも、もう綺麗に笑えるほどの余裕もなかった。


「俺さ」


律は言った。


「昨日、寝られなかった」


悠真が顔を上げる。


「お前があんなこと言うから」


「……ごめん」


「謝るくらいなら言うなよ」


「ごめん」


「だから」


律は言葉を切った。


責めたいわけじゃない。


でも、責める言葉しか出てこない。


「俺、今のお前に期待したくないんだよ」


悠真は何も言わなかった。


「だって、お前には彼女がいるじゃん」


「……」


「お前には別の一番がいる」


その言葉を口にした瞬間、律の胸の奥が少しだけ震えた。


一番。


ずっと欲しかったもの。


でも、自分には与えられなかったもの。


悠真の顔が強張る。


律は続けた。


「お前にとって俺が大事なのは分かるよ」


「律」


「分かる。ほんとに。俺だって馬鹿じゃないから、お前が俺をどうでもいいと思ってたわけじゃないのは分

かる」


だから余計に苦しかった。


律はその言葉を飲み込んだ。


「でも、一番じゃなかった」


悠真の喉が動いた。


「俺は、お前の彼女の話を聞いてた。相談にも乗った。行ってこいよって言った。楽しんできなよって言っ

た」


言いながら、胸が痛くなる。


今さら数えてどうするのだろう。


でも止まらなかった。


「お前が彼女を大事にするのは正しいと思った。好きなやつが幸せならいいって、最初はほんとに思った」


律は少し笑った。


「でも無理だった」


悠真は、何かをこらえるように唇を噛んだ。


「だから離れようとしたんだよ」


「分かってる」


「分かってない」


律は即座に言った。


悠真が黙る。


「分かってたら、期待してなんて言えないだろ」


「……」


「俺はさ、もうお前の親友の席にいるのもしんどいんだよ」


言った瞬間、喉が熱くなった。


でも、もう止められなかった。


「親友だから近くにいる。親友だから相談される。親友だから部屋に行く。親友だから電話に出る。親友だ

から、彼女の話も笑って聞く」


悠真の顔が歪む。


律はそれを見ないように、川の方を向いた。


「でも俺は、親友だから近くにいたかったんじゃない」


風が吹いた。


水面が小さく揺れる。


「好きだったから、近くにいたかった」


悠真は何も言わない。


律は続けた。


「だからもう、親友のふりはできない」


「……律」


「待ってほしいんだよ」


悠真が顔を上げた。


律はゆっくり振り返った。


「俺が、お前を好きじゃなくなるまで」


悠真の表情が、はっきり変わった。


律はそれを見て、少しだけ胸が痛んだ。


でも、言わなければならなかった。


「お前を見ても、平気でいられるようになるまで」


「……」


「お前に彼女がいても、誰か好きな人がいても、ちゃんと友達として笑えるようになるまで」


「律」


「そしたらまた会えるよ」


律は笑った。


自分でも分かる。


少し無理をした笑顔だった。


「たまに飯行って、たまに遊んで、近況話してさ」


悠真の顔が、さらに硬くなる。


「それでいいだろ」


「よくない」


低い声だった。


律は息を止めた。


悠真は律を見ていた。


見たことがない顔で。


「よくない」


もう一度、悠真が言った。


律は眉を寄せた。


「何が」


「それが嫌だ」


「……は?」


「お前が俺を好きじゃなくなるまで待つとか、無理」


律は数秒、言葉の意味を飲み込めなかった。


それから、胸の奥に熱いものが上がってきた。


怒りだった。


「お前、自分で何言ってるか分かってる?」


「分かってる」


「分かってないだろ」


「分かってる」


「お前には彼女がいるんだぞ」


「分かってる」


「じゃあなんでそんなこと言うんだよ」


「嫌だから」


あまりにも真っ直ぐな言葉だった。


律は一瞬、何も言えなくなった。


悠真は続けた。


「お前が俺を好きじゃなくなるのが嫌だ」


「……」


「お前が俺のこと、友達としてしか見なくなるのが嫌だ」


律の指先が冷たくなる。


「俺を一番にしなくなるのが嫌だ」


その言葉に、律の中で何かが切れた。


「ふざけんなよ」


声が震えた。


悠真は黙る。


「お前には別の一番がいるのに」


「……」


「俺は、自分を一番にしてくれるやつ探しちゃ駄目なのかよ」


悠真の顔が歪む。


律は止まらなかった。


「俺だって、誰かの一番になりたいよ」


ずっと言えなかった言葉だった。


情けなくて、惨めで、口にしたら本当に欲しかったことがばれてしまうから。


でも、もう遅かった。


「俺も、そいつを一番にしたい」


悠真が息を呑んだ。


「お前じゃない誰かを好きになって、お前じゃない誰かにちゃんと選ばれて、俺もそいつをちゃんと選びた

い」


喉が痛い。


でも言った。


「だから待ってくれって言ってんだよ」


律は悠真を見た。


「俺が、お前を一番にしなくなるまで」


悠真は、少しだけ視線を落とした。


それから、ゆっくり顔を上げる。


その目が、怖いくらい真剣だった。


「だから」


悠真が言った。


「それが嫌なんだよ」


律は唇を噛んだ。


「最低だな」


「うん」


「うんじゃねえよ」


「最低でいい」


「よくないだろ」


「よくない」


悠真は言った。


「でも嫌だ」


律は息を詰めた。


悠真はもう、逃げる気がない顔をしていた。


「お前が他のやつを一番にするのが嫌だ」


「……」


「俺の知らないところで、お前が大丈夫になっていくのが嫌だ」


「勝手だろ」


「勝手だよ」


「俺がどんだけ苦しかったと思ってんだよ」


「分かってる」


「分かってない!」


律の声が、思ったより大きく響いた。


通りかかった人が一瞬こちらを見る。


律はそんなことも気にならなかった。


「お前は分かってない!」


胸の奥に溜めていたものが、溢れた。


「俺はずっと見てたよ!」


悠真が息を止める。


「お前が彼女の話してる時も、彼女のこと好きなんだなって顔して笑ってる時も、俺に相談して楽になって

る時も、全部見てたよ」


視界がにじむ。


泣きたくなかった。


でも、声が震える。


「見てたんだよ、ずっと」


悠真は何も言わない。


「でもお前は俺を見てなかった」


言った瞬間、律は自分の言葉に一瞬だけ詰まった。


見てなかった、じゃない。


見せなかったのは、自分だ。


分かっている。分かっているのに、止まらなかった。


「……分かってるよ、俺が言わなかったのは」


律は声を落とした。


「でも、それとこれとは別」


「律」


「分かってても、腹立つもんは腹立つんだよ」


悠真は何も言わなかった。ただ、律のその矛盾ごと受け止めるように、黙って立っていた。


その言葉を言った瞬間、涙が一粒落ちた。


律は慌てて袖で拭った。


みっともない。


こんなところで泣くなんて。


でも、もう止まらなかった。


「今さら見るなよ」


悠真の顔が、苦しそうに歪む。


律は笑おうとした。


けれど、うまくいかなかった。


「俺がやっと離れようとしてんのに」


「……」


「やっと、お前じゃない誰かを一番にしようとしてんのに」


悠真は一歩近づいた。


律は反射的に下がった。


その距離に、悠真の表情が少しだけ傷ついたように揺れる。


律はそれを見て、また胸が痛んだ。


傷つけたいわけじゃない。


でも、もう自分だけが傷つかないように笑うことはできなかった。


「律」


「何」


「やめるな」


律は目を見開いた。


「命令すんな」


「違う」


「何が違うんだよ」


「頼んでる」


「頼むな」


律は即座に言った。


「頼まれたら、俺が弱いの知ってるだろ」


悠真は一瞬、言葉を失った。


律は笑った。


ひどい笑い方だったと思う。


「知ってるくせに」


悠真は唇を噛んだ。


そして、言った。


「頼む」


律の胸が、嫌な音を立てた。


「俺を好きじゃなくならないで」


その言葉は、あまりにも残酷だった。


律は動けなくなった。


悠真は続けた。


「お前が俺を好きじゃなくなるのを、待てない」


「……」


「お前が他のやつを一番にするのを、友達みたいな顔で見てるなんて無理だ」


律は口を開いた。


でも、声が出なかった。


ずるい。


最低。


残酷。


全部、言いたかった。


でも、それより先に、心の奥が喜んでしまった。


悠真が嫌だと言っている。


律が自分を好きじゃなくなるのが嫌だと。


他の誰かを一番にするのが嫌だと。


それが、こんなにも嬉しい。


嬉しいと思ってしまう自分が、律は本当に嫌だった。


「それ」


ようやく声が出た。


「俺にとって、どれだけ残酷か分かってる?」


悠真は黙った。


「お前を好きなままでいろってことだろ」


「……」


「お前に彼女がいるのに」


「……」


「お前がまだ何も終わらせてないのに」


悠真の顔が、痛そうに歪む。


「俺に、好きなままでいろって言ってんだよ」


「ごめん」


「その謝り方、逃げてるみたいで嫌い」


「……ごめん」


「謝るなって!」


律は声を荒げた。


悠真は黙る。


律は息を整えようとした。


でも、うまくできなかった。


「俺、ちゃんと逃げようとしてたんだよ」


声が小さくなる。


「お前を嫌いにならないように」


悠真が顔を上げる。


「彼女のことも、嫌いにならないように」


律は水面を見る。


川の流れはゆっくりで、自分とは関係なく進んでいく。


「お前との時間を、汚したくなかった」


言いながら、胸が痛んだ。


「楽しかったんだよ。ほんとに」


悠真は何も言わなかった。


「朝起こすのも、昼飯食うのも、課題やるのも、部屋でくだらない動画見るのも」


律は笑った。


涙で視界がぼやける。


「好きだった」


悠真の息が止まる。


「だから、綺麗なままで終わりたかった」


同じ言葉だった。


あの日も言った。


でも、今はもう、あの時よりずっと汚れてしまった気がした。


嫉妬も、怒りも、未練も、期待も。


全部、剥き出しになっている。


「なのにお前が、終わらせるなって言うから」


律は悠真を見た。


「俺、また期待するじゃん」


悠真は黙って律を見ていた。


律はその目が嫌だった。


今さら、本当に見られている気がして。


ずっと欲しかったものを、手遅れみたいなタイミングで差し出されている気がして。


「悠真」


「うん」


「俺を好きなの?」


悠真の表情が固まった。


律は、それだけで胸の奥が冷えた。


ほら。


やっぱり。


「答えられないんだ」


「違う」


「何が違うんだよ」


「答えたくないんじゃない」


「じゃあ答えろよ」


悠真は口を開いた。


でも、すぐに閉じた。


律は笑った。


今度こそ、ちゃんと冷たく笑えたと思った。


「親友を取られそうで焦ってるだけだろ」


「違う」


「違わない」


「違う」


「じゃあ何?」


悠真は拳を握った。


苦しそうだった。


それでも、言葉は出てこない。


律は、それを見ていられなかった。


自分がどれだけ残酷な質問をしているか分かっている。


悠真は今、自分の感情に名前をつけようとしている途中なのかもしれない。


でも、律にはもう、その途中に付き合う余裕がなかった。


「いいよ」


律は言った。


「今すぐ答えなくて」


悠真が顔を上げる。


「でも、俺はもう無理」


「律」


「お前が自分の気持ちに名前つけるまで、俺が好きなまま待つのは無理」


悠真の顔が歪む。


「俺を好きじゃなくならないでって言うなら」


律は、ゆっくり言った。


「その前に、お前が何を終わらせて、何を選ぶのか決めてこいよ」


悠真は息を呑んだ。


「彼女とちゃんと話して」


「……」


「それでまだ、俺に期待してって言うなら」


律は少しだけ目を伏せた。


「その時は、聞く」


悠真は何も言わない。


律は一歩下がった。


「今日は帰る」


「待って」


「待たない」


律は首を横に振った。


「今は待たない」


悠真の手が少し動いた。


でも、伸びてこなかった。


律はそれを見た。


伸ばされなかったことに、ほっとした。


同時に、少しだけ悲しかった。


「律」


「何」


「俺は」


悠真はそこで言葉を止めた。


律は静かに待った。


でも、悠真は続けられなかった。


律は小さく笑った。


「ほら」


悠真の顔が痛そうに歪む。


「そういうとこ」


あの日と同じ言葉だった。


駅で別れた時にも、律はそう言った。


今も同じだ。


悠真は、まだ言えない。


律を引き止めたい。


律に好きじゃなくならないでほしい。


律が他の誰かを一番にするのは嫌だ。


でも、それが恋なのか。


律を恋人として選ぶのか。


彼女との関係をどうするのか。


そこまではまだ、言えない。


律はもう、その曖昧さの中にはいられなかった。


「じゃあな」


律は背を向けた。


足が少し震えていた。


でも歩いた。


後ろから、悠真の声はしなかった。


呼ばれたら、振り返ってしまうと思った。


だから呼ばれなくてよかった。


呼ばれなくて、苦しかった。


川沿いの道を歩きながら、律は袖で目元を拭った。


泣くな。


泣くな。


そう思うのに、涙は止まらなかった。


期待してしまった。


やっぱり。


悠真が嫌だと言ったから。


俺を好きじゃなくならないでと言ったから。


最低だと思った。


残酷だと思った。


でも、嬉しかった。


まだ好きだった。


だから、離れなければならない。


このままでは、悠真が何も選ばないままでも、律はまた隣に戻ってしまう。


それだけは、もう駄目だった。


律は歩き続けた。


スマホが震える。


佐伯からだった。


『今日、ゼミ資料やる?』


律は画面を見た。


返事を打とうとして、指が止まる。


佐伯のところへ行けば、きっと何も聞かずにコーヒーくらい買ってくれる。


それがありがたい。


でも今は、その優しさに逃げるのも少し怖かった。


律は短く返した。


『ごめん、今日は無理』


すぐに返事が来る。


『了解。生きてる?』


律は少しだけ笑った。


『一応』


『じゃあ今日は寝ろ』


その文字を見て、律はまた泣きそうになった。


誰かに心配されるのは、こんなに楽だっただろうか。


悠真ではない誰かに。


律はスマホをしまった。


そして、もう一度だけ振り返りたい衝動をこらえた。


⸻


悠真は、川沿いに立ったままだった。


律の背中が遠ざかっていく。


追いかけたかった。


今すぐ腕を掴んで、行くなと言いたかった。


でも、できなかった。


律に言われた言葉が、胸の中で何度も響いていた。


お前には別の一番がいるのに。


俺は自分を一番にしてくれるやつ探しちゃ駄目なのかよ。


俺も、そいつを一番にしたい。


だから待ってくれよ。


律の言葉は、正しかった。


全部、正しかった。


悠真には彼女がいる。


まだ終わらせていない。


それなのに律に、好きじゃなくならないでと言った。


自分を一番にしたままでいてほしいと言った。


どれだけ残酷なことを言ったのか、分かっている。


分かっていても、撤回できなかった。


律が自分を好きじゃなくなる。


律が他の誰かを一番にする。


その未来を想像するだけで、胸の奥が黒く濁る。


嫌だ。


どうしても嫌だ。


悠真は手すりを握った。


冷たい金属の感触で、少しだけ意識が戻る。


律に聞かれた。


俺を好きなの?


答えられなかった。


好きだ。


そう言えばよかったのか。


でも、その言葉が、まだ喉の奥で引っかかっている。


言った瞬間、全部が変わる。


彼女のことも。


律のことも。


自分が今まで友達だと思っていた時間も。


全部、恋という名前に引きずり込まれる。


怖かった。


でも、それは律にとって何の言い訳にもならない。


律はずっと怖かったはずだ。


男の自分が、ノンケの親友を好きだと気づいた時から。


言ったら壊れるかもしれないと思いながら、それでも隣にいた。


悠真の彼女の話を聞いて、笑って、背中を押して。


それでも壊れないように、一人で逃げようとした。


その律に、自分は言った。


俺を好きじゃなくならないで。


悠真は深く息を吐いた。


最低だ。


本当に最低だ。


でも。


最低でも、もう戻れない。


律が言った。


何を終わらせて、何を選ぶのか決めてこい。


その通りだった。


律に期待してほしいなら。


律を好きじゃなくならないでほしいなら。


律が他の誰かを一番にするのを止めたいなら。


先に、終わらせなければならない。


彼女とのことを。


曖昧なまま、律に手を伸ばしてはいけない。


それをしたら、律はまた傷つく。


彼女も傷つく。


そして悠真は、また自分だけが何も選ばずに済む場所へ逃げることになる。


悠真はスマホを取り出した。


彼女とのトーク画面を開く。


指が震えていた。


でも、今度は消さなかった。


『今日、会いたい』


打つ。


少し迷ってから、続けた。


『ちゃんと話したい』


送信した。


既読はすぐにつかなかった。


悠真は画面を見つめたまま、立っていた。


川の音がする。


遠くで自転車のベルが鳴る。


律の背中はもう見えない。


今すぐ追いかけても、たぶん律は振り返らない。


振り返らせるには、言葉が足りない。


覚悟も足りない。


だから先に、選ばなければならない。


悠真はスマホを握りしめた。


律が自分を好きじゃなくなるまで、待てない。


律が誰かを一番にする未来を、許せない。


その醜い本音は、もう消えない。


でも、それをただ律にぶつけるだけでは駄目だ。


次に律の前に立つ時は、ちゃんと言わなければならない。


俺を好きじゃなくならないで、ではなく。


俺が、お前を好きだと。


悠真は目を閉じた。


その言葉は、まだ少し怖かった。


でも、もう逃げる方がずっと怖かった。



⸻


彼女が指定したのは、大学近くのファミレスだった。


悠真が向かいに座ると、彼女はメニューも開かずに言った。


「早いね」


「……ごめん」


「謝られると、もっと分かる」


彼女は水を一口飲んで、まっすぐ悠真を見た。


「で?」


「律を、選びたい」


言葉にした瞬間、喉が詰まった。


彼女はしばらく黙っていた。それから、小さく笑った。笑うところではないのに。


「早いよね、やっぱり」


「……」


「私、よく考えてって言ったんだけど。二日だよ。二日でそんなにはっきり決まるんだ」


「……」


「私と付き合ってた分は、ちゃんと悩んでくれたの? それとも、律くんの気持ち聞いた瞬間に、もう答え出てた?」


悠真は答えられなかった。答えられないことが、答えだった。


彼女の目が、少しずつ赤くなっていく。


「最低」


「うん」


「うんじゃないよ」


彼女の声が、初めて震えた。


「私、ずっと悠真のこと大事にしてきたつもりだったよ。急に予定変えても、連絡遅くても、機嫌悪くても、ちゃんと理由聞いて、待って。それ全部、ちゃんとした関係だと思ってやってた」


「思ってた」


「思ってた、は過去形なんだ」


彼女は皮肉っぽく笑って、それからすぐに顔を歪めた。


「悔しい」


「……」


「悠真にとって私、律くんの代わりだったの? 律くんが隣にいてくれる間の、埋め合わせだったの?」


「違う」


悠真は初めて、はっきり言った。


「君のことは、ちゃんと好きだった。それは嘘じゃない」


「嘘じゃないのに、律くんを選ぶんだ」


「……うん」


彼女はナプキンを握りしめた。


「じゃあ、好きの大きさの問題じゃないんだ」


「……うん」


「もっと最低」


彼女は目元を拭って、少しの間、何も言わなかった。


「もう、責めても意味ないんだよね」


「……」


「悠真の中で、もう決まってるんだもん」


悠真は何も言えなかった。


「分かった」


彼女は席を立ちながら言った。


「でも、これだけは言わせて」


悠真は顔を上げる。


「悠真、私のこと大事にしようとしてくれてたと思う。それは分かってる」


「うん」


「でもさ、今の話聞いて分かった」


彼女は伝票を手に取りながら、悠真をまっすぐ見た。


「悠真が私を大事にしてたのって、律くんが『彼女を大事にしろよ』って言ったからだよね」


悠真は息を止めた。


「悠真が自分で決めたことって、意外と少ないんだね」


その声は、もう震えていなかった。静かで、だからこそ深く刺さった。


「私を好きだったのも、大事にしてたのも、たぶん嘘じゃない。でも、その正しさを最後に保証してたのは、いつも律くんだった。悠真は、律くんが正しいって言うことを、自分の意思だと思い込んでただけなんじゃないの」


悠真は何も言えなかった。反論する言葉が、一つも見つからなかった。


「それに気づいてなかったんだとしたら、余計にたちが悪いよ」


彼女は小さく息を吐いた。


「しばらく連絡してこないで」


彼女は伝票を持って、振り返らずに店を出ていった。


悠真はしばらく、動けなかった。

**電子書籍化のお知らせ**


『綺麗なままで終わりたかった』を電子書籍化しました!


電子書籍版には、公開済みの本編に加え、書き下ろし4話を収録しています。


**Before『綺麗なままでは始まらない』**

律と悠真が出会い、親友になるまで。


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恋人になった二人の、その後の物語。


二人が始まる前から、始まったその後までを一冊にまとめました。

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