綺麗なままでは終われない 上
綺麗なままで終わりたかったの続編(悠真視点)のお話です。
ガラスの向こうで、律が笑っていた。
いつもみたいに。
けれど、もうこちらには来なかった。
悠真はカフェの前に立ったまま、しばらく動けなかった。
手の中でスマホが震えている。彼女からのメッセージだった。
『今日、何時に会える?』
画面には、何も悪くない文字が並んでいた。今日の予定。会う時間。返事をすればいいだけ。いつも通りに。
それなのに、指が動かなかった。
ガラス越しに、律が佐伯と何か話しているのが見える。佐伯が少し身を乗り出して、律の顔を覗き込む。律は笑って、首を横に振った。大丈夫、と言っているように見えた。
大丈夫。
さっきも言っていた。何も大丈夫じゃない顔で。
胸の奥が詰まった。
律は好きだったと言った。ずっと。それなのに自分は、何も知らなかった。
本当に?
自分に問いかける。本当に、何も気づかなかったのか。
律が夜の電話に出なくなった時。昼飯を断ることが増えた時。部屋に置いていたパーカーを持ち帰った時。律の部屋から自分の荷物が紙袋で戻ってきた時。
あの時、自分は何を思った。
最近忙しそうだな。それだけだった。
律はそういう時期なのだと思った。ゼミが忙しい。バイトがある。新しい友達ができた。自分には彼女がいるし、律だって別の時間があって当然だ。
そう思って、終わらせた。
その全部が、いなくなる準備だったのに。
悠真はスマホを握ったまま、ようやく短く返した。
『ごめん、少し遅れる』
送ってから、また画面を閉じた。彼女に会いに行かなければならない。そう思うのに、足は動かなかった。目の前のカフェから、どうしても離れられない。
律がいる。でももう、自分の隣にはいない。
それだけで、世界の位置が少しずれたような気がした。
⸻
最初におかしいと思ったのは、寝坊が増えたことだった。
冬に入った頃から、悠真はよく一限に遅れそうになった。アラームは鳴っている。止めた記憶もある。でも気づくと二度寝していて、時計を見て飛び起きる。
「やば」
洗面所に駆け込んで、適当に顔を洗う。髪は跳ねたまま。鞄を掴んで部屋を出る。
前なら、律からメッセージが来ていた。
『起きてる?』
『今日一限だろ』
『死んだ?』
それに「うるさい」と返しながら、悠真は起きていた。たまに本当に寝落ちしていても、律が電話を鳴らしてくれた。
「お前、俺の母親?」
「母親は一限の教室まで面倒見ねえよ」
「じゃあ何?」
「ただの善意」
「善意が雑」
そんな会話をしながら、律は缶コーヒーを渡してくれた。眠いならこれ飲め、と。
悠真はそれを、律が面倒見のいいやつだからだと思っていた。律はそういうやつだと。自分にだけじゃなく、誰にでもそうなのだと。
だから、深く考えなかった。最近そのメッセージが来ないことも。それで朝がうまく回らなくなっていることも。全部、自分がだらしないからだと思っていた。
⸻
忘れ物も増えた。
充電器。講義資料。折り畳み傘。提出期限のメモ。
彼女と会う日、映画館の前でスマホの充電が切れかけていることに気づいて、悠真は舌打ちしかけた。
「大丈夫? モバイルバッテリーあるよ」
彼女がそう言ってくれた。
「あ、助かる」
差し出されたバッテリーを受け取りながら、ふと思った。
律なら、朝の時点で言っていた。
「今日、充電やばそうじゃね?」
「なんで分かんの」
「昨日寝落ちしたって言ってたから」
「怖」
「充電しろ」
そんなふうに。
別の日には、急に雨が降った。彼女は小さな傘を持っていた。
「入る?」
「いや、コンビニで買うわ」
「いいよ、途中まで一緒だし」
優しかった。嬉しかった。
でも、その小さな傘の下に入った瞬間、別の記憶が重なった。
律はよく傘を忘れた。悠真も忘れた。二人でずぶ濡れになりながら、コンビニまで走ったことがある。
「天気見ろって言っただろ」
「言った本人が忘れてんじゃん」
「お前が持ってると思って」
「俺も律が持ってると思ってた」
「終わってる」
笑いながら走った。寒くて、靴が濡れて、最悪だったはずなのに、やたら楽しかった。
彼女の傘の下で、悠真はそのことを思い出した。
すぐに打ち消す。比べるものじゃない。彼女は彼女だ。律は律だ。
そう思った。思ったのに、胸の奥に小さな違和感が残った。
⸻
彼女との時間は、楽しかった。それは嘘じゃない。
映画に行った。飯も食べた。夜に連絡を取り合った。彼女はよく笑ったし、悠真の適当なところをちゃんと怒った。その怒り方が可愛いと思った。
好きだと思った。大事にしたいとも思った。
でも、会話のテンポが少しだけ合わない時があった。
別に彼女が悪いわけじゃない。むしろ、悠真の言葉が足りないのだと思う。彼女はちゃんと聞いてくれる。悠真が説明すれば、分かろうとしてくれる。
けれど、律は説明する前に分かることがあった。悠真が言いかけてやめた言葉を、律は勝手に拾った。
「つまり面倒くさいんだろ」
「そこまで言ってない」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てる」
そうやって笑いに変えた。悠真が何かに苛立っている時、律はすぐに分かった。無理に励まさず、コンビニに連れていった。眠い時には放っておいてくれた。くだらない話で気を逸らしてくれた。
あれは、何だったのだろう。
友達だから。長く一緒にいたから。そう思っていた。
でも今考えると、律が合わせてくれていたのかもしれない。悠真が何も言わなくても回るように。悠真が不機嫌になる前に。悠真が忘れる前に。悠真がひとりで詰まる前に。
少しずつ、律が日常の歯車を噛ませてくれていた。それが外れて、ようやく違和感として出てきた。
でも、その時の悠真はまだ気づかなかった。
最近なんか調子悪い。律と遊べてないから、少し寂しいのかも。その程度にしか思わなかった。
でも彼女といるのは楽しい。だから大丈夫だろう。
そうやって、また流した。
⸻
クリスマスは彼女と過ごした。年末年始も予定が埋まっていた。律とは会わなかった。
一度だけ、年明けに連絡した。
『年明け飲もうぜ』
返事は少し遅れて来た。
『予定あるわ、ごめん』
悠真は画面を見て、少しだけ眉を寄せた。
予定。律に予定があるのは当然だ。ゼミもあるし、バイトもあるし、新しい友人もいる。
けれど、少し前なら、予定があっても「じゃあ何日なら空いてる」と返ってきた。今回は、それがなかった。
少し引っかかった。でも、年末年始だし。誰でも忙しい。イベントが落ち着いたら会えるだろう。
そう思った。
律はいつでも会える。いつでも戻れる。そう思っていた。
⸻
春になった。新学期の履修登録の時期になって、悠真はようやく気づいた。
律から、履修の話を聞いていない。
毎年、なんとなく二人で時間割を組んでいた。同じ講義を取って、空きコマを合わせて、昼を食べるタイミングを決める。約束していたわけではない。でも、そうなるものだと思っていた。
悠真はスマホを開いた。
『履修どうした?』
少しして、律から返事が来た。
『もう決めちゃったよ』
悠真は眉を寄せた。
『え、一緒のやつは?』
『んー、お前と俺の三年からの専攻違うだろ』
『去年とは違うよ。ゼミもあるしさー』
悠真は画面を見つめた。
専攻が違う。それは事実だった。でも去年までは、それでも被る講義を探していた。昼が合うように空きコマを調整していた。
いや。調整していたのは誰だった?
自分ではない。律だった。
『彼女に聞いてみたら? 一緒に受けた方が楽しいかもよ』
律から、軽い文面が届く。
悠真はしばらく返信できなかった。
なんでそこで彼女が出てくるんだよ。
そう思った。けれど、その言葉は送らなかった。
『そうかな。そうだ、とりあえず今日ランチ行こうぜ』
送る。返事はすぐに来た。
『あ、ごめん。友達と約束してて』
胸が、少しだけざらついた。
『え、誰?』
『あー悠真知らないかも、ゼミのやつだからさ』
『もう時間だ。またなー』
悠真は画面を見つめた。
またなー。
軽い。軽すぎる。律の文面はいつも軽い。昔からそうだった。でも、前の軽さとは少し違う気がした。
前は、次がある軽さだった。今は、終わらせるための軽さに見えた。
そこまで思って、悠真は自分で首を振った。
考えすぎだ。律にも友達くらいいる。自分だって彼女がいる。律が自分以外と昼を食べることに、何を引っかかっているんだ。
そう思った。
そう思ったのに、胸のざらつきは消えなかった。
⸻
それから数日、律とは会えなかった。講義も被らない。昼も合わない。夜に連絡しても、返事は遅い。
『ごめん、寝てた』
『課題やってた』
『ゼミのやつといる』
そのたびに、悠真は短く返す。
『そっか』
『また今度な』
また今度。
その言葉を自分が送る側になるとは、思っていなかった。
律から来る「また今度」は軽かった。でも、自分が送る「また今度」は少し重かった。
今度って、いつだよ。
そう思った。思ってから、また自分で打ち消した。
忙しいだけ。タイミングが合わないだけ。律は律だ。いなくなったわけじゃない。
そう思っていた。
⸻
そして、駅前のカフェで律を見つけた。
ガラスの向こうで、律が笑っていた。知らない男と。佐伯というらしい男と。
そいつが何かを言って、律が肩を揺らして笑った。佐伯が律の肩に腕を回す。近い。律は嫌がっていない。笑いながら肘で小突き返している。
そこ、俺の場所じゃん。
声には出していない。出していないのに、もう遅かった。
気づいたら、カフェのドアに手をかけていた。
ドアベルが鳴る。律が顔を上げた。
「あれ、悠真」
普通の声だった。それが余計に嫌だった。
悠真は律の向かいにいる男を見た。
「……誰?」
律が少しだけ眉を上げる。
「同じゼミの佐伯。最近よく一緒にいる」
「へえ」
声が硬くなった。
佐伯が軽く会釈する。
「どうも。いつも律から話聞いてます」
いつも。
その言葉が胸に刺さった。俺の知らないところで。俺の話を。俺の知らないやつに。
「律、ちょっといい?」
律は数秒だけ悠真を見た。それから、佐伯に「ごめん」と言って立ち上がった。
⸻
カフェの外に出ると、夕方の風が湿っていた。駅前の人混みがうるさい。けれど悠真には、自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえた。
「最近、何してんの」
律が首を傾げる。
「何って?」
「全然連絡返さないし、飯も来ないし、ああいう知らないやつといるし」
「知らないやつって。俺の友達だけど」
「俺、呼ばれてない」
言ってから、悠真は自分の言葉に詰まった。何を言っているのか、自分でも分からなかった。
律は黙っていた。その沈黙が、余計に苦しかった。
「お前、最近変だよ」
「そう?」
「避けてるだろ」
「避けてないよ」
「じゃあ何なんだよ」
律は少し笑った。いつもの笑顔だった。でも、少し遠かった。
しばらく黙っていた。駅前の人混みが二人の間を流れていく。知らない誰かの笑い声。車の音。店のドアベル。
その全部が遠くなった頃、律が口を開いた。
「俺、バイっぽくてさ」
悠真は一瞬、言葉の意味を受け取れなかった。
「……は?」
「だから言いたくなかったんだよ。気持ち悪いだろ」
「気持ち悪くない」
「即答すんなよ」
「即答するだろ、そんなの」
律は少し笑った。
「まあ、結果な」
それだけ言って、少し間を置いた。
「でもお前幸せそうだし。バイの友達が前みたいにベタベタ近くにいるの、普通に怖いだろ。それに俺がいなくなっても気づいてなかったし」
悠真は何も言えなかった。
「だから、このまま気づかないふりしてくれよ。俺も何もなかったみたいにするから」
「は?」
「いやだ」
「……なんで」
「お前がバイでも友達じゃん」
律は少しだけ笑みを消した。
「友達じゃないよ」
「え」
「俺、お前のこと好きだもん」
悠真は黙った。
律は続けた。声は静かだった。
「だからもう、そばにはいれない」
「は?」
悠真の声がわずかに裂けた。
「ふざけてる?」
「ふざけてないよ」
律はやっと悠真の方を向いた。
「お前が悪いんじゃない。俺がおかしいだけ」
「おかしくない」
「そういうことじゃない」
律は息を吐いた。
「俺はそこにはいけそうにない」
「……そこ?」
「お前の彼女を大事にして、俺とも今まで通りで、たまに飯食って、くだらない話して、何も変わらない顔で隣にいる場所」
律は、少しだけ笑った。
「そういう友達の場所。俺、そこにはもういけない」
「……佐伯は」
悠真が言った。
律は面食らって、悠真を見た。
「佐伯が、何」
「あそこ、俺の席だったろ」
「は?」
「彼女大事にしろって、お前が言ったんだろ。なのに、俺の代わりみたいに佐伯があそこに座ってるんだったら、それ何なんだよ」
律は瞬きをした。
「替えてなんかないよ」
「じゃあ何だよ。俺のこと好きだって言ったくせに、俺に彼女ができたから、今度は佐伯と座るのかよ」
「そういうことじゃ」
「じゃあどういうことだよ」
悠真の声が、初めて震えた。怒っているのか、ただ焦っているのか、悠真自身にも分かっていないような声だった。
律は、その声に少しだけ怯んだ。
「俺の場所に、勝手に誰か座らせんなよ」
言ってから、喉の奥が変な感じがした。
何を言ってるんだ、俺は。
律が黙る。困ったような顔をしている。今の自分の言葉は、律が今言ったことに、まるで噛み合っていない。律の告白より先に、佐伯の話をしている。
おかしい。分かっているのに、他に言葉が出てこなかった。
律は続けた。
「お前が彼女の話するの、最初は聞けたんだよ。嬉しそうだったし、よかったなって思った。ほんとに」
嘘ではなさそうだった。だから余計に、何も言えなかった。
「でも、だんだん無理になった。彼女の好きなところ、聞きたくなかった。お前が彼女優先するの、悲しかった。でも、お前が悲しむのはもっと嫌だった」
だから笑ってた。
律は、そう続けた。
「俺、けっこう頑張ったよ」
その言葉が、悠真の胸を深く刺した。
知らなかった。律が笑っていたから。いつも通り茶化していたから。「行ってこいよ」と言っていたから。大丈夫なのだと思っていた。
でも違った。律は、大丈夫なふりをしていただけだった。
「だからさ」
律が言った。
「お前が悪いとかじゃないの」
悠真は顔を上げた。
律は笑っていた。今まで見た中で、一番苦しそうに。それでも、一番綺麗に。
「綺麗なままで終わりたかったんだ」
その瞬間、悠真は何も言えなくなった。
律が守っていたものが、ようやく分かった気がした。悠真との時間。二人で笑った記憶。くだらない夜。名前を呼べば振り返る距離。たしかに特別だった日々。
それを、憎しみで汚したくなかったのだ。彼女を嫌いになって。悠真を責めて。自分を惨めにして。そんなふうに壊れる前に、律はひとりで終わらせようとしていた。
「すぐには無理かもしれないけど、いつかまた遊ぼうな」
律が軽く手を上げた。
「佐伯待ってるし」
「待って」
悠真は反射的に言った。
律が振り返る。
「何」
何、と聞かれて、悠真は言葉に詰まった。
行くな。戻ってこい。俺の隣にいろ。
どれも、喉の途中で止まった。今の自分が言えば、ただ図々しいだけだと思った。
律は少しだけ眉を下げた。
「またいつか遊びいこうな?」
いつもの声だった。でも、それがもう“いつも”には戻らない合図だと分かった。
律はカフェへ戻っていく。
ガラスの向こうで、佐伯が顔を上げる。律が何かを言う。佐伯が笑って、律の肩を軽く叩く。
そこは、悠真が何度もいた場所だった。けれど今は、違う誰かがいる。
悠真はその場に立ったまま、ようやく思った。
律がいなくなったんじゃない。俺が、律を見ていなかったんだ。
⸻
彼女には、体調が悪いと連絡した。嘘だった。でも、今から会って普通に笑える気がしなかった。
返事はすぐに来た。
『大丈夫? 無理しないで』
優しい言葉だった。胸が痛んだ。律のことを考えている自分に、彼女は何も知らずに優しい。
悠真は短く返した。
『ごめん。今日は帰る』
そのまま、部屋に戻った。電気をつけた瞬間、部屋がやけに広く見えた。
何かが足りない。最初は分からなかった。
鞄を床に置いて、ベッドに腰を下ろして、それから気づいた。
椅子の背に掛かっていた律のパーカーがない。少し前まで、そこにあった。律が泊まった時に置いていって、「また来るし置いとく」と言っていたやつだ。
悠真は立ち上がって、クローゼットを開けた。ない。洗濯かごにもない。ベッドの下にもない。
当たり前だ。律が持って帰った。
『これ、そろそろ洗うわ』
あの時、悠真は何と言った。
『別に置いとけばいいのに』
軽く言った。本当に軽く。
律は何と返した。
『いや、着る服なくて』
笑っていた。いつもの顔で。あれも、準備だった。
悠真は机の横に置きっぱなしになっていた紙袋を見た。律が持ってきた紙袋。後で見といて、と言われたまま、ちゃんと見ていなかった。
近づいて、中を覗く。漫画。充電器。パーカー。古いプリント。律の部屋に置きっぱなしにしていた、自分のもの。
全部、ここにある。つまり、もう律の部屋にはない。悠真のものは、律の部屋にない。そして、律のものも、この部屋にない。
ゆっくり部屋を見回した。前は、あちこちに律の気配があった。椅子の背のパーカー。本棚に混ざった漫画。洗面所の使いかけのワックス。キッチンに置きっぱなしだったマグカップ。
全部、ない。
律は、ちゃんと消えていた。少しずつ。悠真が気づかないうちに。悠真の部屋から。悠真の時間から。悠真の日常から。
悠真は紙袋の前にしゃがみ込んだ。胸の奥が冷たかった。
綺麗なままで終わりたかった。律はそう言った。
でも、悠真はもう、綺麗に終わらせられそうになかった。
律が他の誰かと笑う顔が、頭から離れない。佐伯の腕が、律の肩に回る光景が消えない。
そこは俺の場所じゃん。
その言葉が、何度も胸の中で響く。恋人がいるのは自分なのに。律を見ていなかったのは自分なのに。隣にいて当たり前だと思っていたのは自分なのに。
それでも、思ってしまった。
戻ってこい。俺の隣に。
悠真は紙袋の中から、古い充電器を取り出した。律の部屋で何度も使ったものだった。もう必要ないはずのものだった。それなのに、手放せなかった。
部屋の中に、律はいない。律のものもない。あるのは、律が返してきた悠真のものだけだった。
返された。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。律は、自分を返してきたのだ。悠真のものを全部、悠真へ戻して。自分のものを全部、悠真の部屋から持っていって。
もう、混ざっていない。もう、行き来しない。もう、前みたいには戻れない。
悠真は紙袋を抱えたまま、床に座り込んだ。
スマホが震える。彼女からだった。
『ちゃんと休んでね』
優しい。大事にしなければならない人。そう思う。
思うのに、頭の中にいるのは律だった。ガラス越しに笑っていた律。佐伯の隣にいた律。苦しそうに笑って、「綺麗なままで終わりたかった」と言った律。
悠真はスマホを伏せた。目を閉じる。
部屋は静かだった。静かすぎて、律がいないことだけがよく分かった。
綺麗なままで終わりたかった。律はそう言った。
でも悠真は、思った。
終わらせたくない。たとえ、もう綺麗じゃなくても。
⸻
翌日の昼休み、大学近くの小さな公園で彼女と会った。雨上がりで、ベンチの端が少し濡れていた。彼女は柵にもたれてスマホを見ていたが、悠真に気づくと少しだけ笑った。
「顔色悪いね」
「寝てない」
「だろうね」
その言い方に、胸が痛む。責める声ではなかった。ただ、分かっていたみたいな声だった。
「話って?」
悠真は一度、息を吸った。
「律のことなんだけど」
彼女の表情が、少しだけ変わった。
「うん」
「昨日、律と話した。律が、俺のこと好きだったって言った」
彼女は一瞬、意味を掴めていないような顔をした。
「……律くんが? 悠真のことを?」
「うん」
沈黙があった。彼女は視線を落として、少し考えるような間を置いてから、また悠真を見た。
「それって、友達としてって意味じゃなくて?」
「たぶん、違う」
彼女はもう一度黙った。今度の沈黙は、さっきより長かった。
悠真は彼女の顔から、何かが一瞬だけ強張るのを見た。すぐに消えたけれど、見えてしまった。
「ごめん、ちょっと、上手く整理できてない」
彼女は小さく笑おうとして、失敗した。
「律くんが男の人を好きになるとか、そういうこと自体、あんまり考えたことなくて。それが悠真だっていうのも」
「うん」
「変なこと言ってたらごめん。責めてるわけじゃない、ただ、頭が追いついてない」
悠真は何も言えなかった。彼女が悪いとは思わなかった。ただ、自分がその戸惑いを一緒に持ってあげることもできない立場だと分かっていた。
「それで?」
少しして、彼女は続けた。
「悠真は、どう思ったの」
「……分からない」
言ってから、卑怯だと思った。でも、本当に分からなかった。
「ただ、律が佐伯ってやつと笑ってるのを見て、嫌だった」
「佐伯?」
「律のゼミの友達。そいつが律の肩に腕回してて。律も嫌がってなくて」
声が少し低くなる。
「そこ、俺の場所だと思った」
彼女はしばらく悠真を見ていた。責めるのとも、悲しむのとも違う、探るような目だった。
「なんで悠真が、そんな顔するの」
「……」
「彼女は私でしょ」
その通りだった。何も言い返せなかった。
「律くんに告白されて、悠真は困ってる。でも、律くんが別の人と笑ってるのを見て、悠真は傷ついてる。それ、順番おかしくない?」
悠真は視線を落とした。
「分からない」
「分からないって、悠真の中で起きてることでしょ」
彼女の声が、少し尖った。
「ちゃんと言って。何がどう嫌だったの」
悠真は言葉を探した。
「律が、俺の知らないところで、俺の知らない誰かと……仲良くしてるのが、嫌だった」
「それ」
彼女は一拍置いて、声を落とした。
「それ、嫉妬じゃん」
「……」
「悠真、律くんのこと好きだったの?」
「違う」
反射的に出た。でも、彼女の顔は変わらなかった。
「今の、律くんが好きだったって言われて焦った顔じゃなかったよ。律くんが誰かのものになりかけてることに焦った顔だった」
「……」
「じゃあ私は何なの」
声が震えていた。怒っているのか、傷ついているのか、彼女自身にもまだ整理がついていないような震え方だった。
「私と付き合って、律くんの話するとき楽しそうで、私といるときも楽しそうで。それ、両方本当だと思ってた。でも今の話聞いてたら、律くんがいなくなりそうになった瞬間の方が、悠真、必死じゃん」
「そうじゃなくて」
「なにが、そうじゃなくて、なの」
彼女の声が大きくなる。公園の隅で、子どもの声がぴたりと止んだ。
悠真は続けた。何か言わなければ、もっと悪くなる気がした。
「律が言ったんだよ。お前は彼女を大事にしろって。俺は、それ守ってただけで。それなのに、あいつは勝手にいなくなった」
彼女は一瞬、言葉に詰まった。それから、笑うでも泣くでもない、変な顔をした。
「は?」
「……」
「恋人と向き合うことに、律くんは関係ないじゃん」
彼女の声から、少しずつ体温が抜けていくのが分かった。
「悠真、律くんに言われたからちゃんとしてたの? 私のこと大事にしてたのって、律くんのアドバイス通りにしてただけ?」
「そうじゃない」
「今のだと、そう聞こえるけど」
悠真は何も言えなかった。言えば言うほど、悪くなっている気がした。
「もういい」
彼女は目元を拭って、少し声のトーンを落とした。
「悠真がどう思ってるかは、悠真にも分かってないんだと思う。でも、少なくとも私に対する好きと、律くんがいなくなることへの反応は、多分、種類が違う」
それだけ言って、彼女は視線を逸らした。
「でも、話してくれたのはよかったと思う。だから、よく考えて」
彼女はまた悠真を見た。今度は少し落ち着いた目だった。
「どっちを選んでも、悠真が悪者になる必要はないと思う。でも、どっちも失いたくないから曖昧にしたら、多分みんな傷つく。私も、律くんも、悠真も」
彼女の言葉は、静かに胸に入ってきた。悠真は頷くしかなかった。
「ごめん」
「謝罪は受け取る」
彼女は静かに言った。
「でも、謝ったあとにどうするかは別。悠真は優しいところあるけど、たぶん優しいままで全部持とうとするところがある。私を傷つけたくない。律くんも傷つけたくない。自分も誰かを傷つける人間になりたくない。そう思ってるんだと思う」
「……」
「でも、誰も傷つけない選択肢はもうないよ。だから、傷つけない選択じゃなくて、ちゃんと責任を持てる選択をして」
悠真は深く息を吸った。胸が苦しい。でも、その苦しさは必要なものだった。
「時間、もらってもいい?」
彼女は頷いた。
「うん。よく考えて」
「ごめん」
「うん。でも、待たせすぎないで」
「分かった」
少し沈黙があった。それから彼女は立ち上がった。
「今日は帰るね」
「送る」
「今日はいい」
やんわりと拒まれた。悠真はそれ以上言えなかった。
「分かった」
彼女は数歩歩いて、振り返った。
「悠真」
「うん」
「私は、悠真のこと好きだよ」
胸が痛んだ。
「だからこそ、半分だけこっちにいるみたいなのは嫌。ちゃんと考えて。私を選ぶなら私だけを見て。律くんを選ぶなら、ちゃんと私を終わらせて」
悠真は頷いた。
「分かった」
彼女は少しだけ笑った。
「じゃあね」
去っていく背中を、悠真は黙って見送った。足が動かなかった。追いかけたら、また何か、彼女に押しつけてしまう気がした。
⸻
公園には、雨上がりの匂いが残っていた。
悠真はベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。彼女の言葉が、何度も頭の中で響く。
結局、悠真はどうしたいの? どちらもはもう無理だと思うよ。よく考えて。
分かっている。どちらも失いたくない。それが一番正直な気持ちだった。でも、それは選択ではない。ただの欲だ。
彼女には申し訳ない。傷つけた。ちゃんと向き合わなければいけない。
そう思った。思ったのに。次に浮かんだのは、彼女の顔ではなかった。
律だった。
律が佐伯と笑っている顔。肩を組まれて、嫌がらずに笑っていた顔。綺麗なままで終わりたかった、と言った顔。
律は逃げる。悠真が考えている間に、律は自分の気持ちを整理する。好きだったことを過去にして、友達に戻れる形に畳んでしまう。佐伯たちと昼を食べる。佐伯たちと課題をする。佐伯たちと笑う。そのうち、夜の電話もするかもしれない。映画も行くかもしれない。律の部屋に、佐伯の荷物が置かれるかもしれない。悠真が返された紙袋の代わりに、今度は佐伯のものが律の部屋に混ざるのかもしれない。
そう想像した瞬間、胸の奥がどろりと濁った。
嫌だ。喉の奥まで、黒いものがせり上がる。
彼女に対する罪悪感とは違う。これは、もっと汚い。律が他の誰かの横で笑うのが嫌だ。自分の知らない時間を増やすのが嫌だ。自分に向けていた好きだった気持ちを、整理して、畳んで、別の誰かに渡すのが嫌だ。
おかしい。分かっている。自分にはそんなことを思う資格はない。律を放っておいたのは自分だ。律を笑わせたまま苦しませたのも自分だ。彼女の話を聞かせ続けたのも自分だ。
それでも、思ってしまった。
俺のなのに。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、悠真は息を止めた。
俺の。何を言っているんだ。律は物じゃない。恋人でもない。自分は律を選んですらいなかった。選ばなかったくせに、失いそうになってから「俺の」なんて、あまりにも醜い。
でも、その醜さは消えなかった。
律は俺のことが好きだった。ずっと。それなのに、他のやつを好きになるのか。俺のことを好きだったくせに。俺が気づかなかった間に、勝手に諦めて。勝手に離れて。勝手に大丈夫なふりをして。勝手に俺の知らない誰かと笑って。
そのうち、本当に俺じゃない誰かのものになるのか。
悠真は膝の上で拳を握った。
違う。律は誰のものでもない。
そう思おうとした。けれど、すぐに別の声が返ってくる。
じゃあ、佐伯の隣に行くのを見ていられるのか。夜に電話をしても、「ごめん、今ちょっと無理」と言われる。映画に誘っても、「佐伯たちと行く予定ある」と言われる。課題を一緒にやろうとしても、「もう終わった」と言われる。学食で会っても、「また今度な」と笑って通り過ぎる。たまに会って、挨拶だけする。元気? 最近どう? また今度飯でも行こうな。そんな距離になる。
律の生活に、自分はもう入れない。律の隣で笑うのは、俺じゃない。
悠真はその未来を想像して、喉の奥が冷たくなった。
無理だ。
彼女に言われた時は、ちゃんと考えようと思った。誰を傷つけるのか。何を失うのか。どんな責任を取るのか。
でも今、悠真の中で一番強く鳴っているのは、そんな綺麗な問いではなかった。
律に逃げられる。
それだけだった。
スマホを握ったまま、しばらく動けなかった。律のトーク画面を開いている。最後に交わした言葉が、画面の上に残っていた。軽い文面。いつもみたいな、何でもない言葉。けれど、その向こう側で律が少しずつ遠ざかっていることを、もう知らないふりはできなかった。
律は待ってほしいのだと思う。悠真が答えを出すまでではない。律自身が、悠真を好きじゃなくなるまで。悠真の名前を見ても胸が痛まなくなって、悠真の彼女の話を聞いても笑えるようになって、悠真と二人で飯を食っても何も期待しなくなるまで。
そうなれば、また会える。また友達に戻れる。律はきっと、そう思っている。
でも。その時の律は、もう今までの律ではない。悠真の電話にすぐ出る律ではない。朝、何気なく起こしてくれる律ではない。昼飯を当たり前みたいに一緒に食べる律ではない。履修を合わせて、空きコマを合わせて、部屋に荷物を置き合って、約束しなくても隣にいた律ではない。
たまに会う。たまに飯に行く。たまに遊ぶ。近況を聞いて、笑って、またなと言って別れる。律はきっと、それができるようになる。悠真を好きじゃなくなった律は、ちゃんと友達になれる。
そしてたぶん、いつか別の誰かを好きになる。律を一番にしてくれる誰かを見つける。律も、そいつを一番にする。そいつの予定を優先して、そいつの電話に出て、そいつの部屋に行って、そいつの隣で眠るのかもしれない。そいつの忘れ物を覚えて。そいつの朝を気にして。そいつの笑う顔を、一番近くで見るようになるのかもしれない。
その未来を想像した瞬間、喉の奥が冷たくなった。
無理だ。そんなのは無理だ。
彼女の言葉が頭をよぎる。
――どちらもはもう無理だと思うよ。
分かっている。分かっているのに、胸の中で別の声がする。
律は俺のことが好きだった。ずっと。それなのに。俺のことを好きじゃなくなって、別の誰かを一番にするのか。俺の知らないところで、俺じゃない誰かに救われるのか。俺が見ていなかった間に苦しんで、俺が気づいた時にはもう、俺のいない場所へ行こうとしているのか。
勝手だ。そう思う自分が、一番勝手だ。
律は何も悪くない。むしろ、律はずっと我慢していた。悠真が彼女の話をしても笑っていた。行ってこいよと言った。楽しんできなよと言った。よかったじゃんと、何度も言った。そのたびに、律は自分の中の何かを少しずつ削っていたのだと思う。
だから律には、離れる権利がある。悠真を好きじゃなくなる権利がある。自分を一番にしてくれる誰かを探す権利がある。その誰かを、一番にする権利がある。
全部、分かっている。それでも、嫌だった。
悠真はスマホの画面を見つめた。指先が震えている。律に何を送るべきなのか、分からなかった。
謝りたい。会いたい。話したい。待ってほしい。
でも、待ってほしいと言うのは違う気がした。律が待ってほしいと言っているのだ。自分の気持ちが終わるまで。悠真のことを一番にしなくなるまで。それなのに悠真は、その時間を与えたくないと思っている。
最低だ。
最低でもいいと、思ってしまった。律が悠真を好きじゃなくなるより、ずっといい。
悠真は息を吸った。胸の中の黒いものを、もう否定できなかった。
律が自分を好きじゃなくなるのを、待てない。律が他の誰かを一番にするのを、見ていられない。律が大丈夫になるのが嫌だ。自分のいないところで、律がちゃんと幸せになっていくのが嫌だ。
そんなふうに思う資格はない。でも、思ってしまった。
悠真は文字を打った。
『会いたい』
送信してから、心臓がうるさくなった。既読はすぐにつかなかった。一分。二分。三分。たったそれだけで、律がもう遠くへ行ってしまったような気がした。
ようやく既読がつく。少しして、返事が来た。
『しばらくは無理かな』
胸の奥が冷えた。無理。その二文字だけで、息が詰まる。
悠真はすぐに打った。
『なんで?』
返事は少し遅れた。
『気持ちの整理、まだつかないから』
気持ちの整理。律はもう、整理しようとしている。悠真への好きも。苦しかった時間も。期待も。未練も。全部、友達に戻れる形に畳もうとしている。
つけなくていい。反射的に、そう思った。整理なんてしなくていい。俺のいないところで、俺への気持ちを終わらせるな。
悠真は震える指で打った。
『つけなくていい』
送ってから、すぐに続ける。
『つける前に、俺の話聞いてからにして』
既読がつく。返事は来ない。悠真は画面を見つめ続けた。
重い。分かっている。自分勝手だ。それも分かっている。律には逃げる権利がある。気持ちを整理する権利もある。悠真を過去にする権利だってある。
それでも、嫌だった。
しばらくして、律から返事が来た。
『何それ』
悠真は短く返した。
『そのまま』
『整理する前に会って』
『俺の話を聞いて』
また沈黙。次の返事は、さらに遅かった。
『会ったらまた期待する』
悠真の喉が詰まった。
律はまだ、期待する。それを、自分で分かっている。だから会いたくないのだ。だから逃げようとしているのだ。もう期待しないで済むところまで、自分を連れていこうとしている。
悠真は画面を見つめたまま、打った。
『期待して』
送ってから、自分でも息を呑んだ。でも、消せない。もう送った。続けて打つ。
『期待させるような話をする』
既読がついてから、返事まで長かった。長すぎて、悠真は何度も画面を閉じかけた。
ようやく届いたのは、短い一文だった。
『ずるい』
悠真は目を閉じた。喉の奥が焼けるように熱かった。ずるい。最低だ。でも、もう綺麗なふりはできなかった。
『うん』
『でも会いたい』
律からの返事は、なかなか来なかった。数分後、ようやく届いた。
『明日なら少しだけ』
悠真は息を吐いた。許されたわけじゃない。選ばれたわけでもない。でも、律はまだ逃げ切っていない。
『行く』
悠真は送った。
『ちゃんと話す』
律からの返事は、
『うん』
だけだった。たった二文字。悠真は、その二文字を何度も見た。
彼女との関係は、まだ終わっていない。律との関係も、まだ何も始まっていない。それでも、もう昔には戻れない。綺麗なままでは終われなかった。汚い感情も、醜い所有欲も、自分勝手な焦りも、全部露わになった。
悠真はスマホを握りしめた。明日、律に会う。その前に、自分は何を考えなければいけないのか。
彼女の言葉がまた浮かぶ。
よく考えて。
悠真は目を閉じた。
考える。でも、それはもう、答えを先延ばしにするためじゃない。律に逃げられる前に、自分の中のものに名前をつけるためだった。




