第9話 険悪な雰囲気
最近、空気がおかしい。
それは、近頃の花屋の雰囲気を評して音弥が思うことだ。
いや、「花屋の雰囲気」というより、花屋の連中が自分を見る「目」に違和感がある。
何か、自分の知らない共通認識が全員の中にあるようだ。それが感じられて、どうしようもなく神経を苛立たせる。
「おい」
パーテーションの奥でゴミ袋を変えようとしていた背中を見下ろし、振り返った顔を音弥は上から睨んだ。
普段は鼻につく程まっすぐに見返してくる目が、一度合った視線を僅かに逸らす。それがまた苛立ちに拍車をかけた。
「ちょっと顔貸せ」
花屋は狭い。ここで話せば筒抜けだ。
音弥は、表情の読めない新入りを外の廊下の端に連れ出した。
花屋の入口近くのものとは別に、こちらにはもう少し狭い非常用の階段が用意されている。
だが、ただでさえ花屋以外にはテナントもいないビルだ。古く錆びついた非常階段を使う人間は誰もいない。
自然、ここなら誰にも邪魔されずに話をすることができる。
何も言わずについてきた新入りは、音弥が足を止めた少し後ろで立ち止まった。
「お前、何か知ってんだろ。話せ」
こうして眉間に力を入れると、普段よりさらに凶悪なツラになることは知っている。それでもこうするのは、あえてだ。
こちらの苛立ちをダイレクトに伝えることができる。
何を、とは言わなかったが、音弥が言わんとすることを相手は理解したようだった。珍しく俯き、考えるようにして黙り込む。
ようやく口を開いた新入りは、「―――少し前のことですけど、」と話し始めた。
「花屋に奈菜子ちゃんが来て、花を依頼していったんです」
思わぬ話に、はあ? と音弥は眉を跳ね上げた。
「花の依頼だあ? 奈菜子が? 何の」
「それは……、「音弥さんの花」です」
「俺の花? 何の話だよ、それは」
「今度のコンクール、音弥さんに演奏を聴きに来てほしいそうです。演奏を聴いて、花をもらいたいと。奈菜子ちゃんが依頼したのは、演奏後に壇上で音弥さんからもらう花です」
「はあ? 何だそりゃ。そんな花を奈菜子が依頼したってのか? ハッ、冗談だろ」
何かと思えば。
話が馬鹿馬鹿し過ぎて笑いが込み上げてくる。ふざけているとしか思えない。
だが、つま先は勝手に地面を叩き始める。
「奈菜子のやつ、頭でもおかしくなったか」
「それだけ、演奏を聴いてほしいってことでしょう、音弥さんに」
「だからって、わざわざ依頼するか? そんなもん、花屋に」
そう、ここは花屋だ。依頼された花なら、どんなものでも手配する。
それがたとえ、人の「心」だったとしても。
誰かの花というものは、人の心を買う―――いや、「売る」依頼だ。そのことの意味をこの新入りは分かっていない。だから、そんなことを簡単に言える。
「普通にお願いされるだけじゃ、音弥さんは絶対に聴きに行かないでしょう。現に断ってたじゃないですか、前に」
「だからだよ。行かねえって言ってるもん、なんでわざわざ花の依頼を寄越してまで来させようとすんだ! 気に食わねえな」
吐き捨てるように言って、ふいに思い出したことがあった。
菫が言っていたのは、これだな。あの野郎、何考えてやがる。
そして、何を思っているのか分からない顔でそこに佇む新入りに、低い声で確認する。
「―――あいつ、そんなふざけた依頼を本当に引き受けたのか」
当然、怜のことだ。花屋の社長であるあいつが引き受けない限り、契約として成立しない。
それが分かっているだろう新入りも、小さくため息をついて、頷きながら答えた。
「そうじゃなかったら、こんな話してません。―――ついでに言っておくと、俺に何とかしろと言われました」
「はあ? お前がやれって? 俺に奈菜子への花を用意させることをか? 本気かよ。あいつ、相当イカれてやがるな」
ハッ、と笑って言って、
「お前にこの俺をどうこうできると思うなよ。そんな依頼、さっさと断ることだな」
どん、と肩をぶつけて新入りの横を通り過ぎる。
こいつが悪いわけではないということは、百も承知だ。先程ついたため息は、こいつもこいつなりに考える部分があるということだろう。
だが、いけ好かないことはいけ好かないし、気に入らないことは気に入らない。
―――あいつも、何だってそんな依頼を寄越すんだ。
渦巻く苛立ちが一体誰に対するものなのか、音弥はもうそれも分からなくなっていた。
◇ ◇ ◇
怜と話したのは、音弥に呼び出されてからすぐのことだ。
「一葉くん、ご飯行かない?」
帰ろうとしていた一葉を見上げて、唐突に怜が言った。
ソファで読んでいた夕刊を畳むと、こちらの返事も待たずに外に出て行く。
何か、話があるのだろうか。
任せると言われた依頼のことか、それとも―――。
花屋を出て、先を歩く背に黙ったままついて歩く。
気付けば五月も終わりだ。通りに流れる風は生ぬるい。
怜が「ここでいい?」と暖簾をよけて入ったのは、入口に呑み屋の提灯が下がった小さな店だった。店内はこじんまりとしていて、カウンターの向こうにいるのは大将だけのようだ。
怜は慣れた様子で奥の二人席の椅子を引くと、生ビールを注文した。「一葉くんはどうする?」と聞かれて、注文を取りに来た大将に「ウーロン茶をお願いします」と伝える。
「とりあえず、乾杯しようか」
「はい」
注文した飲み物はすぐに出てきた。一口飲んで箸を割る。
お通しのなめたけの冷奴をつつきながら、怜が言った。
「どう? 奈菜子ちゃんの依頼の方は。順調?」
やっぱり、そっちか。
思った途端肩の力が抜け、何のものか分からない短い息が漏れる。
大将がやって来て、他にもいくつか注文した品を置いていった。
「―――俺にどうこうできると思うな、と言われました」
「あ、直接依頼のこと話したの?」
「いけませんでしたか?」
質問に質問で返す。だが怜は、特に気を悪くした風もなく、むしろ楽しそうに笑った。
「ああ、いいよ。好きにやってくれれば。それにしても、音弥らしいね。そう言うと思ったよ」
けれど、一葉の口から漏れるのは固い言葉だけで。
「―――それが分かっているなら、なんで俺にやれなんて言ったんですか」




