第6話 続・作戦の進捗と、再びの女子高生
ホコリっぽい階段を下まで降り、花屋が入っているビルから通りに出て、菫はふうと息をついた。
空の色を見るとそれなりに明るいはずなのに、ここはどういうわけかいつも薄暗い。灰色がかったような暗さが、光と闇の境界のようにも思わせる。
平日でも休日でも、驚く程に人通りが無いことがこの場所の特徴だ。
そんな通りの中ほどにある電柱の裏からこちらに視線を向ける影を確認し、その上で、それには全く気付いていない顔で表の通りの方に向かう。
その影が、石神コーポレーションを出た時からつけてきていたことは知っている。いや、むしろその前から、同じ視線を向けられていることには気付いていた。
だからこそ、菫が花屋に足を向けたのはわざとだ。
怜に言われた通り、ホイホイ作戦に相手を引っかけるためである。
石神コーポレーションには、臨時の清掃員として入っていた。
数日前に、腐臭を放つ汚水を社内の至るところに撒かれたらしく、臨時のスタッフが必要になったらしい。
撒いた犯人は捕まっておらず、石神コーポレーションに恨みを抱く人間の仕業だろう―――、ということになっている。
撒いたのは、菫だ。
当然、清掃員として入り込むためである。
フリでもなんでも、何かを嗅ぎまわるには、清掃員が一番動きやすい。
しかし、石神コーポレーションには既に相当数の清掃スタッフがおり、そのまま待っていても新たに増員される可能性は無いに等しい。だから、きっかけを自分からつくった。
入ってしまえばこっちのものだ。あえて目につくように社内のいろんなところをうろつき、具体的に目をつけられたところで、その目を花屋に引っ張ってきた。
それ程離れていない距離をずっとつけてきていた後ろの影は、菫が表の通りに出たところでどこかに消えていった。さりげなく後ろを振り返り、そのことを確かめる。
さあ、ちゃんと報告しなさいよ。これだけ潜入捜査員を演じてあげたんだから。
簡単に会える相手ではないと言っていた。確かにその通りだろうと思う。
だからこそ、こんな方法で本当に釣れるのか、と思わなくもなかったが、そこは怜がいけると言っているのだからそうなのだろう。
花屋の社長は、勝算の無い賭けには絶対に乗らないし、乗ることで依頼人に損をさせるようなこともしない。そもそも、そんな話なら最初から断っている。
―――あの高校生たち、また来てたわよ。
それは、少し前に秘書専用のトイレでなされていた会話だ。
―――毎月ね、何なのかしら一体。
―――ああ、あの見るからにワルい感じの子たち? それ、会長がお小遣いをあげてる子たちよ。
―――お小遣い? 何ソレ。
―――さあ? なんか、必要経費って聞いたけど。
フリであっても、あちこち動いていればそんな話も耳に入ってくる。
急いで裏口に下りて、ちょうど出てくるところに間に合った。
小突き合うように石神コーポレーションから出てきたのは、制服を着た数人の少年たちだ。
間違いない。北高の生徒だ。
彼らがなぜそんなところにいたのかは不明だが、今回の件と無関係なわけがない。
そんなことがあったのを、ついでに怜に伝えておこうと思ったが、いないのなら仕方がない。
ちょうど遮断器が降り始めた踏切りを、菫は小走りで渡る。
駅前ロータリーへの短い道に入ったところで、正面の小さなカフェの窓に、怜の横顔があるのが見えた。
……婚活って聞いてたけど、場所を変えて、てやつかしら。こんなところで。
いつもの人懐っこい笑みで話す向かいには、ゆるふわヘアの女性が座っている。何を話しているのかは当然分かるわけもないが、上品に笑う彼女の様子は、いかにも楽しそうだ。
何気に口が上手い怜は、実はこれまでに何人もの女性を泣かせてきたのではないかと菫は思っている。
あの彼女も、そんな毒牙にかからなきゃいいけど。
菫は軽く首を振って、見えた窓から視線を外した。
―――そういえば、そもそも怜はなぜ急に婚活イベントに首を突っ込み始めたのだったか。
最初がいつだったのかも思い出せない程、それは既に菫の中で朧気な記憶になっていた。
◇ ◇ ◇
張り込むよう言われてからちょうど一週間というその日、一葉が角を曲がって花屋の通りに入ると、いつか見た女子高生が通りを向こう側からやって来たところだった。
あの子、この前の―――……。
その女子高生が、反対側からやって来た一葉の姿を認め、足を止める。
怪訝―――を通り越して、詰問するような鋭い視線に、一葉は思わず瞳を瞬いた。
まるで、あんたのような人間がここに何の用よ、と言っているようだ。
そんな視線を向けられる謂れは無いが、彼女は花屋の―――いや、音弥の客らしい。
軽く会釈のようなものを送っておいて、先にビルに入った一葉は、普段通りの足取りで階段を上がった。
後ろからは、一定の距離を置いて、こちらを監視するような気配を伴った細い足音が続いている。
「戻りました」
「ああ、一葉くん。おかえり」
最上階の真鍮のドアノブを回すと、ソファでコーヒーを飲んでいた怜が顔を上げた。
「ちょうど今、菫ちゃんから話を聞こうとしてたところだったんだ」
怜の向かいでは、その菫が「おかえり」と軽く手を振っている。
「―――っと、あれ? 奈菜子ちゃん?」
一葉の後ろから入ってきた女子高生に怜が呼びかけると、奈菜子と呼ばれたその女子高生は「どうも」と軽く会釈した。先程まで背中に感じていた激しく鋭利な視線が、どこかに消える。
「奈菜子ちゃん、久し振りだね。元気だった?」
「ええ、まあ」
が、明るく話しかける怜に、答える奈菜子の方はあくまで無表情だ。それは、最低限必要なレベルでの返事である。
しかし、怜に気にする様子はない。
「今日はどうしたの?」
「ここに来る用があったとして、それをいちいち社長さんに報告する必要があります?」
「うわ、相変わらず斬るねえ。言葉の刃が鋭く突き刺さるよ」
「社長さんこそ、気色悪さは相変わらずですね」
意志の強そうな瞳に、きつく結ばれた口元。
なまじ顔が整っている部類に入っているせいで、余計にそれが際立つ。
上品そうな見た目にそぐわず、どうやら彼女は相当に気の強い性格をしているらしい。
それでも、最低限の礼儀というものはあるようで、あしらうように冷たく切り返しておきながら、聞かれたことへの答えを返す気はあるようだ。
「―――日本ピアノコンクールに出場するので、音弥君に来てもらいたいと思って」
「ああ、奈菜子ちゃん、やっぱりあれ出るんだ。特別審査員に、枳殻夫妻が来るらしいね」
「ええ、だから出ることにしました。優勝するのは分かりきっているので、初めは出るまでもないかなと思ってたんですが、先生方が審査をされると聞いたので」
「奈菜子ちゃんのとこの大学の客員教授になったんだっけ、あの二人」
思い出したように付け加える怜に、奈菜子は不機嫌を露にするように眉根を寄せた。
「ちょっと、そういう軽い言い方をしないでくれます? どれだけすごい方々か知らないんですか」




