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綺麗なままで終わりたかった  作者: 宵


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4/4

綺麗なままでは終われない 下

⸻


律には、まだ何も送っていなかった。


送るべき言葉が、まだ見つからなかったから。


彼女とのことは終わらせた。でも、それを律に伝える資格が、自分にあるのかどうか分からなかった。ちゃんと考えてから会いに行きたかった。少なくとも、自分にはそう言い訳していた。


彼女とは、あれから一度も連絡を取っていない。


でも、大学は同じだった。講義棟の廊下ですれ違いそうになったことが、一度だけあった。彼女は悠真に気づいていたはずだったが、目も合わせず、友達と笑いながら通り過ぎていった。


それでよかった。それが、彼女なりのけじめなのだと思った。


でも、その笑い声を聞いた瞬間、悠真の中で何かがちくりとした。自分が壊したものの上で、彼女がちゃんと立て直そうとしているのが分かったから。


謝る資格もない。責める資格はもっとない。悠真はただ、遠くからそれを見送ることしかできなかった。


その間にも、律の日常は、勝手に悠真の目に入ってきた。


ゼミの集合写真が、共通のグループに流れてきた。律が、佐伯の隣で笑っていた。


誰かの通話の背景で、佐伯の声と、律の笑い声が重なって聞こえたことがあった。


「今日、律と佐伯たちで飲みに行くってさ」


共通の友人から、そんな一言が流れてきたこともあった。


佐伯。


その名前は、前から律の口に出ていたはずだった。「今日ゼミの佐伯と」「佐伯がさ」――何度も聞いていたのに、悠真はそれをちゃんと聞いていなかった。律の交友関係の一つとして、右から左に流していた。


川沿いのカフェで初めて顔を合わせた時、「……誰?」と聞いたのは、本当に知らなかったからじゃない。知ろうとしたことがなかったからだ。


それに気づいてから、悠真はもう佐伯の名前を素通りできなくなった。


たまに、我慢できずに他愛のない言葉を送ってしまうことがあった。


『そういえば、あの講義の資料どこだっけ』


送ってすぐ、後悔した。今それを聞く理由なんてなかった。


既読はついた。返事は来なかった。


前は、既読がつくだけで安心できた。今は、既読の後の沈黙の方が、ずっと長かった。


五月に入って、キャンパスの新歓ムードが落ち着いた頃、共通のグループチャットに、律の予定がまた流れてきた。


「律、GW明けの飲み会、佐伯たちと来るってさ」


その一文を見た瞬間、悠真は画面を閉じた。


去年のGWは、律と二人で予定もなく過ごした。だらだら動画を見て、適当に飯を食って、それだけで満足だった。


今年は、そこに悠真がいない。


律の日常が、悠真なしで回っている。


頭では分かっていたことのはずだった。想像していたことのはずだった。でも、実際に目の前を通り過ぎていくのを見るのは、まるで違う重さだった。


律は、ちゃんと大丈夫になっていく。


悠真がいなくても。


悠真はようやく理解した。


律は、俺を一番じゃなくできるんだ。


待てば待つほど、それは近づいてくる。自分が言葉を探している間に、律はちゃんと前に進んでいる。


もう、悩んでいる場合じゃなかった。



⸻


五月も半ばを過ぎた、蒸し暑い昼前だった。


その日の朝、悠真は律の講義棟の近くを通りかかった。


わざとではない、と自分に言い聞かせていた。たまたま近くに用事があっただけだと。


でも、渡り廊下の柱の陰に立ち止まって、しばらく動けなかった理由は、自分でも分かっていた。


律が、佐伯と並んで歩いているのが見えた。


何を話しているのかまでは聞こえない。距離がありすぎたし、悠真はそれ以上近づかなかった。


律が何か言って、佐伯が笑う。律も少し笑う。それだけだった。


ただの、何でもない会話。


それなのに、悠真はその場から動けなかった。二人の会話が終わって、律が講義室に入っていくまで、ずっと見ていた。


見ていたことを、律には言えない。言うつもりもなかった。


ただ、その光景を見た後、悠真の中で何かが決まった。


このままではいけない。


悠真は講義室の隅で、スマホを握りしめていた。


送るかどうか、もう何度も迷った。でも、迷っている時間の方が長くなるほど、律との距離は開いていく気がした。


悠真は文字を打った。


『彼女と話した』


送信する。既読はすぐにつかなかった。


続けて、もう一通。


『別れた』


打ちながら、指が震えた。彼女の涙を思い出す。悔しさをこらえるように吐き出された声。悠真はそれを、律に伝えることでようやく前へ進めるような気がしていた。都合のいい話だと、自分でも分かっていた。


最後に、もう一文。


『会いたい』


送ってから、後悔が来た。


この順番は、律にはどう見えるだろう。彼女と別れたから、空いた場所に律を入れようとしているように見えるかもしれない。そんなつもりじゃない。でも、そう見えても仕方がないことを、悠真は自分でしてしまった。


既読はつかないまま、講義が終わった。


スマホを見るたび、既読がついていないことに、悠真の心臓が縮んだ。


⸻


律から返事が来たのは、午後になってからだった。


『いる』


『でも長くは無理』


それだけだった。悠真はすぐに打ち返した。


『分かった』


『行く』


待ち合わせ場所を、律は講義棟の裏に指定してきた。人気の少ない場所。逃げ道を用意しているような選び方だと、悠真は思った。


悠真は走った。


少しでも早く着きたかった。律の気が変わる前に。律が「やっぱりなし」と言い出す前に。


⸻


講義棟の裏に着くと、律はもう壁にもたれていた。


スマホを握ったまま、こちらを見ている。


その顔を見た瞬間、悠真は自分の息が上がっていることに気づいた。走ってきたせいだけではなかった。


「律」


「うん」


悠真は立ち止まった。


律との間に、数歩分の距離がある。


前なら、こんな距離はなかった。悠真は当然のように隣に行って、律も当然のようにそれを受け入れていた。


今は、その数歩を越える権利が、自分にあるのかどうか分からなかった。


「来てくれて、ありがと」


「俺が来たんじゃない。お前が来たんだろ」


「うん」


律が少し目を逸らした。


「彼女と別れたって」


「うん」


「そう」


それだけだった。律の声には、喜びも安堵もなかった。当然だと、悠真は思った。


「傷つけた」


悠真は言った。


「彼女を」


「……うん」


「俺が悪い」


「それを俺に言ってどうするの」


少し冷たい声だった。悠真は逃げなかった。逃げる資格がないと分かっていた。


「免罪符にしたいわけじゃない」


「じゃあ何」


「終わらせてきたって、言いに来た」


「俺のため?」


「違う」


悠真は一度、息を吸った。


「律に会うために必要だったから」


「それ、同じじゃないの」


「違う」


「何が」


「彼女と別れたから律のところに来たんじゃない」


悠真は律を見た。今、自分が言うべき言葉は、これしかないと思った。


「律のところに行きたいから、彼女と別れた」


律が息を止めるのが分かった。


「……ずるいな」


「うん」


「うんじゃない」


「ごめん」


「謝らなくていい」


律は壁から背を離して、少しだけ歩いた。でも、遠ざかるほどではなかった。その距離感に、悠真はまだ望みがあることを感じ取った。


「彼女、何て言ってた」


律が聞いた。悠真は少し黙ってから、答えた。


「泣いてた」


「怒ってた?」


「怒ってたと思う。でも、怒鳴らなかった」


「……そっか」


「ちゃんと傷ついたって言われた」


律が目を伏せる。何かをこらえているような顔だった。


「俺、その子に謝る立場でもないけど」


律は言った。


「でも、なんか、ごめんって思う」


「律が謝ることじゃない」


「分かってる」


律は小さく笑った。


「分かってても、思うんだよ」


悠真は何も言わなかった。律のその優しさが、今は少し痛かった。


「それで?」


律が視線を上げる。


「終わらせたから、俺に期待してって言いに来たの?」


悠真は少しだけ唇を噛んだ。


「違う」


「違うばっかりだな」


「ごめん」


「謝るなって」


「……うん」


悠真は一歩、近づいた。律は逃げなかった。その事実だけで、悠真の中の何かが強く跳ねた。


「あの日、律に言ったこと」


悠真は言った。


「俺を好きじゃなくならないでって」


「うん」


「あれ、最低だった」


「うん」


「律に、俺のこと好きなままでいてほしいって言った」


「うん」


「彼女と何も終わらせてないのに」


「うん」


「律が苦しいの分かってて」


「うん」


律は頷き続けている。その頷き方が、悠真には赦しではなく、確認のように見えた。まだ何も赦されていない。


「俺、あの時、自分のことしか考えてなかった」


「知ってる」


律は即答した。悠真は苦笑した。痛かった。


「だよな」


「うん」


「でも、嘘じゃなかった」


律が黙る。悠真は続けた。


「お前が俺を好きじゃなくなるのが嫌だった」


「……」


「他の誰かを一番にするのが嫌だった」


「それはこの間聞いた」


「うん」


悠真は息を吐いた。ここから先が、今日言いに来た本題だった。


「でも、それだけじゃ駄目だって分かった」


律が顔を上げる。悠真はまっすぐ律を見た。


「俺が嫌だって言うだけじゃ、律をまた苦しめるだけだって」


「……」


「だから今日は、それを言いに来たんじゃない」


悠真は息を吸った。心臓の音が、自分でもうるさいくらいに聞こえた。


「律」


「……何」


「好きだ」


言った瞬間、周りの音が全部遠くなった気がした。


律は動かなかった。ただ、悠真を見ていた。


悠真はもう一度言った。


「俺は、律が好きだ」


「……今さら」


律の声は掠れていた。悠真は頷いた。


「うん」


「遅いよ」


「うん」


「俺がどれだけ待ってたと思ってんの」


「うん」


「うんじゃねえよ」


「ごめん」


「謝るところじゃないだろ」


律の顔が歪んだ。泣くまいとしているのが、悠真には分かった。


「何で今なんだよ」


律が言った。


「何で、俺が離れようとしてからなんだよ」


「……」


「何で、俺がもう無理だって言ってからなんだよ」


悠真は答えられなかった。律が一歩前に出た。


「俺が好きって言ったから?」


「違う」


「佐伯といたから?」


悠真の中で何かが揺れた。それが顔に出たのが、自分でも分かった。


「やっぱり」


「違う」


「違わないだろ」


「違う」


「じゃあ何」


悠真は拳を握った。ここで誤魔化したら、もう二度と本当のことを言えなくなる気がした。


「佐伯といるのを見て、嫌だった」


「ほら」


「でも、それで初めて気づいた」


悠真は続けた。声が震えるのが分かった。


「律が俺の隣にいないことが、嫌だった」


「親友だからだろ」


「最初は、そう思った」


悠真は言葉を探しながら続けた。


「親友を取られるのが嫌なんだと思った。でも違った」


「何が」


「親友なら、律に好きな人ができたら、よかったなって言えるはずだった」


悠真は律を見た。


「お前が誰かに一番にされて、お前もそいつを一番にするなら、親友なら喜べるはずだった。でも無理だった」


「……」


「無理だったんだよ」


悠真は続けた。言葉を止めたら、もう二度と言えない気がした。


「律が他のやつを好きになるのが嫌だった。そいつの隣にいるのが嫌だった。そいつの家に行って、そいつの物が律の部屋にあって、そいつが律の朝を知って、律の寝起きとか、好きな飯とか、そういうの全部、俺より知っていくのが嫌だった」


「……」


「それ、親友じゃないだろ」


悠真は自分の言葉に、自分で少し怯んだ。でも、止まらなかった。


「俺はお前に、俺じゃないやつを好きになってほしくなかった」


律の目から、涙が落ちた。すぐに拭われる。


悠真は手を伸ばしかけて、止めた。


前なら、きっと何も考えずに触れていた。親友の距離で。でも今は、その距離がもう自分のものではないと分かっていた。律が許すまで、待つしかなかった。


「……ずるい」


律が言った。


「うん」


「ずるいよ、お前」


「うん」


「俺がどれだけ欲しかった言葉だと思ってんだよ」


「……うん」


「今さら言われたら」


律の声が震える。


「嬉しいじゃん」


悠真は、自分の顔が歪むのを感じた。


「律」


「でも、怖い」


悠真は黙った。


「お前が本当に分かってんのか、分かんない」


「……」


「男を好きになるってこと」


「うん」


「彼女と別れて、俺を選んで、周りにどう見られるかとか」


「うん」


「付き合ったら、親友じゃ済まないこととか」


悠真は律から目を逸らさなかった。


「分からないことはある」


悠真は言った。


「正直、全部分かってるとは言えない」


律の顔が少し曇る。悠真は続けた。


「でも、分からないからって、律を手放す方には行きたくない。怖いって思うことがあっても、逃げたくない」


「……」


「親友のままなら楽だった。たぶん」


悠真は一度、言葉を止めた。


「でも、もうそれじゃ足りない」


悠真ははっきり言った。


「俺は律と、恋人になりたい」


律は息を止めた。


悠真は、自分がその言葉を口にしたことに、自分自身が一番驚いていた。ずっと避けてきた言葉だった。言えば、もう後戻りできなくなる言葉。


律の目から、また涙が落ちた。


「ほんと、今さら」


「うん」


「遅い」


「うん」


「でも」


律は言葉を止めた。長い間があった。


「まだ好きだよ」


悠真の視界が、大きく揺れた。


「むかつくけど」


「うん」


「最低だと思ったけど」


「うん」


「あの時、俺を好きじゃなくならないでって言われて、ほんとに残酷だと思ったけど」


「うん」


「それでも、嬉しかった」


悠真は唇を噛んだ。それ以上、何も言えなかった。


「だから怖い」


律が続けた。悠真は黙って頷いた。


「好きだから、また期待する」


「うん」


「期待したら、また傷つくかもしれない」


「うん」


「お前が途中で、やっぱ違ったって言ったら、たぶん今度こそ無理」


「言わない」


悠真は即答した。律が眉を寄せる。


「即答すんな」


「する」


「何で」


「そこは迷わない」


律は黙った。悠真は続けた。


「分からないことはある。でも、律がいいってことは迷わない」


「……今すぐは、付き合えない」


律が言った。悠真の心臓が、少し強く鳴った。


律は続けた。


「嫌って意味じゃない」


「うん」


「ただ、すぐ頷いたら、俺たぶん全部なかったことにしちゃう」


悠真は黙って聞いた。


「苦しかったことも、彼女の話聞いてたことも、逃げようとしたことも、あの時お前が俺に残酷なこと言ったことも」


「うん」


「好きだから、全部いいよって言っちゃう。それは嫌だ」


「うん」


「ちゃんと怒ってたい」


悠真の胸が、痛みと同時に少し緩んだ。律がまだ、悠真との関係を諦めていないという意味でもあった。


「怒ってていい」


「当たり前だろ」


「うん」


「許すかどうかは俺が決める」


「うん」


「付き合うかどうかも、俺が決める」


「うん」


「お前が選んだからって、俺がすぐ選ぶと思うなよ」


「思わない」


「ほんとかよ」


「ほんと」


律が小さく息を吐いた。


「じゃあ」


悠真は聞いた。


「俺は、何をすればいい」


律はしばらく黙ってから、言った。


「逃げるな」


「うん」


「俺が怒ってても」


「うん」


「俺が疑っても」


「うん」


「俺が怖くなって、やっぱ無理って言っても」


「うん」


「でも、追い詰めるな」


悠真は真剣に頷いた。


「分かった」


「分かってないと思うけど」


「分かるようにする」


悠真は少し考えて、続けた。


「逃げない。でも、勝手に近づきすぎない」


律が少し驚いた顔をした。


悠真は、自分がそう言えたことに、自分自身が一番戸惑っていた。前なら、こんなふうに距離を測るという発想自体がなかった。親友の距離で、当然みたいに隣に行って、肩に触れて、笑っていた。


「あと」


律が言った。


「佐伯に嫉妬すんな」


悠真の顔が固まった。


「するなよ」


「……努力する」


「そこ即答しろよ」


「無理なことは言えない」


「おい」


律が、思わずというふうに笑った。悠真も少しだけ笑った。


その瞬間、二人の間に、昔に似た空気が流れた。


くだらなくて、気安くて、何でもない会話。


でも、悠真にはすぐに分かった。戻ったわけじゃない。似ているだけだ。同じには戻れない。


それでも、似た温度のものを、これから新しく作ることはできるかもしれない。そう思えただけで、十分だった。


「律」


「何」


「今日、飯」


「行かない」


即答だった。悠真は少しだけ肩を落とす。


「今日は佐伯と行く約束した」


「……そっか」


「嫉妬すんな」


「してる」


「するなって言ったばっかだろ」


「努力はするって言った」


「今すぐ努力しろ」


「してる」


律が呆れたように息を吐いた。でも、その顔は少し笑っていた。


「今日は帰る」


「うん」


「連絡は、していい」


悠真は顔を上げた。


「いいの?」


「ただし、重すぎるのはやめろ」


「……分かった」


「あと、返事遅くても催促するな」


「分かった」


「夜中に急に電話するな」


「分かった」


「俺が断っても拗ねるな」


「努力する」


「そこも分かったって言えよ」


「分かった」


律が少しだけ笑った。


「じゃあな」


「律」


「何」


悠真は少し迷った。でも、今度は言葉を飲み込まなかった。


「好きだ」


律の目が、ほんの一瞬揺れた。


「知ってる」


律はそう返して、背を向けた。


悠真はその背中を見送った。歩き出す律の足取りは、来た時より少しだけ軽く見えた。それとも、そう見たいだけかもしれなかった。


姿が完全に見えなくなってから、悠真は長く息を吐いた。


好きだと言った。今さらだと言われた。でも、拒まれなかった。


それだけで、悠真の中は今にもあふれそうだった。


悠真はスマホを取り出して、律に短いメッセージを送った。


『今日はありがとう』


それだけにした。長く書きたい言葉はいくつもあった。でも、律が決めた距離を、今日はちゃんと守りたかった。


既読はすぐについた。返事はなかった。


それでいいと、悠真は思った。返事がないことにさえ、期待していいのかもしれないという予感があった。


その予感が、正しいのか、それとも自分に都合よく歪めているだけなのか、悠真自身にもまだ分からなかった。


しばらくして、もう一通、律から届いた。


『次は、俺の都合に合わせて』


悠真はその文字を、何度も読み返した。


『分かった』


短く返す。


たった四文字のやり取りだった。でも悠真には、それが十分すぎるほどの返事に思えた。


今度は、律のペースに悠真が合わせる番だった。


⸻


土曜の夕方、悠真は約束の五分前に駅へ着いた。


早く来すぎたと思ったのに、改札の向こうにはもう律がいた。


薄手のカーディガンを羽織って、柱にもたれてスマホを見ている。


その姿を見つけた瞬間、悠真は自分の心臓がうるさくなるのを感じた。


律は顔を上げて、悠真に気づく。


「早いな」


「お前もな」


「待った?」


「今来た」


律が少しだけ笑った。


ぎこちない笑い方だった。でも、悪くなかった。


「どこ行く?」


「律が決めていいよ」


「重い」


「ごめん」


律は呆れたように歩き出した。悠真はその隣に並んだ。


肩が触れない距離。前なら意識しなかった距離が、今は意味を持っていた。


⸻


律が選んだのは、駅から少し離れた定食屋だった。


席に着くと、律がぽつりと言った。


「ここ、佐伯と一回来た」


悠真の箸を持つ手が、一瞬止まった。


「嫉妬した?」


「した」


「佐伯には彼女いるよ。俺がゲイだって知った上で、普通に友達やってくれてる」


「……そう」


「イケメンだろ」


「余計嫌だ」


律が小さく笑う。悠真はその笑い方を見ながら、自分の中の何かがまた疼くのを感じた。


佐伯は安全な相手だと、頭では分かっている。それでも、律の口から出る別の男の名前は、聞くたびに小さな棘になった。


「相手が誰でも関係ない」


気づけば、悠真は言っていた。


「律の一番が俺じゃなかったら、それだけで嫌なんだよ」


律が少し驚いた顔をした。


「……理屈になってない」


「俺も、律を一番にする。だから、律の一番も俺にしてくれ」


律はしばらく悠真を見て、それから笑った。


「早く言えよ、それ」


「今言った」


食事は、思ったより穏やかに進んだ。悠真は律の些細な仕草の一つ一つを、逃さず見ていた。


箸の持ち方。水を飲むタイミング。少し照れた時に耳を触る癖。


全部、前から知っていたはずだった。でも今は、知っていることのすべてが、確かめ直す価値のあるものに見えた。


誰にも渡したくない、と思った。


その感情の輪郭に、まだ悠真自身、名前をつけられていなかった。


⸻


店を出ると、細かい雨が降り始めていた。


律が折り畳み傘を差し出した。


「入れば」


二人で入るには狭い傘だった。肩が触れる。律が小さく身を固くしたのが分かった。


悠真も、同じくらい緊張していた。


駅への道を、遠回りするように歩いた。会話は途切れがちだった。でも、その沈黙は嫌なものではなかった。


「悠真」


「うん」


律が足を止めた。


「俺さ、綺麗なままで終わりたかったんだよ」


あの日と同じ言葉だった。でも、響きが違った。


「でも、無理だった。怒ったし、泣いたし、嫉妬したし、お前にもひどいこと言った」


「俺も言った」


「うん」


律は傘の柄を握り直した。


「でも、終わらせたいとは、もう思えない」


悠真は動けなかった。ただ、律を見ていた。


「俺、まだお前が好き」


律は続けた。


「たぶん、ずっと好きだった。今も、むかつくくらい好き」


悠真の視界が滲んだ。


「でも、前みたいには戻らない。親友のふりもしない。俺だけが一番にするのも嫌。お前にも、俺を一番にしてほしい」


悠真は一歩、近づいた。


「手、つないでいい?」


律がゆっくり頷いた。


悠真は律の手を取った。壊れ物に触れるように。指が絡む。律の手のひらは冷たくて、少し震えていた。


悠真は、その震えごと欲しいと思った。


「律」


「何」


悠真は答えず、律の手を引き寄せた。


傘が傾いて、雨音が近くなる。律は逃げなかった。


唇が触れた瞬間、悠真の中で何かが決定的に変わった。


これでいい。もう手放さない。


短いキスが終わって、律が小さく息を吐いた。


「……ずるい」


「うん」


「今の、無しにできないから」


「しない」


悠真はそう答えながら、律の頬に触れた手を、まだ離せずにいた。


律の心臓の音が、悠真の胸の奥にまで響いているような気がした。


「悠真」


「うん」


「付き合う?」


「うん」


即答だった。


律が少し睨む。「即答すんな」


「する。そこは迷わない」


律は、諦めたように笑った。


「じゃあ、よろしく」


その一言だけで、悠真の中の何かが、音を立てて満たされた。


⸻


その日は、駅で別れた。


律の背中が改札の向こうに消えるまで、悠真はその場を動かなかった。


律が一度だけ振り返って、小さく手を上げた。悠真も上げ返す。


それだけのことに、悠真は自分でも驚くほど安堵した。


電車が来る音がして、律の姿が完全に見えなくなってから、悠真はようやく歩き出した。


雨はまだ降っていた。


傘をさしながら、悠真は自分のスマホを見た。律とのトーク画面。さっきまでの会話が、まだそこに残っている。


悠真は、そこに写っている律の一言一言を、何度も読み返した。


『じゃあ、よろしく』


その四文字を、何度も指でなぞった。


嬉しい。それは本当だった。


律が、悠真を選んだ。


でも、傘を畳んで駅の階段を上がりながら、悠真の中で喜びはすぐに別の形に変わっていった。


これで、前みたいに戻れるわけじゃない。


律は言った。長く会わない。急に全部を変えない。少しずつでいい、と。


律のペースだった。悠真はそれを守ると約束した。


でも、律の部屋に行けなくなった今の距離が、悠真にはどうしても落ち着かなかった。


前は、毎日のように顔を合わせていた。同じ講義を取って、同じ時間に昼を食べて、夜には当たり前のように電話をして、週末には互いの部屋にいた。


それが、もうない。


律が決めたペースでは、次にいつ会えるかも分からない。


その間、律が誰と何をしているのか、悠真には何も見えない。


佐伯と昼を食べるかもしれない。誰かに相談を持ちかけられて、笑っているかもしれない。悠真の知らない冗談で、悠真の知らない誰かと盛り上がっているかもしれない。


その「知らない時間」を想像するだけで、胸の奥がざわついた。


付き合えたはずなのに。


選ばれたはずなのに。


それでも、この不安は消えなかった。


悠真は電車の窓に映る自分の顔を見た。


情けない顔をしている、と思った。


どうすればいいのか、悠真は考えた。


律のペースを守る。それは約束した。破るつもりはない。


でも、律のペースの中でなら、何をしてもいいはずだ。


律が「急に変えるな」と言ったのは、恋人らしいことを急がれるのが嫌だという意味であって、会う頻度そのものを制限したわけじゃない。


そう、悠真は自分に言い聞かせた。


だったら。


悠真はスマホを開いて、律とのトーク画面を見た。


今までみたいに、毎日律の部屋に行くことはできない。でも、理由があれば会える。


課題を一緒にやろうと誘えばいい。忘れ物を届けると言えばいい。近くまで来たから、と寄ればいい。


律が困らない範囲で、律の生活の中に、また少しずつ入り込んでいけばいい。


空白を作らなければいい。


律が誰かと過ごす時間より先に、悠真の予定で律の時間を埋めてしまえば、佐伯のことも、律の知らない誰かのことも、考えずに済む。


それは律のためでもある、と悠真は思った。


律は言っていた。寂しかった、と。ずっと。


悠真が彼女の話をするたび、悠真が悠真の予定を優先するたび、律は寂しさを我慢して、笑って、それを誰にも言わずに抱えていた。


だったら、これからはもう、あんな思いをさせない。


律がもう二度と寂しいと思わないように。


悠真がいつか離れていくかもしれないなんて、律が一瞬でも不安にならないように。


そのために、これから悠真がすることは全部正しい。悠真はそう結論づけた。


律の予定を、悠真の予定で埋める。律が誰かと過ごす前に、悠真が先に律の時間を取る。律が寂しいと感じる隙間を、そもそも作らない。


それは独占ではない。安心させることだ。悠真はそう自分に言い聞かせた。


律の一番近くにいるのが自分だと、律自身にちゃんと分かってもらう。


悠真の隣にいる時が一番安心できるのだと、律に思い出してもらう。


律が悠真を好きだということを、律自身の中で、また揺るぎないものにしてもらう。


今、律はまだ怒っている。拗ねている。当然だと思う。悠真が悪かった。


でも、それも時間の問題だ。


悠真がちゃんとする。約束を守って、律の隣に戻って、律が寂しいと思う暇を与えなければ、律はきっと、また前みたいに笑ってくれる。


悠真の名前を呼ぶ時、迷いなく笑ってくれた、あの頃の律に。


それが一番、律にとって幸せなはずだった。


悠真はそう信じて、疑わなかった。


律が寂しいと言った。だから、律を二度と寂しくさせない。それが正しい。


その考えの形に、悠真はどこか覚えがあった。


でも、それが何だったか、思い出す前に、悠真は次の思考に進んでしまった。


律が寂しいと言うなら、それを埋めることが正しい。律の言葉が、悠真にとっての正しさの基準になっていた。


かつて、彼女にもそう言われたことがあったのを、悠真はもう覚えていなかった。


悠真が自分で決めたことは、意外と少ないんだね。


そう言われたことも、今の悠真の頭からはすっかり抜け落ちていた。


でも、悠真の中で、何かが静かに一つ、答えを出していた。


律に言われなくても、大丈夫。


律が寂しいと言葉にしなくても、悠真が汲み取ればいい。


律の顔を見て、律の声を聞いて、律が今何を我慢しているのか、悠真が先に分かればいい。


律の許可を待つんじゃない。律に確認するんじゃない。


今度はちゃんと、悠真自身の意思で動く。


それは、彼女に指摘された弱さを克服したことのように、悠真には思えた。


もう誰かに「こうしろ」と言われなくても、自分で正しい行動を選べる。


悠真はそう信じた。


でも、それは律の言葉を必要としなくなっただけだった。


律がまだ何も言っていないのに、悠真はもう、律が何を望んでいるかを決めてしまえるようになっていた。


律に聞く前に、律の答えを、悠真が先に用意してしまう。


それのどこが、悠真自身の意思なのか。


その問いは、悠真の中には浮かばなかった。


そう思うことで、悠真は自分の中にあるものの本当の形から、目を逸らした。


焦りが、いつのまにか計算に変わっていることに、悠真はまだ気づいていなかった。


電車が揺れる。悠真はスマホを握ったまま、次に律へ送るメッセージの文面を、もう考え始めていた。


綺麗なままでは終われなかった。


それでも、二人は始まってしまった。


この始まりの先に何があるのか、悠真にはまだ分かっていない。

**電子書籍化のお知らせ**


『綺麗なままで終わりたかった』を電子書籍化しました!


電子書籍版には、公開済みの本編に加え、書き下ろし4話を収録しています。


**Before『綺麗なままでは始まらない』**

律と悠真が出会い、親友になるまで。


**After『綺麗なままではいられなかった』全3話**

恋人になった二人の、その後の物語。


二人が始まる前から、始まったその後までを一冊にまとめました。

掲載本編5万字以上に加え、書き下ろし4話・約4.7万字を収録!


合計9.7万字以上の完全版。



▼ BOOTHで販売中

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