第5話 依頼の余波
ビルを出ていく奈菜子を窓から見送って、怜は「青春だねえ」と呟くように笑った。
「下手くそだけど、一生懸命な感じが」
青春。
その単語を口の中だけで呟く。青春というものが何なのか、一葉にはあまりピンとこない。
窓の外を見やったまま、怜は瞳を細めている。
「―――羨ましいんですか?」
言うと、怜がこちらを振り返った。その瞳には不思議な色が宿っている。
「面白いことを言うね。そう見えた?」
「違いましたか?」
怜はそれには答えず、はは、と笑うと、「一葉くんは、まだ青春真っ盛りだね」とまたおかしなことを言い始めた。万年青は、そんなやり取りをただ静かに聞いている。
「俺は、学生じゃありませんけど」
「別に、学生であることが青春ってわけじゃないと思うよ? 未来に縛られてない感じっていうか、真っ直ぐで、一生懸命で、今を生きてますって感じっていうかね。そういうのが青春じゃないかな。若いよね」
混じり気のない笑顔で、そう言われる。
一葉は怜から目を逸らした。手近にあった花屋のチラシを、用もないのに適当にパラパラと捲る。
「怜さんにもそういう時はあったでしょう」
細めた瞳を、怜がさらに細くしたのが分かった。見えないどこか遠くを見ているような感じだ。
「あったかな、忘れちゃったな。でも、あったとして、俺の場合、覚えてる程価値のあるものでもなかったかもしれないな」
チラシを捲っていた手が止まる。
それは、忘れてしまいたいということだろうか、その時代を。
「―――怜さんは、その頃の自分が嫌いなんですね」
言って、そこにあったチラシの束を手に取る。
「これ、配るんですよね。場所は駅前でいいですか?」
話を打ち切るように言った言葉に、「うん、ありがとう」と答えた怜の声は、微かに笑みを含んでいた。
適当に掴んだそれを脇に挟んで、入口に向かう。音弥はまだ戻ってきていない。
着替えて戻れば、またプロポーズの花に頭を掻きむしるのだろう。いない間にあった話など、何も知らずに。
外に出る間際に、一葉は振り返った。
「さっきの依頼、どうするんですか?」
「うん?」
「多分、諦めてないと思いますけど」
一旦は引き下がったが、あれは納得しているという顔ではなかった。元より、あれくらいで考え直すのなら、初めから花を依頼しようだなんて思っていないだろう。
「うーん、どうしようね」
考えるように言った怜は、「まあ、」と続けた。
「もう一回来たら、考えるよ」
「―――そうですか」
怜がどうするつもりなのか、答えを求めていたわけではない。それだけ聞いて、一葉は外に出た。
◇ ◇ ◇
話を終わらせたかったらしい一葉が、チラシを配りに外に出たあとだ。
脇に新聞を挟んだままパーテーションの向こうにコーヒーを淹れに行くと、万年青が先に淹れて待っていてくれた。「俺も大概だと思いますが、」と思わず苦笑いしながら、怜は片腕を組む。
「万年青さんも、物事の二、三歩先を行く人ですね」
「ふふ、こういうことには目ざといもので。すみません」
「いえ、ありがとうございます」
笑顔で軽く頭を下げて、湯気の揺れるコーヒーを受け取る。
「―――少し前と、変わりましたね」
そちらは自らの湯呑だ。急須を傾けてゆっくりとお茶を注ぐ万年青が、目は手元に向けたまま穏やかに言った。
変わった、という対象が誰なのかは確認する必要もない。
「そうですね、いい傾向です」
瓦屋の豆の良さをこれ程活かせるのは万年青さんしかいないな―――と、受け取ったコーヒーを傾けてそんなことを思いながら、怜はふっと笑った。
本当に万年青の言う通りである。その頃の自分が嫌いなんですね―――、あんな、感情を露にしたような言葉を口にするようになるとは。
「このまま、いい方に転がってくれるといいんですけどね」
笑って言う怜に、ふと万年青がこちらに視線を向ける。
「社長にとっての「いい方」とは、どちらですか?」
何気なく言われた言葉に、一瞬時が止まった。
だが、それはほんの一瞬。なぜなら、自分にとっての答えは既に決まっている。
「―――そうですね、多分、万年青さんが考えているのと同じ方だと思います」
「そうですか」
いつもと変わらず穏やかに笑う万年青は、それ以上何も言うことはしない。手元に視線を戻し、「新作が出てまして、つい買ってしまいました。お一ついかがですか?」と千元堂のひよこ丸を勧めてくれる。
それを「それじゃあ、いただきます」と受け取り、ひょいと口に放り込んだ。瑞々しいマスカットで口の中がいっぱいになる。
「おっ、マスカットまるごと入れたか。斬新だな。でも、ひよこ丸の良さを潰すどころか、逆に引き立てているところが、さすが千元堂ですね」
「ですね」
言い合って、それぞれコーヒーとお茶を傾ける。
それで、会話は終わった。




