綺麗なままで終わりたかった
悠真に恋人ができた。
聞いた瞬間、律はちゃんと笑えた。
「まじで?」
学食は昼休みの真ん中で、どこもかしこも騒がしかった。椅子の脚が床を擦る音。トレーを置く音。誰かの笑い声。ざわざわした音の中で、悠真だけが少し照れくさそうに箸を持ったまま視線を落としていた。
「うん。まあ、付き合うことになった」
「へえ」
律は頷いた。
「よかったじゃん」
その言葉は、思っていたより自然に出た。自然すぎて、自分でも少し驚いた。
悠真はほっとしたように笑った。
その顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。けれど、それ以上に、よかった、とも思った。
好きなやつが幸せそうにしている。それはきっと、嬉しいことのはずだった。
「どんな子?」
律は自分から聞いた。聞かなければよかった、とすぐに思った。
悠真は少し考えてから、柔らかい顔をした。
「よく笑う子。あと、意外としっかりしてる。俺が適当なこと言うとすぐ怒るんだけどさ」
「へえ」
「でも、その怒り方がなんか可愛いんだよな」
「惚気かよ」
律は肩で笑った。
笑えた。
まだ、この時は。
「いや、そういうんじゃなくて」
「いや完全にそういうやつだろ」
悠真が耳を赤くする。
律はそれを見て、口の端だけで笑い返した。
胸の奥で、何かが小さく崩れた音がした。
でも崩れたものは見えない。誰にも聞こえない。だから、なかったことにできる。
律は味噌汁を飲んだ。味はしなかった。
⸻
大学に入ってから、悠真とはずっと一緒だった。
同じ講義を取って、同じタイミングで昼を食べて、課題を一緒にやって、夜遅くまでくだらない動画を見て笑った。約束しなくても隣にいた。連絡しなくても会えた。
財布を忘れたらどちらかが払ったし、眠そうにしていたら缶コーヒーを買って渡した。
悠真は寝起きが悪い。課題の締切を忘れる。折り畳み傘を持つ習慣がない。プリントをどこにしまったかすぐ分からなくなる。
律はそれを、いつの間にか覚えていた。覚えていないと、落ち着かなかった。
一限の朝には雑にメッセージを送った。
『起きてる?』
『今日一限だろ』
『死んだ?』
悠真からは、たいてい少し遅れて返事が来た。
『うるさい』
それを見るのが、少し好きだった。自分でも、少し重いと思う好きさだった。
雨予報の日には、悠真に言った。
「今日降るぞ」
「まじ?」
「天気予報くらい見ろ」
「律が見てるからいいだろ」
「よくない」
そう言いながら、結局、折り畳み傘を鞄に入れる。
提出物の締切が近い時も、何気なく言った。
「今日までじゃなかった?」
「何が?」
「レポート」
「あ」
「お前さあ」
悠真が焦って、律が呆れる。そんなやり取りが、日常だった。
お互いの部屋にも何度も行った。律のパーカーは悠真の部屋に一枚置きっぱなしになっていたし、悠真の漫画は律の本棚に混ざっていた。充電器も、片方の家に置いたままになっていることがよくあった。
どちらの部屋にも、相手のものが少しずつあった。それが、なんとなく嬉しかった。
特別だと思っていた。恋人じゃない。でも、ただの友達とも少し違う。
そう思っていたのは、たぶん律だけだった。
いつからだろう、と律はよく考えた。どこかに明確な瞬間があったわけじゃない。最初から好きだったとも言いにくいし、ある日突然気づいたとも少し違う。
気がついたら、悠真がいない時間が手持ち無沙汰で、悠真の笑う顔を見ると安心して、悠真に「また明日」と言われるたびにほっとしていた。それを「好き」と呼ぶのだと気づいた時には、もう手遅れだった。
男が男を好きになることへの戸惑いより、悠真を好きだという事実の重さの方が先にきた。
どうしようもなかった。ただ、好きだった。
でも言えるわけがなかった。
引かれるかもしれない。気持ち悪いと思われるかもしれない。今まで通りの顔で隣にいられなくなるかもしれない。
その可能性を考えるだけで、喉が塞がる気がした。
だから言わなかった。ただそれだけだった。
悠真のためとか、関係を守りたかったとか、そういう綺麗な理由じゃない。怖かっただけだ。今のままでいいことにしてしまえば、何も選ばなくて済むと思っていた。
だから、なかったことにしてきた。自分の中の、その感情に名前をつけないようにしてきた。
⸻
悠真に恋人ができた、という事実は、その戦略を根本から崩した。
名前をつけなければ存在しないはずだったのに、彼女という言葉が出た途端、律の中のそれははっきりと輪郭を持った。
これは、好きだ。俺は、悠真のことが好きだ。だから今、こんなに胸が痛い。
学食のざわめきの中で、律は平然と箸を動かしながら、内側で静かに認めた。認めたところで、何も変わらない。
悠真には彼女がいる。俺は友達だ。笑っていれば、それでいい。
⸻
「今日、あいつと飯行くから」
ある日の講義終わり、悠真がそう言った。
律は鞄を肩にかけながら、「ああ」と頷いた。
「行ってこいよ」
「悪いな。明日昼一緒に食おうぜ」
「おう」
明日。
その言葉だけで、少し救われた気がした。
悠真の背中を見送りながら、律は自分が「行ってこいよ」と言えたことに、うっすら感心した。声は震えなかった。表情も崩れなかった。
廊下を歩きながら、律は考える。
これはなんの練習だろう。
笑顔の練習。見送りの練習。好きな人が好きな人のところへ行くのを、当たり前みたいに受け入れる練習。
どれだけやっても、上手くなった気がしないのに、下手にもなれない。ただ、慣れていくだけだった。
⸻
悠真からの相談が来るようになったのは、付き合ってから一ヶ月ほど経った頃だった。
図書館の前のベンチで、二人でコンビニのコーヒーを飲んでいた。
「なんか昨日ちょっと揉めてさ」
「どうした」
「俺が連絡遅くてキレられた。でも、授業中だったし、すぐ返せないじゃん」
「まあそれはしょうがないな」
「だろ。でもあいつはそれが嫌だって。こまめに連絡ほしいって。俺、そういうの苦手で」
律は頷いた。
知ってる、と思った。
悠真がこまめな連絡を嫌がることは、一緒にいてすぐ分かった。既読がついても返信は遅い。でも会いたい時はすぐ連絡してくる。
そのバランスが、自分にだけ向いていると思っていた頃のことを、律は思い出さないようにした。
「どうしたらいいと思う?」
「こまめに連絡しろ」
「それができないから困ってんだろ」
「じゃあ、苦手なのに頑張ってますって伝えろ。努力の報告は気持ちが伝わる」
悠真が黙る。
「……なんか、お前そういうとこ意外と真剣だよな」
「相談されたら真剣に答えるだろ普通」
「俺の恋愛相談に乗れるもんなんだな」
律はコーヒーを飲んだ。
「なんで乗れないと思うんだよ」
「いや、お前あんまり興味なさそうだから」
興味がない。
そうか、俺はそう見えているんだ、と律は思った。
大アリだよ。誰の話だと思ってんだよ。
喉の奥でそう返しながら、律はベンチの足元を見た。
「まあ、ちゃんと話し合えよ。せっかく付き合ったんだから」
「そうだな。……ありがとな」
「別に」
悠真が隣で息を吐く。その横顔を、律はちらりと見た。
見なければよかった、と思いながら、見てしまう。これも、もう癖になっている。
⸻
三ヶ月ほど経った頃、今度は悠真が深刻な顔で話しかけてきた。
「ちょっと聞いてほしいんだけど」
ゼミの後の空き教室で、二人だけだった。
律は鞄を置いて、椅子を引いた。
「何」
「あいつさ、最近なんか余裕なくて。就活のこと気にしてるのかな。そのせいか機嫌の波が読みにくくて。で、俺が何かすると地雷踏む感じがあって、なんか……こっちも気を遣いすぎて疲れてきた」
律は頷いた。疲れてきた、という言葉に、胸の中でずきっとした痛みが走った。
やめろ、と思う。そういう話をするな。
聞きたくないわけじゃない。でも聞いてしまったら、また、そこに何かを期待してしまう。そういう自分が、嫌だった。
「彼女が余裕なくなってる理由、ちゃんと聞いたか?」
「……聞けてないかも」
「それが先じゃないの」
「そっか」
「地雷踏みたくないなら、まず地図を手に入れろ。何が嫌なのか聞け」
「言うのは簡単だけどな」
「実際に言うのが難しいから関係って難しいんだろ。そういうもんだよ」
悠真が律の顔をじっと見る。
「お前って、なんで付き合ったことないのにそんなに的確なんだ」
「話を聞いてきたからだよ」
誰の話だと思ってんだ、とは言わなかった。
「律と付き合えばよかった」
冗談っぽく、悠真が笑いながら言って、律の肩に軽く肘をぶつけてきた。
いつもの距離だった。悠真にとっては、何の意味もない近さ。
律は一瞬だけ固まって、すぐに肘を押し返して笑って流した。
「なに寝言言ってんだ」
「や、ほんとに。お前と話してると楽になるんだよな」
「そういうこと言うなよ」
「なんで」
「……勘違いするから」
言ってしまってから、律はすぐに話題を変えた。
「とにかく話し合え。お前の気持ちも伝えないと、相手だって分かんないんだから」
どの口が言ってるんだろう。
「分かった。ありがとな、律」
「うん」
悠真が立ち上がって、鞄を持つ。
「じゃあ、ちょっと連絡してみる」
「頑張れ」
その背中を見送りながら、律は椅子に深くもたれた。
勘違いするから。本当のことを言った。でも悠真には届いていない。あれは笑いながら流してくれた。
それでよかった、と思いながら、律は天井を見上げた。白い蛍光灯が、静かに光っていた。
⸻
次の日、悠真は少し明るい顔をしていた。
「話してみた」
「そうか」
「うん。やっぱ就活のことで気張ってたみたいで。俺が気遣いすぎて余計に気まずくなってたって」
「よかったじゃん」
「律のおかげだわ」
「俺は何もしてない」
「聞いてくれたじゃん」
律は苦笑した。
「それくらいはするよ」
「いや、俺の彼女の愚痴聞いてくれる友達なんて、そんないないからな」
悠真はコーヒーを一口飲んでから、少し神妙な顔をした。
「いや、ちゃんと伝えるって大事だな。俺、今まで全然できてなかった」
「そうだろうな」
「お前も付き合ったら同じようにきっと悩むんだからな。言わなくても分かってくれると思っちゃうんだよな」
「言わなくても分かってくれると思うのは、お前だけだと思うけど」
「うるさい」
悠真が頬をかく。律はその横顔を見ながら、薄く笑った。
言わなくても分かってくれると思っていた、か。
律は自分のカップを見た。
俺は逆だ、と思った。言ったら引かれる。だから言わなかった。ただそれだけだった。
「とにかく、ちゃんと続けろよ」
律はそれだけ言って、カップを両手で包んだ。温くなったコーヒーが、手のひらに馴染んだ。
⸻
映画の話が出たのは、それから数日後だった。
「明日彼女と映画行くんだよ。あいつが見たいって言ってたやつ。お前も好きそうなジャンルだけど」
「へえ。何」
「ホラー系のやつ。評判いいらしくて」
「いいな」
律は自然に言った。
「律も行く?」
「三人で行くのか?」
「あ、さすがにそれは……」
「冗談だよ」
律は笑った。
「楽しんできなよ」
「悪いな、いっつも」
「いいって」
それだけ言って、悠真は去った。
律はその場に立ったまま、少しだけ動けなかった。楽しんできなよ、という言葉が、口の中に残っていた。
何度言っただろう。
行ってこいよ。楽しんできなよ。よかったじゃん。大事にしろよ。
全部、本当のことだった。本当のことを言い続けることが、こんなに疲れるとは思わなかった。
⸻
最初にやめたのは、夜の電話だった。
前なら、悠真から「今ひま?」と来たら、律は大抵すぐに出ていた。課題をやっていても、風呂上がりでも、眠くても出た。
でも、ある夜、スマホが震えた時、律は画面を見たまま動かなかった。
悠真の名前。少し前なら、名前を見るだけで嬉しかった。今は、怖かった。
出たら、また声を聞いてしまう。声を聞いたら、また好きだと思ってしまう。そうしたらまた彼女の話を聞いて、「よかったじゃん」と言って、電話を切った後で天井を見つめる夜が来る。
その夜が、もう耐えられる自信がなかった。
通話が切れるまで待って、律はメッセージを打った。
『ごめん、寝てた』
嘘だった。打ちながら、指が少しだけ震えた。
次にやめたのは、昼飯だった。
悠真と同じ席に座るのをやめた。たまたまゼミのやつに誘われたから。たまたま課題が残っていたから。たまたま別の棟に用事があったから。
理由はいくらでも作れた。作れるわりに、毎回、胸のどこかがちくりとした。
悠真は最初、何も気づかなかった。
「最近タイミング合わないな」
ある日、学食の前でそう言っただけだった。
律は笑った。
「そうだな。お前も忙しいだろ」
「まあな」
「彼女大事にしろよ」
「お前そればっかだな」
「大事なことだろ」
律は笑う。悠真も笑う。
その笑顔を見ながら、律は心の中で、ひとつずつ荷物を畳んでいった。
悠真の部屋に置きっぱなしだったパーカーを持ち帰った。
「これ、そろそろ洗うわ」
「別に置いとけばいいのに。洗濯機入れていけば?」
「いや、着る服なくて」
借りっぱなしだった漫画を返した。
「また読む?」
「んーまた借りるかも」
「じゃあ、また言えよ」
悠真は、いつもの調子だった。何も気づいていない。
その鈍さに傷つくくせに、その鈍さに救われてもいた。気づかれたら、きっと止められる。止められたら、きっと期待してしまう。だから気づかないでほしかった。
少しずつでいい。少しずつなら、悠真は気づかない。気づかないまま、自然に距離ができる。
そうしたら、いつか自分も笑えるようになる。悠真の彼女の話を聞いても、胸が痛まなくなる。悠真が誰かを優先しても、ちゃんと祝えるようになる。
好きだったことを、綺麗なまま昔のことにできる。
そう信じたかった。信じたいだけで、本当にそうなるかは分からなかった。
⸻
ある日、律は紙袋をひとつ持って悠真の部屋へ行った。
チャイムを鳴らすと、少しして悠真が出てきた。髪が少し跳ねている。寝起きか、昼寝でもしていたのかもしれない。
「これ」
玄関先で渡すと、悠真が首を傾げた。
「何?」
「お前の」
「俺の?」
「うちに置きっぱだったやつ。DVDとか、充電器とか、スウェットとか」
「え、これ?」
悠真は紙袋の中を覗き込んだ。
「お前んちに置いといたやつじゃん。別にそのままでよかったのに」
「ちょっと掃除しててさ。間違って捨てたらあれだなって思って」
「捨てんなよ」
「だから持ってきたんだろ」
律は笑った。
「紙袋にまとめてるから、後で見といて」
「律、今日は上がってかないの?」
「今日は無理。ゼミのやつと約束ある」
「へえ」
悠真は少しだけ意外そうな顔をした。でも、それだけだった。
「最近ほんと忙しそうだな」
「まあね」
「今度ゆっくり飲もうぜ」
「うん。またな」
また。
律はその言葉を、自分で軽くした。もう重くならないように。もう約束にならないように。
悠真は紙袋を片手に、「じゃあな」と笑った。
律も笑って、背を向けた。
廊下を歩きながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。
これで、悠真のものはもう自分の部屋にない。自分のものも、もう悠真の部屋にはほとんど残っていない。
物から消していく。予定から消していく。連絡から消していく。悠真の隣に、自分がいた跡を、少しずつ薄くしていく。
嫌いになりたくなかった。彼女を妬みたくなかった。悠真が幸せそうに笑う顔を、嫌なものにしたくなかった。
それなら、まだ笑えるうちに、いなくなった方がいい。
綺麗な記憶のまま終わりたかった。
エレベーターに乗ると、スマホが震えた。佐伯からメッセージが来ていた。
『今どこ? 先行ってるぞ』
律は短く返す。
『すぐ行く』
送信してから、少し笑った。
自分にも、新しい予定がある。悠真のいない予定。悠真が知らない友人。悠真がいなくても過ぎていく時間。
それは少し寂しくて、少しだけ息がしやすかった。
⸻
佐伯は、ゼミでよく話すようになった相手だった。距離が近くて、軽くて、よく笑う。
最初は少し苦手かもしれないと思った。けれど、話してみると案外楽だった。深く踏み込みすぎない。でも、放っておきすぎもしない。
律がぼんやりしていると、「今、魂どっか行ってた?」と笑う。律が「別に」と返すと、「じゃあ帰ってこい」と缶コーヒーを押しつけてくる。
その距離感がありがたかった。
「律ってさ、好きな人いるだろ」
ある夜、ゼミの飲み会帰りに佐伯が言った。駅までの道は、街灯が滲むように明るかった。
律は笑った。
「なんで」
「たまにすげえ遠い顔するから」
「してない」
「してる。まあ、言いたくないならいいけど」
佐伯はそれ以上聞かなかった。
だから律は、少しだけ隣にいやすくなった。
悠真といる時のように、何もかもが噛み合うわけじゃない。悠真と笑っていた時みたいに、言葉の途中で意味が通じるわけでもない。
でも、今はそれでよかった。何も知らない人の隣は、少し楽だった。
⸻
悠真との連絡は、少しずつ減った。減らしたのは律の方だった。
返信を遅くした。誘いを断った。代わりに、短く軽い言葉を送った。
『また今度な』
『最近忙しくてさ』
『彼女と楽しんでこいよ』
悠真はまだ気づかない。気づかれなければそれでよかった。
このまま少しずつ薄くなって、「そういえば最近会ってないな」くらいの距離になって、自然に終わる。それが一番傷が少ない終わり方だと思っていた。
思っていたわりに、既読のついたメッセージを何度も見返す夜があった。返さなくていいのに、返さない自分を確かめるみたいに。
クリスマスが過ぎた。年末年始も過ぎた。
悠真から一度だけ、「年明け飲もうぜ」と連絡が来た。
律は予定があると返した。本当は、空いていた。でも、空いていると返したら会ってしまう。会えばまた、戻りたくなる。だから、嘘をついた。
年が明けて、講義が始まって、春の履修登録の時期が近づいても、律は悠真に時間割の話をしなかった。
今までは、なんとなく被る授業を探していた。悠真の空きコマを聞いて、自分の履修を少しずらして、昼が合うようにしていた。
悠真はたぶん、気づいていない。毎年、なんとなく一緒になっていたのだと思っている。
それでよかった。今年はもう、合わせない。ゼミもある。専攻も違う。理由はある。
理由があれば、離れるのは簡単だった。
簡単なはずだった。
⸻
春学期が始まった頃、悠真からメッセージが来た。
『履修どうした?』
律はしばらく画面を見つめた。少しだけ、指が止まった。
前なら、ここから時間割の相談が始まった。
この授業楽そう。この教授厳しいらしい。昼どこ空ける? お前これ取るなら俺も取るわ。
そうやって一緒に時間割を組んだ。
でも、もう違う。
律は短く返した。
『もう決めちゃったよ』
すぐに返信が来る。
『え、一緒のやつは?』
胸の奥が、少し痛んだ。
律は、なるべく軽く打った。
『んー、お前と俺の三年からの専攻違うだろ。去年と違ってこれからはゼミも忙しくなるし。』
少し間を置いて、付け足す。
『彼女に聞いてみたら? 一緒に受けた方が楽しいかもよ』
送信してから、スマホを伏せた。
ちょっと冷たかった気がした。でも、必要なことだった。
悠真の隣にいるべきなのは、自分ではない。彼女だ。
そう言い聞かせた。
少しして、悠真から返事が来た。
『え、何も被りなし?』
『そうだ、とりあえず今日ランチ行こうぜ』
律は目を閉じた。
行きたかった。何も考えず、うん、と返したかった。いつもの席で昼を食べて、くだらない話をして、悠真が彼女の話を始めたら笑って流して。そんなふうに、また戻りたかった。
でも、戻ったらまた苦しくなる。
だから、律は返した。
『あ、ごめん。友達と約束してて』
すぐに悠真から返事が来る。
『え、誰?』
律は口の端だけで笑った。
知らないのか。知らないよな。
悠真の知らない自分の予定があることを、悠真はまだうまく飲み込めないのかもしれない。
『あー悠真知らないかも、ゼミのやつだからさ』
『もう時間だ。またなー』
送って、スマホをしまった。
胸がざわついていた。でも、少しだけ息がしやすかった。
⸻
その日、律は佐伯たちと駅前のカフェにいた。ゼミの資料を広げていたはずなのに、途中からほとんど雑談になっていた。
佐伯は話を転がすのがうまい。どうでもいい話を、どうでもいいまま楽しくできる。
「で、律は結局どっち派なわけ?」
「何の話だっけ」
「もう忘れてる。怖」
「佐伯の話が散らかりすぎなんだよ」
「人のせいにすんな」
律が笑うと、佐伯がふざけて肩に腕を回してきた。
「なんか最近俺へのあたり雑じゃない?傷つくんだけどーおい」
「近い」
「はいはい」
「重い」
「それは日頃の筋トレの成果」
「うるさい」
律は笑いながら肘で小突いた。
楽だった。何も考えなくていい。佐伯は悠真じゃない。だから、悠真にしてほしかったことを期待しなくて済む。悠真の言葉ひとつで浮き沈みしなくて済む。
そのはずだった。
ふと、ガラスの向こうに人影が見えた。律は一瞬、息を止めた。
悠真だった。
駅前の人混みの中で、悠真が立ち止まっている。こちらを見ていた。
目が合った。
律は何も言えなかった。
悠真の顔は、見たことがないくらい硬かった。
次の瞬間、店のドアが開いた。ドアベルが鳴る。悠真が入ってくる。
「あれ、悠真」
律は、できるだけ普通の声を出した。普通に言えたと思う。けれど、指先が少し冷たかった。
悠真は、律の向かいに座っている佐伯を見た。
「……誰?」
低い声だった。
律は少しだけ眉を上げた。
「同じゼミの佐伯。最近よく一緒にいる」
「へえ」
声が硬い。
佐伯が軽く会釈する。
「どうも。いつも律から話聞いてます」
悠真の表情が、わずかに強張った。
律はそれを見て、胸の奥が嫌な音を立てた。
何だよ、その顔。今さら。ずっと気づかなかったくせに。
(このままずっと気づかないでほしかった)
その顔を見た瞬間、心のどこかがひどく揺れた。
「律、ちょっといい?」
悠真が言った。
律は数秒だけ悠真を見た。逃げたいと思った。でも、逃げたらもっと惨めになる気がした。
「ごめん、ちょっと行ってくる」
佐伯にそう言って、律は立ち上がった。
⸻
カフェの外に出ると、夕方の風が湿っていた。駅前の人混みがうるさい。けれど、悠真の声だけがやけにはっきり聞こえた。
「最近、何してんの」
律は首を傾げる。
「何って?」
「全然連絡返さないし、飯も来ないし、ああいう知らないやつといるし」
「知らないやつって。俺の友達だけど」
「俺、呼ばれてない」
言ってから、悠真は自分の言葉に詰まったようだった。
律は黙った。少しだけ、泣きたくなった。
呼ばれてない。そうだよ。呼んでない。呼ばなかった。
だって、呼んだら戻りたくなるから。
でも、悠真がそれを気にするなんて思わなかった。彼女の話をあれだけしていた悠真が、律の知らない予定ひとつにこんな声を出すなんて。
「お前、最近変だよ」
「そう?」
「避けてるだろ」
「避けてないよ」
「俺なんかした?」
「何もしてないよ」
「じゃあ何なんだよ」
律は少し笑った。いつもの笑顔だった。でも、自分でも分かった。たぶん、少し遠い。
しばらく黙っていた。駅前の人混みが、二人の間を流れていく。知らない誰かの笑い声。車の音。店のドアベル。
その全部が遠くなった頃、律は口を開いた。
「お前は何もしてないよ。ただ、俺の問題」
「俺、バイっぽくてさ」
悠真は一瞬、言葉の意味を受け取れなかったようだった。
「……は?」
「……だから言いたくなかったんだよ。気持ち悪いだろ?」
「気持ち悪くなんてない」
「即答すんなよ」
「即答するだろ、そんなの」
律は少し笑った。少しだけ嬉しかった。嬉しいと思ってしまう自分が、嫌だった。
「まあ、結果な」
それだけ言って、少し間を置いた。
「でも……バイの友達が前みたいにベタベタ近くにいるの、普通に怖いだろ」
悠真は何も言えなかった。
「だから、このまま気づかないふりしてくれよ。俺も何もなかったみたいにするから」
「は?」
「いやだ」
「……なんで」
「お前がバイでも友達じゃん」
律は少しだけ笑みを消した。
友達。
その言葉が、ここまで痛いものになるとは思わなかった。
「友達じゃないよ」
「え」
「俺、お前のこと好きだもん」
悠真は黙った。
律は続けた。声は、思ったより震えていた。
「だからもう、そばにはいれない」
「は?」
悠真の声がわずかに裂けた。
「ふざけてる、だろ」
「ふざけてない」
律はやっと悠真の方を向いた。目を合わせるのに、それだけの時間がかかった。
「お前が悪いんじゃない。俺が、うまくやれないだけ」
「おかしくない」
「そういうことじゃなくて」
律は息を吐いた。指先が、無意識にシャツの裾を摘んでいた。
「多分、無理なんだ。俺には」
「……多分?」
「お前の彼女を大事にして、俺とも今まで通りで、たまに飯食って、くだらない話して、何も変わらない顔で隣にいる。それが、できない」
律は笑おうとして、失敗した。
「そういう友達の場所に、俺、もう戻れない」
「……佐伯は」
悠真が言った。
律は面食らって、悠真を見た。
「佐伯が、何」
「あそこ、俺の席だったろ」
「は?」
「彼女大事にしろって、お前が言ったんだろ。なのに、俺の代わりみたいに佐伯があそこに座ってるんだったら、それ何なんだよ」
律は瞬きをした。
「替えてなんかないよ」
「じゃあ何だよ。俺のこと好きだって言ったくせに、俺に彼女ができたから、今度は佐伯と座るのかよ」
「そういうことじゃ」
「じゃあどういうことだよ」
悠真の声が、初めて震えた。怒っているのか、ただ焦っているのか、悠真自身にも分かっていないような声だった。
律は、その声に少しだけ怯んだ。
「俺の場所に、勝手に誰か座らせんなよ」
律は何も言えなかった。悠真が今、何に傷ついているのか、うまく飲み込めなかった。
悠真は、それ以上何も続けられなかった。自分の言葉が、自分でも見当違いだと薄々気づいているような沈黙だった。
律は続けた。声が、少しだけ早くなった。
「お前が彼女の話するの、最初は聞けたんだよ。嬉しそうだったし、よかったなって思った。ほんとに」
嘘ではなかった。最初は。
でも、いつからか分からなくなった。彼女の好きなところを聞くたび、何かが削れていくのが分かった。それでも、悠真が悲しむ顔だけは見たくなかった。
だから笑っていた。
「けっこう、頑張ったと思う」
その一言だけ、声が掠れた。
悠真の顔が歪む。
律の胸の奥が、鈍く痛んだ。
黙って消えるつもりだったのに。結局、こうなる。
「だから」
律は言った。うまく言葉が続かなくて、それだけしか出なかった。
「お前が、悪いとかじゃないから」
悠真は顔を上げた。
律は笑っていた。たぶん、うまく笑えていたと思う。
「綺麗なままで終わりたかったんだ」
その瞬間、悠真は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
律は少しだけ視線を落とした。
「すぐには無理かもしれないけど、いつかまた遊ぼうな」
軽く手を上げる。
「佐伯待ってるし」
「待って」
悠真は反射的に言った。
律が振り返る。
「何」
何、と聞かれて、悠真は言葉に詰まった。
律は、その沈黙で分かってしまった。
悠真はまだ、何も言えない。引き止める言葉も、選ぶ言葉も。ただ、なくなるのが嫌で手を伸ばしかけているだけだ。
それでも、その手が欲しかった自分がいる。馬鹿みたいだと思った。
律は少しだけ眉を下げた。
「またたまに遊びいこーな?」
いつもの声で言った。でも、それがもう“いつも”には戻らない合図だと、自分でも分かっていた。
律はカフェへ戻っていく。
ガラスの向こうで、佐伯が顔を上げる。
「大丈夫?」
佐伯が小さく聞いた。
律は笑った。
「大丈夫」
また言った。何も大丈夫じゃないのに。
佐伯は少しだけ眉を寄せたが、それ以上聞かなかった。
律は席に座って、冷めかけたコーヒーを口にした。苦かった。
ガラスの向こうに、悠真が立っている。スマホを握ったまま、動かない。
目が合った。
律は笑った。いつもみたいに。
けれど、もう隣には行かなかった。




