第8話 迷い
「これ、どうぞ」
言って、すぐそこの自販機で買った缶コーヒーを差し出す。奥さんは濡れたハンカチで額の辺りを押さえながら、ありがとう、と受け取った。
「すみません、ハンカチとか、持ってなくて」
押さえるハンカチを見て小さく謝る。
投げられた何かが当たったのだろう、赤く腫れた額を痛そうに押さえながら、奥さんが自らのハンカチを濡らしに行ったのは先程のことだ。
「いいのよ、気にしないで。男の子なんてそんなものでしょう」
ふふ、と穏やかに笑って、首を振る。
病室から少し離れた休憩室だ。静かなのは他と変わらないが、自販機がいくつか設置され、開けた空間になっているため、他よりは話しやすい。
「ごめんなさいね、せっかくお花を届けてくれたのに」
「いえ」
「ここ最近落ち着いていたんだけど、今日はちょっと、調子が悪いみたいなの」
「そうですか」
申し訳なさそうに言う奥さんにそれ以上言えることが無く、一葉は小さく頭を下げることしかできない。
普段は比較的穏やかな吉野さんだが、時々、ああして暴れることがある。そういう時の吉野さんは、簡単には手がつけられない。
何がきっかけでそうなるのか一葉には分からないが、それが誰であっても、そういう時の吉野さんは目の前にいるのが誰なのか、ここはどこで、自分がどうしてここにいるのか、何も分からなくなってしまうようだ。
見舞いに来て、吉野さんがそういう状態の時、一葉はナースステーションに花を預けることにしていた。
それでいいのか分からないが、それ以上にどう見舞えばいいのか分からない。
そもそも、何が「お見舞い」というものの正解なのか、未だに分からないでいる。
ただ、吉野さんには元気で笑っていてほしい、とそう思うだけだ。
そんなことを思っていると、「あらやだ、ごめんなさいね」と急に慌てたように奥さんが立ち上がった。
「そういえば、ちゃんと自己紹介もしていなかったわね。枳殻と申します。いつも母の見舞いに来ていただいてありがとう」
頭を下げられて、一葉も「ああ、いえ」とよく分からないことを返しながら、同じように頭を下げた。そして、思わず聞き返す。
「―――え、お母さん、ですか?」
「ええ、吉野文江は私の母よ」
言われて、ああ、そうか、と気付いた。
枳殻は旦那さんの姓か。名字が違うから、親子だとは思わなかった。
そう納得しながら、これはあれか、こっちも返した方がいいか、と言葉を付け足す。
「俺……、ああ、いえ、僕は由良といいます。由良一葉です」
名乗ると、一瞬奥さんが表情を止めた。
「何か……?」
「―――ああ、いえ。そう、カズハさんというのね、あなたのお名前」
それまでのものと変わって、笑顔がどこか弱々しいものになる。
「そんなに多くない名前だと思っていたけれど、そうでもないのね……」
「あの―――?」
「いえ、こちらの話よ」
弱く笑った奥さんはそこで頭を振り、「ああ、そうだわ」と言葉を変えた。
「そのお花、よかったら私から渡しておきましょうか。今は少し落ち着いたと思うけど、やっぱり、ね。あなたにも気を遣わせてしまうと思うから」
そう手を差し出され、一葉は持っていた花を見下ろした。いいんだろうかと思いつつ、
「ええと、それじゃあ……」
お願いします、と花を渡してしまう。
どうせナースステーションに預けているのだ。ここでお願いしても変わらない。
受け取った奥さんが快く頷いてくれる。そして、違う意味に短く息をついて言った。
「私も、本当はもっと会いに来られたらいいんだけど、なかなか忙しくて、仕事の無い水曜日にしか病院に来られないのよ」
そうなんですね、と頷きながら、そういえば「見舞いの花」も水曜日の依頼だな、それはなんでだろう、と今更ながらに一葉は思った。
―――いや、待て。
そもそも、「見舞いの花」の依頼は家族からのものではなかったか。家族である枳殻さんが依頼したのでないなら、花屋に「見舞いの花」を依頼したのは誰だ。
思いかけたところで、「ところで、何かあったの?」と奥さんに話しかけられ、意識がこちらに戻ってくる。
「え?」
「今日会った時から思っていたのよ、いつもより顔色が暗いなって。何か悩んでいることでもあるのかしら、てね」
花を受け取りながら唐突にそんなことを言われ、一葉は止まった。
そんなに、顔に出ていたのだろうか。
だが、それを言う奥さんの表情はどこまでも優しい。だからかもしれない。
「生きていればいろんなことがあるけど、あなたの悩みも早く解決するといいわね」
こちらを気遣うようにそう続いた言葉に、思わず吐露してしまっていた。
「……少し、どうしようか迷っていることがあって。このままでいても平気なんですけど、本当にそれでいいのかって思う自分もいて。どうするのが正解なのか、分からないんです」
呟くように言った一葉に、どこか遠くを見るようにして考えていた奥さんは、優しい笑顔をさらに深めてこう言った。
「もう随分会っていないけど、私にもあなたくらいの子がいるの。もし私があなたのお母さんだったら、きっとこう言うと思うわ。後悔しない方を選びなさい。間違えてもいいの。失敗は成功のもと、とも言うでしょう? それが正解じゃなくたって、あの時の選択は自分にとって必要なものだった、この先の自分自身にそう言える方を選びなさい」
まっすぐに答えてくれる奥さんの表情は、やはり優しい。
だから、それがどこか泣きそうなものに見えたのは、きっと一葉の気のせいだったのだろう。
一葉の言う「迷っていること」、最近の怜に対する態度と何か関係があるのでしょうか。
一葉がそれを明かすまで、もう少しお付き合いください。




