第4話 花の依頼
怜が「―――で、」と落ち着いた口調で言ったのは、音弥の背が完全に見えなくなってからだった。
「音弥を外に出して、奈菜子ちゃんは一体何の話をするためにこんなものを用意したのかな」
言って、空になったカップを軽く振る。今しがた、奈菜子が音弥の上に落としたドリンクのカップだ。側面には弾けた黒い飛沫が点々と走っている。
奈菜子はコーラの海を拭いていた手を止め、落ち着いた顔で怜を振り返った。
「気付いてましたか」
「そりゃあね。だって、イメージ湧かなさ過ぎでしょ。お嬢様がファストフードって」
言いながら、拾ったカップをローテーブルに置く。
よいしょ、と再びソファに腰かけると、怜は「それに」と続けた。
「奈菜子ちゃん、普段差し入れなんて持ってくるような子じゃないし」
ああ、そういうことか。つまり、最初からそうするつもりで。
広がったコーラを片付けにかかりながら、一葉は他人事のように思った。
「音弥はあの性格だから、違和感なんて感じてないと思うけどね。いつやるのかなと思って見てる間に、全部食べきっちゃったよ」
「それはいいです。どうせ差し入れなので」
そのわりには随分美味しそうに食べていたような。
応接スペースのローテーブルの上には、食べ終わったゴミが置かれている。怜が取り出した二セット分、全てだ。
「それにしても、よく注文できたね。奈菜子ちゃん、こういうものの買い方なんて知ってたの?」
「バカにしないでください。それくらい調べれば分かります」
デスクの上を拭きながら奈菜子が返すが、全く飲まれていない状態で弾けたコーラだ。なかなか、一度で拭ききれる量ではない。
一度布巾を洗って、拭き直した方がいい。
そう思って腰を上げたところで、万年青が戻った声が聞こえた。
「おやおや、これは大変ですね」
床にも広がるコーラを見て、千元堂の紙袋を下げていた万年青が急いでこちらにやって来る。
最初の日に食べたひよこ丸もそうだが、花屋にストックされているお菓子は、千元堂のものであることが多い。それを自席に置いて、袖のボタンを外してシャツをまくり上げる万年青に、「大丈夫ですよ」と一葉は手を挙げた。
「俺がやっておきますから」
「おや、そうですか?」
「奈菜子ちゃんも。話があるんじゃないの? してきたら」
言って、一葉は布巾をまとめて手に取った。吸収できるだけ吸収しきって重くなった布巾を持って、パーテーションの方に足を向ける。
その後ろで、「それで、どうしたの?」と尋ねる怜の声が聞こえた。
「音弥が戻ってくるまでに話を済ませたいなら、急いだ方がいいよ?」
一葉の背を追いかけるように見ていた目が、少しの逡巡の後に振り返ったのが分かった。少しの間をあけて、答える声が聞こえる。
「依頼に来ました」
「依頼? 奈菜子ちゃんが? うちに? 何の」
「ここは花屋でしょう。依頼って言ったら花の依頼以外に無いと思いますけど」
「そうだけど、ここがどんな花屋かは知ってるよね? 奈菜子ちゃんみたいな子が、こんなところで何を依頼するって言うのかな」
「私が欲しいのは、「音弥君の花」です」
ちょうど、パーテーションからこちらに戻った時だ。強い眼差しとはっきりとした口調で、奈菜子がそう言うのが見えた。
「正確には、「コンクールの舞台上で音弥君にもらう花」です」
「ああ、なるほど。そう来たか」
呟いて、怜は腕を組む。
「つまり、何がなんでも、奈菜子ちゃんは音弥をコンクールに来させたいわけだ」
「来てもらうことが目的じゃありません。私がここに花を依頼したいのは、音弥君に私の演奏を聴いてもらいたいからです」
デスクと床を拭き直す耳に、そんなやり取りが入ってくる。
コンクールに出場するから聴きに来てほしいと奈菜子が音弥に言っていたのは、少し前のことだ。
だが、怜はあくまでも冷静な声で奈菜子に返す。
「なんでそうまでして聴かせたいのかな。コンクールでの花なら「音弥の花」なんかよりも「優勝の花」の方がいいんじゃない?」
「そんなもの、わざわざ依頼しなくても獲れますから。それに、そんな花をここに依頼したところで、それはただのズルでしょう」
「まあ、依頼の花のためなら、他の優勝候補にちょっと激しい腹痛起こしてもらうとか、審査員にうちの息のかかった人間を送り込むとか、そういうことはするだろうね」
奈菜子のすっきりした言い方に返しつつ、怜は、はは、と笑う。だがそこで、少し真面目な顔になって続けた。
「それじゃあ聞きたいんだけど、今そんな依頼をするのはなんで?」
「しばらく日本で演奏することが無くなるからです」
「ああ、優勝特典は留学だっけ。行く気満々なんだね」
「当然です。優勝するのは私ですから。だから、行く前に音弥くんに聴いてもらいたいんです。―――高校生の依頼なんて受け付けませんか?」
「そんなことないよ。相手が子どもだからなんて理由で、依頼を断るなんてことはしない」
子ども、というところに奈菜子の眉がぴくりと動く。それが分かった上で、怜はその単語をあえて口にしているのだ。
一葉の視界の端には、ソファで足を組んだままコーヒーを啜る怜の姿が映っている。
コーヒーを持つ手を降ろし、「まあ、真面目な話―――、」と笑みを浮かべた口が動いた。
「音弥の花、その依頼を引き受けるとして、たとえそれがうちの身内とはいえ、依頼である以上はタダじゃない。必要なものは必要になる。知ってると思うけど、うちの花はそれなりに値も張るよ。そのお金を、奈菜子ちゃんが用意できるの?」
「できます。私を誰だと思ってるんですか」
「でもそれは、自分で稼いだお金じゃないでしょ」
「だから何だって言うんですか? 私のために用意された私のお金を、私がどういう風に使ったって、私の勝手です」
「まあ、そうかもしれないけどね」
答えつつ、それでもあくまで表情を崩さない怜は「でも、それだけじゃないよ」と続けた。
「もし仮に、その花をうちが用意できたとして、だ。それは奈菜子ちゃんの気持ちを音弥が受け入れたってことにはならないと思うよ?」
「分かってます、それくらい。音弥君は、私のことをそういう風には見てないですから」
でも、だからこそ―――、と奈菜子は冷静な声で続ける。
「吹っ切るために花が欲しいんです。私は、日本に気持ちを置いていきたくありません」
「―――うん、奈菜子ちゃんは、それでいいだろうね」
頷いた怜は、だが幼い子どもに諭す大人のように奈菜子に語りかける。
「だけど、「誰かからの花」をうちに依頼するってことは、その相手の「真心」をお金で買うってことだ。そのことの意味を、奈菜子ちゃんは本当に分かってる?」
「それは……」
ここにきてたじろいだように奈菜子は言い淀んだ。畳みかけるように、「そもそも―――」と、怜が言葉を継ぐ。
「それは本当に、うちに依頼する必要がある花なのかな」
強気が服を着て歩いているような奈菜子だ。歪む表情を必死に堪えているのが分かる。
怜の声は落ち着いているし、その口調は笑みを孕んでさえいる。だが、空気が張り詰めているせいで、こちらまで息を吸うのに注意を払ってしまう程だ。
一葉は視線を落とし、ただ手を動かすことに集中した。
「別に、反対だと言ってるわけじゃないんだ。ただ、本当に必要なのか、もう一度よく考えてごらん?」
「開店祝いの花」「見舞いの花」「卒業の花」など、「何かのための花」とは違い、「誰かからの花」というのは、それを渡そうと思う気持ちをお金を使って抱かせるということになります。
怜が言う「真心をお金で買う」とはそういうことなのですが、奈菜子は果たしてどうするのでしょうか。




