第6話 燻っているもの
朝は晴れていたように思うが、いつの間にか空は厚い雲で覆われていた。
雨が降り出しそうな気配があるわけではない。ただ、すっきりしない天気だ。
一葉は花屋を出ると、踏切を越えて駅前のロータリーに向かった。
手狭なロータリーには、バスやタクシーを待つ人の列に加え、行き交う人々でそれなりに溢れている。そんな人々の間を、ティッシュ配りがさらに練り歩いている。
その中に入る気にはなれず、一葉は少し離れたところからそれを眺めた。
チラシを持つのとは反対の手をズボンのポケットに突っ込み、後ろのシャッターにもたれる。ガシャン……という特有の音が小さく鳴った。
何をしてるんだ、俺は。
逃げるように花屋から出てきた。チラシ配りはただの口実だ。
何が引っかかったのか、自分でも分からない。
いや、「何が」など、そもそも最初から無いのだ。どう扱えばいいのか分からなくて消化できずにいるものが、奥底にずっと燻ぶっている。
片手を突っ込んだポケットの中で、紙片を握りしめた。
とりあえずは、そこに入れることはするのだ。だが結局、出せないまま一日が終わる。その繰り返しだ。
ふと目をやったそばの電柱に、ポスターが張られているのが見えた。
日本ピアノコンクール。
広いステージの真ん中でピアノに向かう横顔、そんな女性の姿が映ったポスターだ。端の方に、特別審査員である「枳殻夫妻」の顔写真も載っている。
この人は―――。
そこにあった顔に、数瞬前まであった鬱屈とした気分が一瞬だけ消えた。
枳殻夫妻の奥さんの方―――それは、吉野さんの見舞いで時々見かける、あの女性だ。
思って、そしてまた、ふっと暗い気持ちになる。
この街で知らない人はいないという夫妻。それを教えてくれたのも、怜だった。
ふいに、「あ!」という高い声が聞こえてきたのはその時だ。
耳に入った声に意識が向くまでの間に、「かずお兄ちゃん!」と、その声が続く。
「―――ああ、宙ちゃん。菫さん」
「一葉くん。何してんの、こんなとこで」
「床の間を飾る花」の納品に行っていたはずの菫だ。宙と手をつないで、こちらにやって来る。
「ちょっと、チラシを配りに」
「チラシって花屋の? 一人で?」
周りを見回しながらの言葉に、「手が空いていたので」と返しておく。
「菫さんこそ、どうしたんですか。今日は依頼人とそのままゆっくりお茶するって言ってたのに」
「それが、宙が熱を出したって連絡があって。今迎えに行ってきたとこなのよ」
「宙、おねつでちゃったの」
菫のあとに続ける宙は、マスクをしている。動物の柄が入った子ども用のものだ。「かわいいでしょ?」とほのかに笑いながら話すところを見ると、熱があると言ってもひどいわけではなさそうだ。
「そうなんだ、宙ちゃん大丈夫?」
「うん、だいじょうぶ。ちょっとのどがいたいだけだよ」
「そっか。よかった」
ポンポンと空いていた手で頭を撫でてやると、くすぐったそうに宙は首をすくめた。それを見ていた菫が、「前にも思ったんだけど、」と首を傾げる。
「一葉くんって、子どもの扱いに慣れてるよね。兄弟でもいる?」
聞かれて、少々答えが止まる。
ありのままを話したところで、空気が暗くなることは知っている。わざわざそんなことをする必要もない。
「ああ、まあ、そんなところです」
「ふーん」
呟く菫はそれ以上を追求しようとはしない。少し前に一葉がそうしていたように、駅前を忙しなく行き交う人々の方に目をやる。
ちょうど、バスが入ってきた。乗っていた人々を一斉に排出すると、バスは待っていた列を代わりに吸い込んでいく。
「―――ねえ、ずっと聞きたかったんだけどさ」
宙と手を繋いだ菫が、また出発していくバスを眺めながら言った。
「花屋って、普通のとこじゃないでしょ? 名前からして、花置いてないくせに花屋って何なのよ、て感じだし」
「はあ……」
「でも、そんなところでも、花屋が成り立つのには成り立つなりの理由があるとも思ってるのね、私は。シャチョーが、こんな街であえてそんなものをやってる理由も。でも、一葉くんは?」
「え?」
「なんで一葉くんは、こっち側にいんの?」
遠くで踏切の警報が鳴る音が聞こえた。もうすぐ、電車が入ってくるのだろう。
それは、問い詰めるような口調ではなく。純粋に、不思議で仕方がないという顔。だが。
そんなこと、聞かれても。
答えを求めていたわけではないのだろう菫は「まあ、いいんだけどね」と言って、「宙、行くよ」と繋いでいた手を引いた。
こちらに背を向けて渡っていく菫の背と、一度振り返って手を振り、また菫の横に戻っていく宙の背が遠のいていく。
それを見ながら、一葉は再びズボンの中の紙切れを握りしめていた。
俺は、いたいと思ってここにいるわけじゃない。でも―――。
他に行きたいところが、あるわけでもない―――。
「それじゃあ、本気でうちに花を依頼するってことだね?」
「はい、お願いします」
確認のように尋ねた怜に、はっきりとした口調で奈菜子が答える。
花屋には今、音弥はいない。結局、何だかんだと悪態をつきながら完成させたプロポーズの花の納品に行っているのだ。
「なに、いつの間にそういう話になってたわけ?」
話している二人を横目に、小さく聞いてきたのは菫だ。少し前です、と事情を説明する一葉に、「それで、シャチョーはその時断らなかったの?」と片眉を上げた。
「一度考え直すようには言ってましたけど、結局依頼することにしたみたいですね」
「ふーん」
「そういえば、宙ちゃん、よくなりましたか?」
朝になると下がっているらしいが、保育園に連れていくとまた微妙に熱が出る。あのあとも何度か呼び出しを受けていた菫は、昨日と一昨日を休んでいた。
「様子見て、昨日一日熱は無かったからもう大丈夫だと思うんだけどね。子どもの熱は予測できないのよね」
「そうですね」
そんな話をしていると、「一葉くん、」と怜に呼ばれた。ひと呼吸置いて、「はい」と返事をする。
「何ですか」
「今回の奈菜子ちゃんの依頼、一葉くんにお願いしようと思うんだけど、大丈夫かな」
「―――え、俺が?」
なんで。
怜の近くで奈菜子も同じように眉根を寄せている。その人選が理解できないと言いたそうな顔だ。
「前にも言ったでしょ? こういうものには適材適所があるって。相手はあの音弥だからね。多分、俺や菫ちゃんが何かやろうとすると逆効果だと思うんだ。一葉くんに立ってもらうのが一番いい」
そうだとしても―――。
思うが、一葉の内心など関係なく、ポンと軽く肩を叩かれる。
「方法は何でもいい。壇上の奈菜子ちゃんに音弥が渡す花、その状況をつくることができれば。一葉くんには、それができるはすだ。奈菜子ちゃんも、いいね?」
怜が奈菜子にあえてそう言ったのは、そこに対して意見は受け付けないという意味だったのだろうと思う。奈菜子は何か言いたそうにしていたが、それでも「分かりました」と頷いた。
「よし。じゃあ、決まりだ」
怜はいつもと変わらず人懐っこく笑っているが、その瞳と目を合わせることができない。
ここしばらくずっと続いているその不自然さに、怜はとっくに気付いているはずだが、「任せたよ」とだけ言って、一葉の前を通り過ぎていった。




