第8話 石神コーポレーションの会長
大企業の会長という人は、年配の、いかにも「大物」という人物なのだろう、と一葉は勝手に想像していた。
だが、実際に花屋を訪れた石神コーポレーションの会長は想像していたよりもずっと若く、どっしりと構えている人物というより、すぐそばで細部にまでしっかり目を光らせていそうな、そういう油断のできない視線を持った人物だった。
「お邪魔するよ」
朗々とした声とともに入口のドアを押し開いて会長が入ってきたのは、もうそろそろ夕方という頃だった。続いて、秘書なのか、寡黙そうな男性がもう一人、その後ろを入ってくる。
躊躇いの一切ない足取りで応接スペースに向かうと、会長はどかり、と壁側のソファに腰を下ろした。
コートは着たまま、値が張りそうなスーツの長い脚を組んでソファにもたれる。その様子はまるで、このソファは自分のものだと言っているようだ。
会長には、客には必ずある遠慮というようなものが全くなく、それどころか、そう振舞って当然だと思っていることを隠そうともしない雰囲気があった。
しかし、不思議とそこに傲慢さはない。
多く見積もっても、恐らく四十代。それで大企業の会長か―――。
メガネの奥に鋭い光を湛えた会長は、怜とは違うタイプの余裕の笑みで口を開いた。
「久しぶり―――でもないか。こんな直近でまた会うことになるとは思わなかったぞ」
「俺もですよ、石神会長。できればこんなにすぐ会いたくはなかったですけどね」
すぐ―――?
首を捻った一葉が何気なく窓の外を見ると、下の通りに停まった黒いセダンが見えた。
黒光りする車体の前後には、見覚えのある黒いサングラスにスーツ姿の男が二人、周りに目を光らせるように立っている。
あの時の―――……。
年明けの「開店祝いの花」の依頼主―――、今外に停まっているのとまったく同じ黒いセダンの後部座席に乗っていた人物が、今ここにいる石神コーポレーションの会長だったということか。
「実際、会長と関わるといろいろややこしいことが多いので」
「はは、言ってくれるじゃないか、若造が。まあ座れ」
それを言うのは立場が逆だ。だが、余裕の表情でソファに座ることを勧めてくる会長に怜は何も言うことはせず、「では、お言葉に甘えて」と向かいのソファに腰を下ろした。
花屋の中には今、応接ソファに座る会長、その近くに控える秘書、そして、会長の一番近くで笑顔を浮かべている怜、応接スペースからは少し離れたデスクの方に音弥と菫と一葉という図になっていた。
万年青は先程怜から言われた通り、千元堂にお菓子を買いに行っている。
「わざわざご足労いただきましてありがとうございます」
「なにを今さら。こんな回りくどいやり方で呼び出しておいて」
「それはまあ、普通のやり方で俺なんかがコンタクトを取ろうとしたところで、そこの秘書さんに門前払いをくらうでしょう」
言いながら、怜がそばに控える秘書にチラと視線を向ける。だが、それにも会長は動じずだ。怜を見つめた目を反らすことなく、口元の笑みもそのままに言う。
「それで、要件は何だ」
「ああ、そうでした。二子建設が関わっている驚台北高校の取り壊しの件、止めてもらえます?」
あくまで軽い調子で言う。
だが、その怜に、会長の眼がギラリと光ったように一葉には見えた。
それは当然、正面にいる怜も気付いているはずである。しかし、怜の表情も笑顔のまま変わらない。
「ちょっと、今入っている依頼に差支えがありまして」
「例えば、だ。それを止めたとして、こちらに何のメリットがある」
「メリット―――とまでは言えませんね、内容的に。でも、聞きましたよ。会長、彼らに頼み事の対価を渡してるそうじゃないですか」
「それは、脅しのつもりか?」
「これを脅しと取るなら、そうなんでしょうね」
「―――ふん、随分生意気な口をきいてくれるじゃないか。俺にそんな口をきいてくるのはお前くらいだぞ。だが、そこが気に入っている」
「光栄です」
互いに口元は笑みの形を取ってはいるが、目は笑ってはいない。腹の探り合いのような会話だ。
一秒が十秒にも、一分にも感じられるような時間が流れる。
ふと、会長が脇に手を伸ばした。
組んだ長い脚はそのままに、そこに置かれていたクマのぬいぐるみを引き寄せる。
反射的に、隣の菫が短く息を吸ったのが分かった。
それは、宙のぬいぐるみだ。元々はしゃべるクマらしいが、壊れているのか、電池を換えても何も言わなくなってしまったのだという。
そのクマに目線を下げたまま、「ガキどもに渡しているものだが―――」と会長は口を開いた。
「あれは別に、対価ではない。時間を潰す場所が必要だろうと思って渡しているものだ。言ってみれば、小遣いのようなものだな。その辺をうろついて何か別の悪さをするより、その方が建全だと思わないか?」
「それは、見方によりますね」
「取り壊しを早めるのも地域のためだぞ? 大型商業施設の建設が早く進めば、その分周辺地域にも利益が生まれる。何だかんだと今は反対している連中も、結局はその恩恵を受けることになる」
クマを触っていた会長は、そんなことを話しながら背中のフタを開け、中の線を取り出し始めた。怜に向かって話しながらも、手元を見下ろしたまま顔を上げることはない。
「あくまで、止めるつもりはない、と」
「そうは言っていない。止めることで、こちらに何のメリットがあるのかと聞いている。お前のことは気に入っているが、こちらにも立場というものがある。奴らに小遣いを渡していることに知らないフリをするということだけでは、首を縦には振れないな」
「そうですか、それは困りましたね」
困った、と言いながら、組んだ片腕を顎に当てて考えるような仕草をする怜の顔は、少しも困っているものではない。
あえてそういう風にしてみせているのか、真実からくるものなのか、もはや一葉にはそれさえ分からない。
が、そこでふと「―――ああ、」と何かに気付いたように怜が顔を上げた。
「そういえば、お茶も出していませんでしたね。気が利かず、すみません」
「いらん気遣いだ。これ以上話が無ければ長居するつもりもない」
「いえ、そういうわけには。せっかく会長もお好きだと聞いている千元堂の桜みたらしを買いに行ってもらっているので。―――と、ああ、ちょうど戻ったようですね。ありがとうございます」
タイミングを計ったように入ってきたのは、お菓子を買いに行っていた万年青だ。手袋をした右手には大きな紙袋を下げている。
時期的には少しずつ暖かくなってくる頃ではあるが、冷える日はまだまだ多い。
コートを着てマフラーまで巻いているせいで、万年青はいつもの何倍も体が大きく見えた。
「申し訳ありません、なかなか混んでおりまして、少しばかり遅くなってしまいました」
「いえいえ、買いに行ってもらっちゃってすみません」
クマの背中から出した線を引いたり押したりしている会長は、そんな会話にもまるで無反応だ。
万年青が身支度を整え、お茶とともにお菓子を応接スペースに運ぶまで、それは変わらなかった。
「大変お待たせいたしました。お茶と千元堂の桜みたらしです」
いつものように膝を折ってローテーブルにそれらを置く万年青に、会長がようやく軽く目を上げる。が、そこにいる万年青の姿をひと目見た瞬間、ハッと目を瞠り、会長はクマを持ったまま僅かに腰を浮かせた。
「―――!」
「おっと、こぼれますよ」
急に腰を浮かせた足があたり、反動でローテーブルが揺れるのを、万年青が笑顔で押さえる。
どうしてか言葉が出ない様子の会長は、腰を浮かせた姿勢のまま驚愕の表情を万年青に向けている。対する万年青の方は、あくまでいつも通りの柔らかい笑顔のままだ。
「火傷でもされたら大変ですから、お気をつけくださいね。 こちらも、どうぞお召し上がりください」
言って、丁寧に頭を下げたあと、 膝を折っていた体勢から立ち上がり、パーテーションの向こうに下がっていく。その去り際、まだ表情が固まったままの会長に、万年青が意味深にふっと目を細めたように見えたのは気のせいだろうか。
「会長?」
怜の呼びかけに、会長は夢から覚めたようにハッと表情を動かした。
「……どういうことだ」
「何がです?」
「―――……、いや、いい」
何かを言いかけて、それを呑み込むように会長が言う。ひと息ついて顔を上げると、会長は元の通り余裕ある表情に戻っていた。
「周到なことだな。それでわざわざ俺をここに呼び出したわけか。お前のような若造がこの街でなぜここまで手広く商売ができるのかと思っていたが、その理由がようやく分かった」
「何の話でしょうか」
「お惚けはいらん。本題だ」
ぬいぐるみを横に置き、再び足を組むと、会長は怜を真っ直ぐに見据えた。
「お前の後ろに何がついているかは分かった。俺はこの世に怖いものなど全く無いが、自分や会社の損になるようなことをわざわざしようとも思わない。今回はお前の頼みを聞いてやろう」
「ありがとうございます」
「だが、やはりタダでいうわけにはいかん。それなりに見返りは必要だぞ。こちらは現場の動きを変える必要があるわけだからな。現場を変えれば全体の計画を変える必要性も生じてくる」
「分かってますよ。もちろんタダでいう話ではありません。それなりにお返しはします。我々の商売は、持ちつ持たれつですからね」
「ふん。止められるとして、せいぜい十日だ。それまでに終わらせておけ」
「十日もあれば十分です。我々は花屋ですから」
会長は最後にふん、と再び息をついてソファから立ち上がった。
一度ちらりと奥のパーテーションに目をやるが、そのまま何も言わずに踵を返す。そして「ああ、そうだ」と言って、怜ではなく菫を振り返った。
「あちこち掃除してくれたようでご苦労だったな。おかげでこちらも、いろいろと見直す機会になった」
そして、ソファに置かれたままの宙のぬいぐるみを目で示して言う。
「働いた分の給料はしっかり出してやる。そんなボロじゃなく、新しいおもちゃでも買ってやれ」
そう言い置いて、来た時と同様、躊躇いのない足取りで出ていく。硬い表情で頭を下げた菫を会長が見ていたかは分からない。
最後に丁寧に頭を下げて秘書が扉を閉めると、花屋の中は急に密度が軽くなった。
長くなってしまいましたが、ひと息にいってしまいたかったので、途中で切らずに1話にしました。
次回、卒業の花の「納品」です。




