第3話 奈菜子の差し入れ
「くそ、やってられるか! こんなもん」
ペンがデスクに跳ね返って飛ぶ。
打ち付けられた反動で勢いよく飛び出していったペンは、そのまま事務所の隅の方へ転がっていった。
「やめだやめだ、こんなもん! 俺には向かねえ」
放り出すように言った音弥は、デスクに広げていた紙をぐしゃりと潰して、視界から追い出すように床に打ち捨てた。
後ろ手にそれをちらと見やって、差し出された伝票にサインをする。
ちょうど宅配が届いたところで、背中に聞こえた音弥の職務放棄の声に、一葉は振り返ったところだった。
「ありがとうございます」
言って荷物を受け取り、ドアを閉める。
戻り際に、床に転がった紙くずを拾った。どうせ掃除することになる。ついでだ。
ソファで新聞を読んでいた怜が「たった三十分で投げ出すのは早いな」とコーヒー片手に笑う。目は記事を追いかけながらの言葉だ。
「向いてるか向いてないかなんて、やってみなきゃ分かんないよ?」
「やらなくても分かるだろ、こんなもん。なんで俺がプロポーズの言葉なんて考えなきゃなんねえんだよ」
音弥が投げた紙くずには、無残なシワが寄っているだけで何も書かれていない。怜の言う通り、音弥がデスクに向かってから三十分以上が経っているが、その間一文字も書かれていなかったことになる。
「仕方ないでしょ。引き受けちゃったんだから」
「ああ? だったらお前がやれよ」
「嫌だよ。歯の浮くようなセリフなんて考えられないし、俺。そういうの向いてないから」
「お前……」
ぎりり……と噛み締める音が聞こえてきそうな程、音弥が忌々しそうに顔をしかめる。
二人が話しているのは、「プロポーズの花」のことだ。
彼女が感動するようなシチュエーションと言葉で最高の花を渡したい、という「プロポーズの花」の依頼があり、引き受けたはずの怜からほぼ丸投げといっていい状態で任されることになった音弥が、先程から頭を掻きむしっているという状況である。
菫は定期的に入る「床の間を飾る花」の納品に出ており、万年青はどこかに出かけているのか、席を外している。
何だかんだと言い合う二人の会話を聞き流しながら戻り、宅配業者から受け取った荷物を開く。
中を検めていたところで、再びドアが動く音が聞こえた。だが、手が塞がっているのか、真鍮のドアノブは空回るだけで、外にいる人間は一向に入ってこない。
席を立って入口に向かった一葉は、こちら側からドアを引いた。
「あ……」
両手に荷物を下げているせいで押さえにくそうにしていた奈菜子が、ひと息つくようにしてドアから手を離す。
「これ、差し入れです」
それだけ言って、両手に下げていた袋をずいと差し出された。反射的に受け取ってしまった一葉が何か言う前に、奈菜子はさっさと中に入っていく。
「音弥君」
「あ、奈菜子ちゃんだ。いらっしゃい」と、笑顔で言った怜のことは完全スルーで、奈菜子は音弥の方に足を向けた。対する音弥は、ため息でもつきそうな顔で思い切り眉間にシワを寄せる。
「またお前かよ。お嬢様学校ってのは暇なのか? 授業ねえのかよ」
「今試験中だから、終わるの早いのよ。別にサボってるわけじゃないから心配しないで」
「別に心配なんかしてねえ」
音弥しか見ていない奈菜子に、「相変わらず、気持ちいいくらいのスルーだね」と、その光景を楽しむように怜が笑う。音弥と奈菜子の方に目を向けたまま、一葉はただ「そうですね」と答えた。
「これ、差し入れだそうです」
「お、珍しいね。どうしたの」
奈菜子に向かって言いながらも、怜は早くも袋の中を漁り始める。ファストフードのロゴが入ったドリンクとポテト、あとは恐らくハンバーガーが入った袋だ。
「別に。たまたま近くを通ったので」
「そうなんだ。ちょうどお腹空いてたところだったんだ、ありがとう」
素っ気なく答える奈菜子に言って、怜は嬉々とした表情でそれらを二つずつ取り出す。高校生からの差し入れを喜んで受け取るってどうなんだ、と思いながら眺めていた一葉を、そこで怜の目が見上げた。
「うん?」
「……いえ、別に」
が、一葉はそれだけ返して、さっさとその場を離れる。
そうでなくても、今日は怜とは顔を合わせづらい。こういう時は離れていた方が楽だ。変に何かを考えなくて済む。
自席に戻り、宅配の箱を潰す。そうしている間も、視界の端にハンバーガーとポテトを頬張る怜が見えた。
フタを外したボトルから直接ドリンクを飲み、がりごりと氷を砕く音が聞こえる。それが消えると、またポテトを手に取る。一本ではなく、三本が一気に放り込まれるのが見えた。
ローテーブルに置いた袋の中から、同じように奈菜子もドリンクを取り出している。それを横目に見ながら、一葉は潰した箱を捨てに席を立った。
「きゃ……っ!」
が、息を呑む声と共に、バシャンッ、と水が勢いよく弾ける音が響いたのはその時だ。同時に「おい、何してんだよ!」という怒号に近い音弥の叫びが上がる。
一葉は短く息をつき、箱を捨てに来ていたパーテーションの裏側から、手近な布巾をいくつか掴んでデスクの方に戻った。
音弥に渡そうとした拍子に手でも滑らせたのか、デスクと床の上には氷とコーラの薄茶色の海が広がっている。
コーラを零した奈菜子本人は足元だけだが、一番近くにいた音弥はもろに被害を被ったらしい。Tシャツとズボンに濡れた染みが広がっている。
「あちゃー」
緊張感の無い間延びした声は怜のものだ。言う間も、二つ目のハンバーガーを食べる手を止めようとはしない。
「ごめんなさい!」
ナプキンで拭こうとしているが、とてもじゃないが追いつくレベルではない。謝る奈菜子が拭こうとするのを「いい、いい。やめろ」と払って、音弥は荒々しく立ち上がった。
「帰って着替えてくる」
そのまま振り返りもせず、音弥が出て行く。
だが、ナプキンを手にしたままその背を見送る奈菜子の顔は、どうしてか静かなものだった。




