第2話 休みの過ごし方
電車に揺られながら、一葉は扉脇の壁にもたれて窓の外を眺めた。
少しずつ見慣れた景色に近付いていく気配に、意思に関係なく懐かしさのようなものを覚える。
施設の園長から「話したいことがあるから来てほしい」という電話をもらったのは、一時間程前のことだった。
唐突過ぎる話にも特に考えることなく返事ができたのは、今日が一日空いていたからに他ならない。
平日も休日も関係ない花屋には、休みが無い。特に希望しない限り、毎日が出勤日だ。
が、先日、それがダメだと言われた。
「さすがに一日も休まないのは、ね。労基法とか、今厳しいから」
それを言うなら、そもそも会社として休日を定めていない時点で問題なんじゃないか、と思わなくもなかったが、社長にそう言われれば従うより他ない。
だが、休め、と言われても、逆に何をしたらいいのか。
「行きたいところとか、会いたい人とかいないの?」
その時も言われたことを思い出しながら、その日、起き上がった一葉はベッドから足を下ろした。
立ち上がると、古い畳がぎし……と鈍く軋む。
安アパートの古い一室。施設を出てから住み始めた部屋だ。ちょうど一年になる。
ベッドの他には、冷蔵庫と小さなこたつ机、適当に服を突っ込んだ衣装ケースがあるくらいで、他には特に何も無い。
人に言わせれば殺風景な部屋だと評されそうだが、むしろ他に何を置く必要がある、とも思う。食べて、寝て、生きていく上で最低限必要なことができる場所があれば、それで十分だ。
とりあえず、一葉は起き上がったその足で顔を洗い、着替えを済ませた。だが、それが終わればもうやることはない。
困った。どうする。
ぐるりと部屋を見回して、ああ、と思い出した。
こたつ机の上に置きっぱなしにしていた宙からもらった花を取り、ゴミ袋の中から比較的きれいな空き缶を探し出して、そこに挿す。
備え付けの古い靴箱の上に置くと、どこかカビ臭かった部屋に初めて明るい色が差したようになった。
ベッドの上に放っていたケータイが「ヴヴ―――……」と低い唸り声をあげたのは、そんな時だった。
手に取って画面を確認しようとする間も、ケータイは振動し続けている。
ああ、
表示された相手を確認して、思わず息がもれた。
ここ数日、何度か着信が入っていたことは知っている。いずれも、気付いたのは着信があってからしばらく経ったあとで、かけ直そうと思って結局そのままになっていたことを思い出す。
「はい、もしもし―――」
やりたいことも特に無く、ただ時間が過ぎるのを待つだけになりそうだったその日。
そうしてできた予定に、一葉が安アパートの部屋を出たのは、それからいくらも経たないうちだった。
施設の玄関脇には、目印のようなイチョウの木が一本植わっている。
元々園庭の方にあったのを、何年か前にその場所に移し替えたものだ。
秋になれば、銀杏の実のあの独特なニオイが充満し、朝夕の登下校時には毎回顔をしかめていたな―――と、窓の向こうに見えるその木に、一葉はそんなことを思っていた。
「どう? 最近は」
そう言いながら、園長先生がお茶を淹れてくれる。
施設の園長室のソファに、向かい合って座ったところだ。
そう広くはない園長室には、ファイルが詰まった戸棚に執務用のデスクと、最低限のものだけが置かれている。その様子は、記憶にあるものと寸分違わない。
出してもらったお茶を「すみません」と首を下げて受け取りながら、
「そうですね、まあそこそこです」
そう返すと、同じく自分の分のお茶を淹れていた園長先生は、「変わらないわねえ、一葉くんは」と、以前と変わらず目尻のシワを深くして笑った。
「今は、どうしているの?」
「花屋で働いています」
「花屋? 花屋って、あの花屋?」
意外そうに聞き返してくる園長先生は、きっと違う「花屋」を想像している。
そうは思ったが、特に否定することはせず「まあ、そんな感じです」と返しておいた。何より、説明するのが難しい。
「手紙をもらっていたのに、今まで全く連絡も寄越さずにすみません」
「ああ、いいのよ。あれは私が勝手に送ってるものだから、返事なんてくれなくても元気でやっててくれればそれで」
優しく笑う園長先生に、どうしてか一葉は目線が下がった。そのまま、言葉が途切れる。
そうして、しばしの沈黙ののち、お茶を啜ってひと呼吸置いてから、一葉は切り出した。
「それで、お話というのは」
下ろす一葉とは反対に、お茶を口に運ぼうとしていた園長先生の手が止まる。そして、一葉の顔を見、どこか不自然な間を空けてから口を開いた。
「―――玄関のところのイチョウの木、前に園庭の方から移し替えたの、覚えてる?」
「はい、覚えてます」
「近くのお宅の造園に来ていた方に、水はけが悪いところに立ってるから移した方がいいって言われてね。あの時はちょうど、玄関先に何か植えようと思ってたところだったから移し替えたのよ」
子どもたちが遊んでる時に倒れでもしたら大変と思ってね、と園長先生は続ける。だが。
「それが、何か?」
首を傾げて尋ねると、園長先生はおもむろに立ち上がった。そして、後ろの棚から、両手で持ってちょうどいいくらいの大きさの入れ物を取り出し、こちらに戻ってくる。
入れ物は古いものらしく、所々錆びついているが、元はクッキーが入っていたようなお菓子の缶のようだ。
「これね、あのイチョウの木を園庭から移し替えた時に出てきたものなの」
「はあ」
ソファに戻り、園長先生は一葉の前にその古びた缶を置いた。言葉を選びながら、というような様子で話を続ける。
「一葉くんがここに入った時、連れてきたのはお兄さんだったって前に話したでしょう。覚えてる?」
「ええ、まあ……」
一葉は答えながら不審に眉を寄せた。
話の転換が随分急だ。なぜそこでそんな話が出てくる。
だが、園長先生はそれをどう受け取ったのか、「そうね、忘れるわけないわよね」と慌てたように付け足した。
「これは多分、一葉くんを私たちのところに連れてくる前に、お兄さんが残したものだと思うの」
「―――え?」
「今まで私の方で保管してたんだけど、一葉くんも今年で二十歳でしょう? もうそろそろ頃合いかと思って連絡したのよ」
「え―――」
そんなもの。いきなり、何を。
返す言葉が出ない一葉に、それでも園長先生は缶を差し出してくる。
「遅くなっちゃったけど、これは一葉くんに返しておくわね」
あの時「いらない」と答えた、三歳当時の自分の所持品。かつての家族との繋がりは、それでもう全て捨てたつもりでいた。
なのに、こんなもの。なぜ今さら。
目の前に出された錆びだらけの缶を見ながらそう思ったが、今はそれを言うタイミングが無かった。
「処分するのも自由だし、持っておくのも自由よ。でも、一度中を見てみて。これをどうするかは、そのあとに決めなさい」




